あまおと

杏ノ鞠和

あまおと

 清々しい程の雨音に目が覚める。

 もう7月だというのに何日も連続で雨は降り続き、街ゆく人の表情も曇り空。


 そんな事は知らぬとばかりにザーッと降る雨は思いっきりが良く、私の心を何故か晴れにしてくれる。何もする事がない日は何でも出来る日だ。


 傘をさして駅前の本屋と路地裏の古本屋と図書館をハシゴでもしようか。網戸を開けながら考える。湿った風が妙に心地よく耳元にまとわりつく。


 まずは腹ごしらえとホットケーキを作る。

 実家で出てくるホットケーキは嫌いだった。母の代わりに育ててくれた祖母が作ったホットケーキは田舎臭くて手抜きの朝食だった、気がした。だから嫌いだった。メープルシロップじゃなくてチョコソースがかかった、ホットケーキ。


 でも、今はそれが恋しい。私を喜ばそうと作ってくれたホットケーキを仏頂面で食べた。そんなことを思い出しながら、自分で作ったホットケーキを食べる。チョコソースなんて買っても使い道がないから蜂蜜だけど。


 歪な形のホットケーキを主役に弱まることを知らない雨足が脇を固める。そういえば、ばあちゃん、雨の日は必ず傘さして迎えに来てくれたっけ。中学に上がるとそれが恥ずかしくて追い返してしまって以来、ばあちゃんは家で忙しなく帰りを待ってくれていたな。しみじみ思う。まだばあちゃん生きてるけど。


 おセンチになるのは置いといて、そろそろ出掛けますかと玄関に向かう。

 今日の服には雨靴は似合わない。ミュールのサンダルを選ぶ。足が濡れても許せる気がしたから。


 ビニール傘をさしマンションを出る。空は少しだけ明るいものの、まだ晴れる気はなさそうだ。駅前の本屋を目指し歩く。1歩進めるごとに水が跳ね返り足を濡らすが、それすらも楽しさを感じる。傘を一瞬閉じてみる。案の定、顔に肩に腕に脚に雨粒が当たる。


 絵で描いた雨は何本もの線で現されるが、そういえば雨って1つの粒なんだよな。1つの粒が私の身体に当たり、いくつもの粒と合わさって確実に全てを濡らしていく。粒が身体の上を伝い、下に零れ落ちる様を少し見て、再び傘をさす。


 駅前の電柱にたずね猫のポスターを見付ける。昔、実家の庭に黒の小さな猫が震えていた事を思い出す。すぐに家にいれ、ミルクを与える。もう既に猫が4匹いたため、黒猫は同級生が貰い受けてくれることになった。

 密かにのりしおと名付けていただけに寂しくなったが、のりしおの幸せを考えるとこうするのが1番だと思った。


 のりしお、から、ハルに名前が変わったらしいことを人伝に聞いた。その後については気になっていたが、なんとなくおこがましい気がして詮索しなかった。ただ、1年すぎた辺りにふと様子が気になり、里親の子にハルは元気かと聞いた。


 あー、元気だよ。この前子供産んでさ、うちじゃ飼いきれないから可哀想だけどその子たちは捨てちゃった。ハル自体はピンピンしてるから安心しな。


 遠くで雷が鳴る。私の心も張り裂けそうになる。どうしてそんな事が出来るのか。どうしてそんな事をしてしまったのか。今でも考えては苦しくなる。


 もう一度雷が鳴り、滝のような雨が大きな音を立てて降った。その後、数秒前の光景が嘘だったかのように晴れ間が見えてきて雨足が弱まる。


 嫌な気持ちがまだ心に残る。足早に本屋に向かう。本屋はいつもより少しだけ人が多い。雨宿りであろう。好きな作家の最新刊を手に取る。ペラペラとページをめくり、今回も良作であることを確認し、レジへ向かう。優しそうな青年が慣れていない手つきでカバーを付ける。ありがとう、と微笑むと爽やかな笑顔で返してくれる。ほんの少しだけ救われた気がした、勝手に。


 次は古本屋だ。特に目当てのものはないが、くじ引きのワクワク感を感じたいがために足を運んでしまう。古い官能小説に目が止まる。「軒先で雨に濡れた女の白いブラウスに浮かび上がる2つの紫の山を見る。」という書き出しに心打たれ購入を決める。


 図書館を目指すつもりがどちらの本も早く読みたくなり、地下にある行き付けの純喫茶へ向かう。雨は小雨になり、傘の花もまばらになる。

 喫茶店に入り、マスターに熱いコーヒーを頼む。

 昔の恋人が酒を飲んだ後に熱いコーヒーを締めに飲むのが最高に気持ちが良いと言っていたことを思い出す。身体に良くないと咎めながら、私もよくそれに付き合った。あらゆる相性は良かったが仕事に熱中していた私に痺れを切らし悲しい選択をした。別の人の恋人になった姿を思い浮かべる。幸せそうに笑うあの人には、幸せそうに微笑む人が隣にいて欲しい。


 あんなにのめり込んでいた仕事は心が疲れて辞めた。今は残り少ない貯金で人生お休み中だ。同じような仕事はあっても同じような恋人はなかなかいないのだ。そんなこともわからなかったあの頃。


 今は本を読み心を落ち着ける。

 帰る頃には、また今朝みたいな清々しい程の雨が降っていて欲しい。




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