第2話
大樹と沙苗の住んでいる綾戸市は世界に冠たる綾戸財閥の城下町だった。今では本社を東京に移転しているものの、財閥の中核企業である綾戸自動車の旗艦ともいえる最大の工場が市内に位置している。工場の従業員だけで1万人。グループ企業の従業員がほぼ同数。すそ野の広い自動車産業の関連企業まで含めると更に多くの人間が財閥のお世話になっている。
さらに、綾戸市と県庁所在地を結ぶ中央電鉄、駅前の桃源郷ホテル、綾戸デパートなどなど、人口規模に不釣り合いな施設すべてが同一資本下の企業で占められていた。直接は資本が入っていなくても顧客はほぼすべて綾戸財閥関係者。そのような都市でどのようなことが起きるかと言えば、想像するに難くない。
この地域のナンバーで綾戸自動車以外の車は走っていない。たまに見かけるのは県外のナンバーだ。関連企業の社員寮に設置されている自販機はもちろん綾戸ビールや綾戸飲料のものしか売っていないし、ゴミ箱に他社のビールの空き缶が捨てられていようものなら犯人探しが行われて処分される。
綾戸市の子供は小中は公立に通うが、高校は私立綾戸秀徳館高校に通うことがステータスだ。県立高校へ通学する生徒は、周囲から同情の目で見られることになる。綾戸秀徳館高校からエスカレーターで県庁所在地にある綾戸大学に入学し、綾戸財閥に入社する。それが人生のすべてだった。
綾戸市では財閥内での地位が普段の生活でのヒエラルキーに直結する。街中でもグループ内の企業の序列、役職順で取り扱いが変わる。さすがに犯罪行為がもみ消されることは滅多になかったが、順番待ちの列を無視して優先的に案内されるぐらいのことは日常的にみられる光景だった。
大樹は中華料理屋の息子。綾戸財閥系列のチェーン店ザナドゥ傘下でない独立店なので肩身は狭い。沙苗は両親を早くに亡くして祖父母と住んでいる。そんな二人は幼馴染だった。沙苗の母親は接待を伴う夜の店で働いていたので、沙苗は小さい頃はよく大樹の家で夕飯を御馳走になった。
その頃はまだきちんとしていたが、母親が亡くなって年金暮らしの祖父母と暮らし始めると沙苗は一気にみすぼらしくなる。服は着たきりなので薄汚れているし妙にババ臭い。シャンプーやトリートメントなんて無いので全身石鹸で洗っているせいか髪もごわごわだった。自分で切るので髪型もおかしい。
綾戸市の底辺で身を寄せ合って生きていた二人だったが、私立に入る金はないので高校は県立綾戸西に通っている。父親が綾南信金の支店長であることが自慢の西川が、綾戸秀徳館に入ることができなかったこととは根本的に事情が異なる。多少のアドバンテージでは入学できないほど成績が良くなかったらしい。
綾戸財閥の系列企業の社員を両親に持つ連中を取り巻きにして、西川は県立高校に通う悔しさを格下と思う生徒への嫌がらせで晴らしていた。もちろん、直接手を下すことはしない。そして、大学受験が目前に迫ってきた3年になって嫌がらせの域を超え始めていた。
父親のコネを使って推薦で入るつもり満々だったのが、足切りのラインは超える必要があると分かって毎日予備校でしごかれている。そのストレスはクラスのカーストの最下位である沙苗に向かっていた。沙苗も思うところがあるらしく、絶許ノートの西川の欄にはポイント90と「人豚」と書いてある。
大樹は風呂場で沙苗の裸身をなるべく見ないようにしながら言った。指に残る背中の感触が生々しい。
「しかし、お前の気持ちも分かるけど、西川を豚とか結構ひどいことを書いてるよな」
「豚じゃなくて人豚よ」
隅々まで洗ってもらい湯船に入って、すっかりピンク色になった肌で沙苗がいう。
「豚みたいな人間ってことだろう?」
「違うわよ。手足を切り落として便所に放り込む刑罰よ」
「え?」
大樹は声にならない声をあげる。
「少しは歴史の勉強をしなさいよね。夫の愛人の手足を切り落とした皇后の話ぐらい知らないの?」
「本気じゃないよな」
「んー。それぐらいはやってもいいと思ってるけど」
大樹はあぜんとする。
「なによ、その顔。そりゃ大樹は男だからいいわよね。私がどれだけ苦労してるか知ってる? わざと汚い格好してるのだって襲われないようにするためなんだから。あいつら馬鹿だからいつ面白半分にやられるか分かんないでしょ?」
「さすがにそこまではしないだろ?」
「今日みたいなことをしても罰を受けないんだったら、何をしても大丈夫と勘違いするわよ。まあ、それだけ警戒してたのに、あんたにやられちゃったけど」
「俺をはめたくせに」
「何のことかしら?」
「どうして俺に襲われた映像がばっちりスマホで撮影してあったんだよ。事前にセットしておかなきゃ無理だろ」
「偶然よ偶然」
「もういいだろ。動画消してくれよ」
「だーめ。証拠なんだから。私に逆らったら警察行くからね。あいつらならともかく、あんたにはもみ消す力もないんだから。人生お終いよ」
「いつまで俺にこんなことをさせるんだよ」
「一生」
うふ。そういって艶然と笑う沙苗は学校とは別人のようだった。
「まあ、最低でも時効になるまでは言うことを聞いてもらうからね。10年だったかしら。15年かもね」
大樹は頭をかきむしる。
「そんなに嫌がること無いじゃない。襲いたくなるほどの女の子と一緒にお風呂に入れるなんて幸せでしょ」
「何もできないんじゃ、むしろ辛いだけだっての」
「そお、私は楽しいけど。最近髪の毛を洗う腕もあがったじゃん」
「うぐぐ」
「あ、そうそう。私に隠れて他の女の子と付き合ったりするのもダメだからね」
風呂からあがると沙苗は洗いざらしのパジャマに着替える。大樹は今まで着ていたものをつまみあげた。せっかくさっぱりしたのに汚れた服を着なければならないのか、と思っていると沙苗が浴衣を投げてよこす。
「おじいちゃんのだけど、帰るまでそれ着てて」
「帰るまでって?」
「うちで夕飯食べてきなよ。たいしたもん出せないけど。それとも家で食べたい?」
「じゃあ、ごちそうになる。っていうか手伝うよ」
「へえ、殊勝じゃない。じゃあ、みそ汁作って。私はおかず作るから」
沙苗は冷蔵庫からもやしを取り出すと袋を開けて、せっせと根取りをする。慣れているのかあっという間に終えると玉ねぎの皮をむいて刻んだ。キャベツも切り、にんにくを粗みじんにする。サラダオイルとニンニクをフライパンで熱し、もやしと一緒に冷蔵庫から出しておいた半額シールの貼ってある少量の豚バラ、残りの野菜を入れてさっと炒める。
ご飯をよそって、小鉢に豆腐をいれて、みそ汁と野菜炒めを添える。大樹と向かい合わせに座って食べ始めた沙苗はしばらくするとじっと大樹の顔を見る。
「な、なんだよ?」
「こうやってると新婚夫婦みたいだね」
「お、あ、う」
目を白黒させる大樹をそのままにして沙苗はみそ汁に口をつけた。
「実家ぐらしの割にはけっこう上手じゃん」
「そ、そりゃ、店が忙しいときは自分で作って食えっていわれてるからな」
「じゃあ、この味に免じて、絶許ポイントは1点引いてあげよう」
「それでも99点じゃないか」
「そうだよ。ショックだったんだからね」
大樹は箸をおいて、すり切れたたたみに額をこすりつけて謝った。
「秋田って家が蕎麦屋だろ。この間から客が来なくなってヤバイらしいんだ。あいつらの嫌がらせらしいんだけど。それを聞いてたから急に不安になっちゃって……」
「私よりも家を選んだわけだ」
「!」
沙苗は戸棚の引き出しから持ってきたノートを広げると、99と数字を書き込みながら言った。
「冗談よ。おじさん、おばさんに迷惑かけられないもんね。まあ許してはあげないけど、今日のところは勘弁してあげる」
ノートを閉じると天井を見上げる。
「でも、これからが面倒だよねえ。今日みたいなことされたらダイも困っちゃうよね」
「いや。今日ので目が覚めたよ。もう奴らの言うなりには……」
「でも、同じように家のこと脅されたらどうすんのよ」
大樹は下を向いてしまう。
「悩んでもしょうがないか。あいつらも忘れるかもしれないし。それに私にいい考えがあるんだ」
「どんな?」
「秘密」
「なんだよ。教えてくれたっていいじゃないか」
「こういうのは知らない方が面白いのよ。驚きのない人生なんて退屈でしょ」
にしし、と沙苗は笑う。
「トランプの大貧民ってゲームがあるじゃない。今は私達が大貧民だけど、革命を起こしてあいつらを這いつくばらしてやるんだ。実はジョーカー持ってるんだ」
その後、ちょっとおしゃべりをして家に帰った大樹は両親にめちゃくちゃ怒られた。高校生にもなって沙苗ちゃんに意地悪をしてどういうつもりかと詰問される。両親に心配をかけたくなくて事情を説明できない大樹は黙って耐えた。
翌日、憂鬱な気分で登校してみると沙苗の机は空いたままだった。大樹よりは早く来ることが多いのにどうしたのかと思っていると、ホームルームに担任が入ってきてそっけなく言った。
「一条は学校をやめるそうだ」
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