第24話
それから二週間が過ぎて、俺は六月のカレンダーを破り捨てた。
この二週間は割と平和だった。雪乃に対するいじめは相変わらずだったが、いつも通りの騒がしいクラスに戻った。
あれから一度だけ誰かがふざけて黒板に文字を書いていたようだが、あまりにもくだらない内容で誰もが素通りして、恥ずかしく思ったのかそれ以降は黒板に文字が書かれることはなかった。
雪乃の声も未だ戻らず、俺は俺で懲りずに毎日放課後に雪乃と会話をして、たまに姉と母さんのお見舞いに行く、という日々を過ごしていた。
そして再び事件が起きた。連日うだるような暑さが続き、軽く夏バテ気味だった金曜の昼。俺は弁当を食べ終わると、スマホのゲームをしていた。他にやることがなく、ゲームで時間を潰していた時にそれは起こった。
「おいなんだよこれ! 黒板に悪口書いてた犯人、デブキだったのかよ!」
その声は教室中に響き渡った。俺はゲームを中断し、声がしたほうに目を向ける。名前は忘れてしまったが、お調子者の男子が叫んだ声だった。
「おい、スマホ返せよ! 勝手に見るなよ!」
お調子者からスマホを取り返したのは、なんと小泉だ。そのやり取りを見て、俺は何が起きたのか悟った。
おそらく小泉は、見られてしまったのだ。あの日連写して撮った、伊吹の犯行現場の写真を。
「ねえ、今の話、詳しく聞かせて」
立ち上がったのは井浦だ。伊吹は自分の席に座ったまま、でかい身体を小さく丸めていた。
「小泉のスマホの中に写メがあったんだよ。デブキが夜の学校に侵入して、黒板に文字を書いてる写メ!」
井浦はおろおろしていた小泉の手から、スマホを奪い取った。
井浦はスマホの画面を凝視した後、無言で伊吹の席へ向かう。
「これ、どういうこと? あんたがうちらの悪口を黒板に書いてたの?」
伊吹はさらに身体を小さくして、俯きがちに怯えていた。俺は見ていられなくて、視線を逸らした。小泉と目が合って、ごめん、と口だけ動かしていた。俺じゃなくて伊吹に謝れよ、と思った。
「おい! なんとか言えよデブ!」
井浦の甲高い声が響く。これは因果応報という他ないだろう。伊吹には悪いけど、自分が蒔いた種なのだ。当然の報いを受けるべきだと思った。
写真を消し忘れた小泉の失態とはいえ、俺たちは約束通り秘密を厳守したのだ。俺に落ち度はないはずだ。ここはただの傍観者に徹するほうが得策だろうと判断して、俺はスマホのゲームを再開した。
「お前がやったのかって!」
井浦が声を張り上げた。俺はモンスターを駆逐しながら聞き耳を立てる。聞こえてくるのは井浦の声だけで、伊吹は黙秘を貫いていた。
ガタンッと椅子を引く音が聞こえたのは、ボスキャラにやられてゲームオーバーになった時だった。スマホをポケットに入れ、音がしたほうに目を向けると、雪乃が机に手をついて立ち上がっていた。
窓際の列の、前から三番目の席。突然立ち上がった雪乃に、教室にいる生徒たちの視線が注がれる。雪乃はゆっくりと振り返り、息を吸って、吐き出すのと同時に声を出そうとした。
「い……う……なぃ……」
声が掠れていて、何を言おうとしているのか聞き取れない。雪乃は涙目になりながら、声を出そうと必死に頑張っていた。
「なんなのこいつ、いきなり。まじウケる」
井浦がそう言って笑うと、何人かの生徒も釣られて笑い出す。伊吹は俯いていた顔を上げ、心配そうに雪乃を見つめていた。
言いたいことがあるならはっきり言えよ、と井浦はさらに笑う。雪乃が喋れないことを知っていながら、そんな心無いことを言う井浦にふつふつと怒りが込み上げてきた。
その時だった。雪乃は声を出すのを諦めたのか、小走りで黒板の前まで行き、黄色のチョークを手に取った。そして背伸びをして黒板にチョークを押し当て、文字を書き始めた。
何を書くのか、この場にいる全員が黒板に注目する。打ち合わせなどしていないので、雪乃が何を書こうとしているのか、俺にも分からなかった。
『伊吹くんは悪くないです。全ては私が一人でやったことです』
やめろよ。何を書いてんだよ。俺は心の中で叫んだ。
『藍田さんのことも、川原田くんと武藤くんの時も、他の人のも全部私が書きました』
違うだろ。俺も一緒にやったことだろ。なんでそんなこと書くんだよ。声に出せないから、俺は心の中で叫ぶ。
『私は病気で声が出ません。だから、こうして黒板に書きました。不快な思いをさせてしまった方々、本当にごめんなさい』
どうして勝手なことしたんだよ。これじゃあクラスの全員を敵に回してしまったようなものじゃないか。
書き終わると雪乃は振り返り、深く頭を下げた。最後まで俺は、声を発することができず、雪乃を止めることもできなかった。
【碧くん、勝手なことしてごめんなさい】
雪乃は頭を下げたまま、心の中で俺にそう言った。
【どうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう】
心の中でそう繰り返していたのは伊吹だった。
井浦は無言で教壇まで歩き、雪乃の髪の毛を鷲掴みにし、無理矢理顔を上げさせた。
「お前がやったのか、雪乃。いい度胸してんじゃん」
痛みに雪乃の表情は歪む。誰か助けてやれよ、と終始沈黙している生徒たちを見回す。
誰もが葬式に来たような暗い顔で俯いていた。
【これは自業自得だよ】
【余計なことしなきゃよかったのに。馬鹿だな】
【雪乃が悪い。井浦やっちまえ】
【雪乃の奴、性格悪すぎるだろ】
【黒板に悪口書くなんて、陰険な女ね】
聞きたくない言葉の数々が、頭に飛び込んでくる。ふざけるな! と声に出して叫びたかった。雪乃はお前らのために、いじめを見て見ぬ振りをし続けてるお前らの心を救うために、あれこれ考えて尽力したというのに。どうして報われないのか、俺は悔しくて唇を噛んだ。
「ちょっと便所行こっか」
井浦は雪乃の髪の毛を引っ張り、教室の外へ連れて行こうとする。雪乃は抵抗し、嫌だと首を振る。
【なに抵抗してんだよ。お前が悪いんだろ】
【さっさと行けよ。せっかくの昼休みが終わっちまう】
【便器に頭からバッシャーン、かな。見てみたいなぁ】
生徒たちの感情のない声が、俺の頭に届く。
誰か勇敢な奴はいないのか、と何度も教室を見回すが、そんな奴は一人もいなかった。
声が出ない。足が動かない。俺はそんな自分の
「おい! 早く来いよ! 美晴も手伝ってよ!」
高梨の身体がビクッと跳ねた。突然井浦に声をかけられ、彼女は怯えた表情で二人を見ていた。どうしたらいいのか分からず、高梨は呼びかけに応えられずにいる。
「早く手伝ってよ! こいつ、まじムカつく」
「う、うん」
高梨はおろおろしながら教壇に上がり、雪乃の背中を押す。押すというより、背中にそっと手を置いているようだった。
【お願い、令美を助けてあげて】
高梨と目が合うと、彼女は心の中で訴えかけてくる。俺は焦ってすぐに視線を逸らした。一年の頃雪乃に助けてもらったんだから、今度はお前が助けてやれよ、と思ったが当然思っただけでは高梨には届かない。
雪乃は苦痛に顔を歪め、必死に抵抗を続ける。ぽたぽたと、床に涙が零れ落ちていた。
なんとかしてやりたい気持ちはある。しかしあるのは気持ちだけで、それを実行に移す勇気はなかった。こういう時に頼りになる小泉も、俯いて決まりの悪い顔をしていた。
──助けて!
その声が頭の中で反響したのと、俺が立ち上がったのはほぼ同じタイミングだった。
いきなり立ち上がったことで、クラス全員の注目を浴びる。井浦も動きを止め、俺を睨みつける。
「どうしたの森田。そんな怖い顔して。なんか文句あるの?」
井浦は威圧的な声で言った。文句なら山ほどある。しかし、声が出てこなかった。何故立ち上がってしまったのか、自分でも分からない。雪乃の心の叫びが俺の身体を突き動かした、という他ない。
教室内は静まり返り、この場にいる全生徒が俺の言葉を待っている。しかし俺は、声を失っていた。
結局一言も声を発せないまま予鈴が鳴り、動きを止めていた生徒たちはそれぞれの席に戻っていく。教壇の上で膝をついていた雪乃と目が合い、俺はすぐに視線を逸らして着席した。
何も言えなかった自分が情けなかった。俺だって共犯者なのだ。むしろ主犯格でもある。雪乃を庇えなかったことが何より悔しかった。
俺は小学生の頃から、何度もいじめを目の当たりにしてきた。いじめる側、いじめられる側、そのどちらにも属さず、常に中立の立場にいた。卑怯だとは分かっている。けれど俺は、いつだって無関係でいたかった。
だから俺は今回も、保身のために雪乃を救えなかった。
今までいじめられていた生徒たちは一様に、『助けて』と目で訴えかけていた。俺は救いを求める彼らを黙殺し、見て見ぬ振りをして逃げてきた。
別に『助けて』と直接言われたわけではないし、仲の良い奴がいじめられていたわけでもない。しかし今回はどうだ。俺に向けられた言葉かどうかは判然としないが、『助けて』とはっきりと聞こえた。それに仲が良いとは言い難いが、雪乃は俺とは無関係の人間ではない。
立ち上がったものの、俺は何もできなかった。俺はどうすればよかったのか、なんて言えばよかったのか。
五時間目の授業の間、俺は繰り返しそんなことを考えていた。
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