第14話
「碧、本当に大丈夫なの?」
朝食のトーストを齧りながら、姉は心配そうに訊いてくる。昨日家に帰った後、川原田の殺したい人物が判明したこと、その川原田が武藤をナイフで殺害しようとしていることなど、姉に全てを話した。大丈夫かどうかは学校へ行ってみなければ分からない。そこで何が起こるのか、雪乃次第とも言えるかもしれない。俺にできることは、もう何もないのだ。
「うーん、たぶん、なんとかなると思うけど」
「危ない感じなら、あんたは関わるんじゃないよ」
「うん、そうするよ」
本来であれば俺は、彼らに関わるつもりはなかった。雪乃がいなければ、川原田の心の声は聞かなかったことにしていたかもしれない。
俺は言われた通り川原田の周辺を探り、集めた情報を雪乃に伝えた。そこでバトンタッチだ。後は雪乃がどうにかしてくれるだろう。面倒なことに巻き込まれたくないので、なるべく俺は無関係でいたかった。
「じゃあ、行ってくる」
「気をつけてね」
車に気をつければいいのか、川原田のナイフに気をつければいいのか、姉の言葉は曖昧だった。
いつも家を出る時間よりも、少し早く家を飛び出した。
どんよりとした曇り空の下、俺はいつもより速く自転車を漕いでいく。すでに雪乃は教室に着き、黒板に何かを書いている頃かもしれない。俺は少し焦っていた。
『川原田順也はナイフを所持していて、武藤を刺し殺すつもりでいる』
もしもそんな言葉が黒板に書かれていたとしたら、どうなるだろうか。
武藤殺害計画が公になり、クラスメイトたちに糾弾された川原田は逆上し、次々と生徒たちにナイフを突き立てる。雪乃も逃げ遅れ、犠牲になってしまう。
そんな嫌なことばかりが脳裏に浮かび上がる。
頭を振って負のイメージを振り払い、立ち漕ぎをして点滅中の横断歩道を渡り、学校へ急ぐ。
登校中の生徒たちの間を風のようにすり抜け、校門をくぐり駐輪場に自転車を止める。
そこからダッシュで二年の教室を目指す。早く家を出てきたせいか、まだ生徒の数は少ない。
階段を一気に駆け上がり、教室の前で足を止めた。
呼吸を整えてから、ゆっくりとドアを開ける。窓際の席に座る雪乃と、まず目が合った。
【おはよう】
当然返事はせず、教室の中に足を踏み入れる。まだ人数は少ないが、騒ついているのは分かった。生徒たちの視線は黒板に注がれている。
黒板の中央には、白いチョークで文字が書かれていた。
『武藤くんは、川原田くんの彼女に手を出した』
そっちで来たか、と俺は目を見開く。確かにこの書き方なら川原田は逆上することはないだろう。
雪乃は一見何も考えていないように見えるが、こういうところのケアはしっかりしているのだ。武藤は責められるかもしれないが、それは仕方のないことだ。公表したことで武藤は糾弾され、それで川原田の怒りが収まってくれれば一件落着だ。少し可哀想な気もするが、刺し殺されるよりはマシだろう。
二回小さく頷いてから、俺は自分の席へ向かう。川原田と武藤は、まだ来ていないようだ。
教室に入ってくる生徒は皆一様に目を見開き、まず黒板を凝視する。そして驚愕と動揺の表情を浮かべ自分の席へ吸い込まれるように向かい、ヒソヒソ話しながら当事者たちの到着を待っている。
数分後、小泉が教室にやってきた。俺は少し早く家を出てきたので、この日は小泉とは一緒に登校していない。
「碧、今日は早いな」
「ああ、早い時間に目が覚めたからな」
「そっか。……ん?」
小泉は教室内の異変に気づいたようで、黒板に目を向ける。「なんだよ、あれ」
「さあ、また誰かが書いたんだろうな」
俺は素知らぬ振りをしてスマホをいじり、無関係を装う。今回の主役である二人が来たらどんな反応を示すのか、黒板を見た川原田はどう行動するのか、そんなことを考えてしまい、そわそわと落ち着かない。
「なにこれ、マジ?」
今度は井浦愛美と高梨美晴が教室に入るなり、口を揃えて言った。
異様な雰囲気に包まれた教室内が静まり返ったのは、井浦と高梨が席に着いた直後だった。
「おはよう!」
元気よく教室に入ってきたのは、武藤だ。そのすぐ後ろには、不機嫌そうな顔をした川原田がいる。
武藤はすぐに黒板の文字に気づいた。
「……は? なんだよこれ。誰だよこんなことを書いたの! 俺はなんもしてねーよ!」
武藤は狼狽しながら黒板消しで書かれた文字を消していく。川原田は黒板の文字を睨んでいるのか、武藤を睨んでいるのか判然としないが、鋭い目つきで黒板のほうを見ていた。
「順也、俺はお前の彼女になんもしてねえからな。きっと誰かの悪戯だよ。誰だよマジで」
「うるせぇよ。俺、知ってるんだ。お前が沙希とデートしてるところ、俺見たんだよ!」
川原田の叫びが、教室内に響き渡る。ちょうど今教室に入ってきた連中は、何が起こったのか分からず、注目を浴びている二人を怯えた表情で見ている。誰もが動けず、声も出せずにいた。
「待てよ順也。誤解だよ。俺はなんも──」
「うるせぇんだよ! 聞きたくねぇよ!」
川原田は教室を飛び出し、「待てよ!」と武藤も駆け出した。何人かの男子生徒は面白がって二人の後を追っていった。
再び教室が騒がしくなる。ちらりと雪乃に目を向けると、彼女も俺を見ていた。
【何してるの! 碧くんも早く後を追って!】
雪乃の叫び声が脳内に響いた。早く早く、と身体を揺らしながら彼女は訴えかける。
俺は渋々立ち上がり、騒がしい教室を飛び出した。
面白がって二人の後を追った奴らが、階段を上がるのが見えた。登校してくる生徒たちをかわすように走り、階段を駆け上がる。
「あいつら屋上に行ったのかな。もしかしたら殴り合いが見れるかもな!」
後ろを振り返ると小泉がへらへら笑っていた。殴り合いではなく、もっと凄惨な流血事件を目の当たりにするかもしれないのだ。こいつも雪乃に負けないくらい呑気なやつだな、と思いながら屋上の扉を開ける。
視界が開け、雲の隙間から顔を出した太陽の光に目を細める。屋上には川原田と武藤の他に、喧嘩を囃立てる馬鹿な野次馬が三人もいた。
「話を聞けよ順也!」武藤は声を荒げる。
「親友だと思ってたのに、最低のクズ野郎だよ、お前は!」
川原田は上着のポケットから、ナイフを取り出した。太陽の光を反射し、きらりと光る。
野次馬たちが一斉にどよめき、一歩後ずさる。
「おい川原田、ちょっと落ち着けよ! ナイフなんて捨てろよ! 冷静になれ!」
小泉は必死に訴えかける。武藤もその言葉に賛同するように何度も頷く。この場で唯一冷静なのは、たった今川原田の心の声が聞こえた俺だけだろう。
「お、おい碧! 何してんだよ! 下がれ下がれ! お前死ぬぞ!」
俺はなんの躊躇いも遠慮もせず、ズカズカと川原田に歩み寄る。
「なんだお前。刺されてぇのか? それ以上近寄るな!」
川原田はすごんで静止を求めるが、俺は足を止めず前に進む。そして川原田の目の前で立ち止まり、両腕を目一杯広げた。
「刺せよ。それでお前の気が済むならな」
川原田は両手でナイフを握りしめる。今にも泣き出してしまいそうな顔で、手を震わせながらナイフを前に突き出す。
「碧、やばいって! 早く下がれ!」
「川原田、ナイフを下ろせ! 先生に言うぞ!」
「ナイフで刺されたら痛いんじゃなくて、熱いらしいぞ! 碧、熱いんだぞ!」
野次馬たちが口々に叫んだ。混乱しすぎているせいか、この状況でどうでもいい情報をよこしてくる。それに先生ではなく、警察を呼んだほうがいい気もするけどそこまで頭が回らないらしい。
「順也、聞いてくれ! 俺はお前の彼女に頼まれただけなんだよ! 浮気なんて、本当にしてないんだ!」
武藤がそう叫んだ。川原田の視線は俺から武藤に移る。川原田の目には涙が溜まっていた。
「頼まれたって、何をだよ」
「プレゼントを買いたいって言われて、順也と仲の良い俺に、お前の好きそうな物を一緒に選んでほしいって言われて……。ほら、来週誕生日だろ、順也」
「……う、嘘だ、そんなの」
「嘘じゃねえよ。順也には内緒にしてって言われてたから、言えなかった。まさか買い物してるところを見られてたなんて思わなかった」
川原田は力が抜けたように、だらんと腕を下げ、ナイフを落とした。
「確保だ、かくほー!」
好機到来とばかりに、小泉は川原田にタックルを喰らわす。川原田はどふっ、と声にならない声を上げ、後ろに倒れ込んだ。野次馬三人衆も小泉に続き、川原田を押さえ込む。
「あれ? このナイフ、おもちゃじゃん」
野次馬の一人がナイフの秘密に気づいた。刃の先端を押すと、柄の中に引っ込むタイプのおもちゃだ。俺はナイフが偽物であることを知っていた。先ほど、川原田の心の声がそう言っていたのだ。
予鈴が鳴ったのと、川原田が泣き出したのは同じタイミングだった。嗚咽を漏らし、川原田は顔を埋めて泣き続ける。彼の腕や足を押さえていた小泉と野次馬たちは、申し訳なさげな表情で川原田を解放する。
「なんだよ。結局川原田の勘違いってこと?」
拍子抜けしたような顔で小泉は言う。なーんだ、教室戻ろう。そう言ったのは野次馬たちだ。彼らは屋上を出ていった。
「でもさ、勘違いとか間違いって、誰にでもあるよな。なあ、碧」
「ああ、そうだな。間違いは誰にでもある。大事なのは、間違いを間違いだと素直に認めることだって誰かが言ってたよ」
俺と小泉は頷き合って、静かに屋上を出た。後は武藤に任せよう、と小泉が小声で言った。
その後、川原田と武藤は教室に戻って来なかった。
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