第15話
「それにしても、今朝はすごかったな。碧、ナイフがおもちゃだって気づいてたの?」
昼休みに小泉が興奮気味に話す。野次馬三人衆も、休み時間のたびに屋上で起きた出来事を手柄顔で吹聴する。俺がナイフに怯まず川原田に接近したこと、皆で川原田を取り押さえたこと、実は川原田の勘違いだったことなど、身振り手振りを交えて雄弁に語った。
【ごちそうさまでした】
雪乃を見ると、ちょうど弁当を食べ終わったところだった。雪乃の行動によってまた一人、いや二人の生徒を救ったのだ。本当に不思議な奴だな、と俺は雪乃の後ろ姿を見つめながらそう思った。
放課後、スマホのゲームをしながら生徒たちが下校するのを待った。二十分ほどで教室は二人だけの空間になり、この日も窓の外を眺めている雪乃に俺は声をかけた。
「結局川原田は最初から殺す気なんかなかったんだろうな。殺す殺すって、口癖のように呟いてただけなんだよ。紛らわしい奴だよな」
【でも、誤解が解けたんならよかったよね。碧くん、お手柄です】
そう言いながら雪乃は振り返り、にっこりと微笑む。不思議な気持ちだった。その笑顔を待っていたような、欲しかったような、そんな自分がいた。
「別に俺は何もしてないよ。お手柄というなら雪乃のほうだよ。俺なら『川原田は武藤をナイフで刺し殺すつもりだ』って書いてたと思うし。まあそれでも結果は同じだったのかな」
どうだろうね、と雪乃はまた優しく笑う。放課後のこの時間しか見られない彼女の笑顔は、眩しかった。
「あいつら、明日学校に来るかな。藍田はずっと欠席してるけど」
どうだろうね、と雪乃は同じ返事をした。あれから一週間以上経つが、藍田はあれ以来学校には来ていない。まだ答えを出せていないのかもしれない。
【他に悩んでる人がいたら、また助けてあげようね】
「他にいたかな。虫歯が痛いだとか、バイト辞めたいだとか、くだらない悩みが多かったよ」
【碧くんにとってはくだらないことかもしれないけど、その人にとっては重大な悩み事かもしれないよ】
「そうかもしれないけど、わざわざ黒板に書くほどのことではないよ。『〇〇は虫歯が痛くて困ってる』なんて書いても、だからなんだ、歯医者行けよ、ってなるしな」
うーん、と雪乃は顎に手を当てて考え込んだ。
「雪乃は悩み事とかないの? いや、あるよな。ごめん」
いじめられていること、声が出せないこと、雪乃の悩みについて思い浮かぶものは、その二つだった。残念ながらどちらも、俺の力では解決の糸口を見出すことはできない。前者はまだどうにかなりそうなものだが、後者に至っては打つ手なしだ。
【別に、悩みなんてないよ】
物憂げな表情で、雪乃は心の中でぽつりと呟いた。ないはずはないだろうと思ったが、失礼なのでそれは言わなかった。
雪乃の心の声は聞こえるけれど、さらにその奥の、彼女の本当の心の内は俺には分からない。俺に聞かれないように、隠しているに違いない。本当は誰より、雪乃自身が一番悩んでいるはずなのだ。
──死にたい。
俺の三週間遅れの登校初日、雪乃は確かに心の中でそう言っていた。どうして死にたいのか、彼女を苦しめているものの正体はなんなのか、未だにはっきりとしていない。どうしたものかと考えていると、雪乃は立ち上がった。
【そろそろ帰るね。また悩んでる人がいたら、教えてね】
小さく手を振って、雪乃は教室を出ていった。生徒たちがいなくなった寂しい教室の中、俺は一番後ろの自分の席に座り、教室全体を見回した。どいつもこいつも、このクラスの連中はくだらないことで悩んでるなぁ、と改めて思った。
おもむろに机の中に手を突っ込み、一冊のノートを取り出す。ノートを広げると、そこには生徒の名前と、その生徒の悩みが書かれている。一人一人心の中を覗いて、授業中の暇つぶしに俺が作った、このクラス全員の心の闇ノートだ。
田中……飼ったばかりの猫が懐いてくれない。
秋山……ブスにしかモテなくて困ってる。
坂本……好きなアイドルの熱愛報道が出て、毎日が憂鬱だ。
苦笑しながらノートを閉じ、机の中に戻す。この程度なら黒板に書く必要はないな、と思いながら鞄を手に持ち立ち上がる。
その時、教室のドアが開いた。反射的に顔をそちらに向ける。
ドアの前に立っていたのは、またしても高梨美晴だった。彼女は挑むような目で、俺を睨みつけていた。
「な、なんだ、高梨か。俺、もう帰るから、じゃあな」
平静を装い立ち去ろうとすると、「ちょっと待って!」と高梨の鋭い声が俺の行く手を阻む。
「なんだよ」
「さっき、令美と何を話してたの?」
「話してないよ。だってあいつ、喋れないじゃん」
後半声が震えてしまい、慌てて咳払いで誤魔化す。高梨は毅然とした態度で、さらに俺を詰問する。
「じゃあさっきのは何? まさか一人で話してたわけじゃないよね。手話も筆談もしてなかったし、あれは一体なんなの?」
まさか見られていたとは思わず、返答に窮する。
「黒板にあんなことを書いたのも、あんたたちなんでしょ? 藍田の妊娠とか、川原田と武藤のこととか、どうやって知ったの?」
「ごめん。なんのことか分からないな。用事あるから、もう行くわ」
「愛美に言うよ。令美と森田が仲良くしてるって。教えてくれないなら、言うからね」
その言葉に足を止める。井浦に告げ口されると、俺の平穏な高校生活が崩壊しかねない。最近は緩和している雪乃へのいじめも、さらに激しさを増す可能性もある。どうしてか俺は、自分のことよりも雪乃のことを心配していた。
「井浦には黙っててくれないか」
「黙っててほしいなら、説明してよ。あんたたち、放課後いつも何してるの?」
言うべきか黙っているべきか、数分逡巡したのち、仕方なく俺は全てを話した。
「私のこと馬鹿にしてる? そんな話、信じられるわけないじゃない」
全て話し終えると、予想していた通りの言葉が返ってきた。俺だって自分でも信じがたい話であることは承知の上だ。心の声が聞こえるなんて、逆に言われたら信じられるわけがない。だが俺は正直に話した。信じるか信じないかは高梨が決めることであって、後のことは知らない。
肩をすぼめて立ち去ろうとすると、彼女は俺の前に立ち塞がった。
「確かに人の心の声が聞こえるなら、令美とも話せるし藍田とか川原田のことも納得がいく。でもやっぱり信じられないから、私が今考えてること当ててみてよ」
最初からそうするべきだった。俺は吸い込まれそうなほど大きな高梨の瞳を見つめる。
【私の今日の下着の色は、ピンクだ】
「え……」
思わず目を逸らしてしまった。美少女にそんなことを至近距離で告げられ、高梨を直視できなくなる。
「ほら、当ててみてよ。やっぱり嘘なんでしょ? 心の声なんて、聞こえるわけないじゃん。馬鹿みたい」
「……ピンク」
「え?」
高梨は目を見開いた。「な、何がピンクなのよ」
「だから……その……下着の色」
変態! と叫んで高梨は身体を隠すように後退り、赤面する。自分から告白しておきながら変態とは酷い言われようだ。
「森田、あんた本当に……」
「だから言ってるだろ。正直に話したんだから、井浦には言うなよ」
返事はなかった。彼女は思案顔で腕を組み、考えを巡らせていた。
俺には、前から高梨に訊きたかったことがある。いつか訊こうと思っていたが、高梨の隣にはいつも井浦がいる。訊くなら今だ、とばかりに俺は赤面中の高梨に声をかけた。
「高梨って、雪乃となんかあったの?」
「……なんかって何よ」
「いや、いつも雪乃の心配してるよな、高梨って」
勝手に人の心の中を覗かないでよ、と高梨は眉根を寄せる。二人の関係性がいまいち掴めず、以前雪乃にもそれとなく訊いてみたが、話してくれる気配はなかった。
「確か、中学が同じだったって雪乃が言ってたよ」
「……令美から聞いたのは、それだけ?」
「うん、それだけ」
ふうん、とだけ言って彼女は黙り込んだ。この二人、何か訳ありなのだろうかと勘繰る。高梨は言いづらそうにしているので、俺は話を変えた。
「雪乃ってさ、生まれつき喋れない感じなの?」
その問いには、高梨は首を振って答えてくれた。
「そんなことないよ。令美、昔は普通に喋れたんだけど、最近になって突然言葉が出てこなかったり、また喋れるようになったり、また喋れなくなったりを繰り返してる感じだよ。なんとか失声症っていう病気なんだって」
「失声症……。それって治るのかな」
「それはどうだろうね。声が出なくなった原因ははっきりしてるから、後はあの子次第なんじゃないかな」
「原因?」
令美には言わないでよ、と念を押してから高梨は話し始めた。
「あの子ね、双子の姉がいたの。中学三年の冬に、事故で亡くなっちゃったんだけどね」
高梨は俯きがちにそう言った。雪乃に双子の姉がいて、その姉は事故で亡くなっていた。全く想像もしていなかった雪乃の過去に、俺は言葉を失っていた。
「
目の前で双子の姉が車に轢かれて死んでしまうなんて、雪乃がどれほどのショックを受けたのか俺には計り知れない。雪乃はその時に、声を失ってしまうほどの精神的なダメージを受けたということなのか。
「あの二人、いつも一緒だった。受験も終わって、後は卒業式だけだったのに……。由美もこの高校に通うはずだったんだよ。それなのに……」
高梨は涙を零した。そしてそのまま涙を拭いながら教室を出ていった。
一人取り残された俺は、その辺の適当な席に座って、深く項垂れた。
「馬鹿だよ、あいつ」思わず声が漏れる。このクラスの誰よりも、一番悩んでいるのは雪乃だったのだ。それなのにどうしてあいつは、呑気に笑っていられるのか。自分だけがいじめを受けて、どうして見て見ぬ振りをしている奴らの悩み事を解決しようなんて言い出すのか。理解できないし何を考えているのか、未だに分からない。俺に助けてほしいとも雪乃は言わない。仮に言われたとしても、俺には彼女の心を救うことはできないだろう。
落陽に赤く染まる教室の中で、俺は一人、しばらくその場を動けずにいた。
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