第188話 知らない過去

 そういう大切なことはもっと早く言ってください。


 スマホの通話を切った由春を軽く睨みつけながら、伊久磨は少しだけ非難がましく言った。

「ずいぶん色々探したんですよ。皆さんの希望をもとに。温泉旅館」

 部屋に露天風呂が欲しい、だけならまだしも一番頭を悩ませていたのはやはり「料理」だ。いかに朝晩の料理を美味しそうに書き立てている宿でも、行く面子が揃いも揃って曲者揃いの料理人なのだ。


(値段が高ければ良い料理とも言い切れないのが難しい。料理長の肩書で判断していいかも迷うし、口コミやレビューで褒められていても決め手に欠ける……)


 期日に間に合わないと悩みに悩んでいたら、ランチタイム後に向かい合ってまかないのパスタをつついていた由春が「そういえば」と言い出した。

 知り合いでペンションに勤めている奴がいるけど、確か温泉があると言っていた、と。

 その場で電話をかけ、日にちと人数を伝え「ちょうどキャンセルが出てまるっと空いている。貸し切り状態」との返答を得て即決していた。


「もともとパンが売りのレストランでベーカリー部門にいたから、パンがすごく美味いと思う。ずっと東京で働いていたんだけど、身体を壊して実家に戻ってきたとか。それで今は親戚の経営するペンションで働いているって」

 もう繋がっていないスマホをぼさっと見つめつつ、由春が淡々とした口調で説明する。

「『身体を壊した』ってこの仕事でよく聞きますけど、ほんとにハードワークだったんでしょうね」

 伊久磨がしみじみと言うと「真面目な性格だしな」と由春がそっと言い添えた。

(同業者の知り合いなら、とりあえず食べるものに関しては安心できる)


「パンいいですね。『海の星』でも今の人員ならショップスペース展開して、テイクアウトメニューの販売してもいいと思っているんですけど。パンとかサンドイッチ、洋風総菜デリカテッセン……」

 伊久磨が言うと、由春が眼鏡の奥からふっと目を向けてきた。


 今は基本的にホールスタッフがレジを兼ねているが、売れ行きが好調ならピークタイムはレジ専任の店番が必要になるだろう。

 それでも、レストランに予約が入っていない日にもキッチンが稼働して食材のロスを出すこともなく、細かくでも売り上げを出していけるなら、やる意味はあると伊久磨は思っている。

 レストランの価格帯から利用を躊躇しているお客様でも、何度かパンを買ったりしているうちに「いつか食事もしてみよう」と店の奥の空間を気にしてくれるかもしれない。


「確かにな。ベーカリー部門を作って朝早くからパンを売るのもいいよな。欲を言えばレストランより閉店が一、二時間遅いワインバーが店の隣に欲しい」

 食べ終えたまかないの皿を前に、由春が考えながら言う。

(そんなことになったら、シェフ「海の星」ですべて事足りると、いっそここに暮らしてしまうんじゃないだろうか)

 それも楽しそうだけど、と思いながら何の気なしに伊久磨はそれを口にした。


「美味しいパンと、その方を前にしたら、またシェフのスカウト癖が出そうですね。『俺の店でパンを焼かないか?』って。昔の知り合いなら……」

 話の途中。

 笑いながら視線を向けた由春の表情に、伊久磨は口をつぐむ。


 何かを誤魔化そうとして、誤魔化しきれなかったような、淡い微笑。

 眼鏡の奥の瞳に、気弱で寂しげな、傷つきやすい少年のような青さを浮かべていた。


「少し、休んでくる。何かあったら呼べよ」

 伊久磨と目が合ったのも、変な間にも気付いたはずなのに。

 何もなかったように、由春は立ち上がって皿を持って背を向ける。

 立ち去ってしまう。

 呼び止められない。今のなんですか、と。

 辛うじて「はい」と答えた声は、掠れていた。喉が一瞬で干上がって、声が出にくくなっていた。


 何もなかったんじゃなくて。

 何もなかったことにされた。


 いまの会話。

 ペンションで働いている昔の知り合い。「そういえば」と何気なく思い出したふりをしていたところから、すべて。悩み抜いた末に告げられた内容だったのかもしれない。


(あの岩清水さんに、あんな顔をさせる相手なんだ)

 どうしても手に入らないものを願う手を、いっそ切り落とすしかない。何よりも大切な己の腕を。

 そういう目。

 まるで、かなわなかった昔日せきじつの恋を見るような。

 会いたくて、会うのが怖い。そういう相手だ。


 * * *


 仕事のある日は元気だが・休日は輪をかけて元気。→西條聖

 同上・休日はどちらかというとぼーっとしている。→岩清水由春

 特に変わらず。→オリオン、藤崎エレナ、椿香織


(このひとの場合どうなんだろう。休日のイメージが全然ないんだけど)


 水曜日、朝。

 車二台で現地に向かうとし、ひとまず「海の星」の駐車場に集合としていたのだが、香織のアウディから思いもかけない人物が降り立った。

 灰色の髪に、耳にピアスをいくつもつけたダウンジャケットのガタイのいい男。ごつい眼鏡を端正な顔にのせて、へらーっと笑っていた。


「よぉ、蜷川最近うちにこないじゃん」

 純喫茶「セロ弾きのゴーシュ」の店主(?)しきみ。フルネームで言うと樒和明という名前もあるらしいが、伊久磨はなんとなく信じていない。どことなくどころか、常に全身存在そのものがうさんくさいし、名前なんかあってたまるかという気分である。無意味な反発心。


「なんで樒さんがいるんですか」

「俺あんまり香織の運転信用してないんだよね。崖の下とかに吸い込まれそうじゃん、あいつ。オーナーの車にうつるわ」

 聞いたことには答えないし、伊久磨にはクリティカルにダメージ与えることを言ってくる。

 運転席から下りた黒髪の香織が、藍色のコートの裾を翻しながら死ぬほど嫌そうな顔をして口を開いた。


「樒さん、それ伊久磨に言うことじゃない」

 由春の車で先にこの場についていたオリオンは、やりとりを見て何かを察知したのか、伊久磨の元に近づいてくる。向かい合う位置から両手を伸ばしてきた。滲むような笑みを浮かべて、ぱふっと両耳をふさがれた。

(何この謎の優しさ)

 もうばっちり聞いた後だし、いいです、そういうの。気持ちだけで。


 伊久磨は曖昧に笑って、乱暴にならないようにオリオンの手を耳から引き剥がす。

 あれ? とでもいうようににこにこと首を傾げつつも、オリオンは気にしていない様子で口を開いた。


「じゃあ、僕はかおりの車に乗せてもらおうかな。荷物はハルの車に乗せたままでいい?」

「行先は同じだし、構わない」

 ブルー系カラーのレクサスに軽く寄りかかるようにしていた由春が頷いてみせる。そのまま樒に視線をすべらせ「なんでいる?」とそっけなく聞いた。


「宿泊先『グスコーブドリ』でしょ? 一人追加でって、自分で電話したから」

 樒は胸に手をあてて、俺えらい、とでも言わんばかりの自画自賛甚だしい態度で言った。(人数変更先方に伝える配慮ができるなんて、樒さんも大人なんだ)と伊久磨は完全に錯覚して、口をはさんでしまった。


「その辺きちんとしているなんて、樒さん、さすがです。いや、あれ、ん?」

 近寄ってきた樒に、胸にがつっと拳を打ち込まれる。痛くはない。ほとんど身長が変わらないせいで、鼻が触れ合うほどの至近距離で微笑まれた。


「えらいでしょ俺。素直に讃えてればいいんだよ。バグ起こしてんじゃねーよ」

「はい。えっと、はい……?」

 なんだいまのは何か脅されなかったか? と処理しきれない伊久磨に構わず、樒はさっさとレクサスの後部座席に乗り込んだ。

 由春は険しい顔をしていたが、いなくなれとも言わないところを見ると、了解はしているらしい。


「なんか運転する気なくなった。伊久磨は俺の車慣れてるし、任せる」

 機嫌を傾けた香織は、運転を放棄した。

「構わないけど、そうすると人数配分が。岩清水さんのレクサス、二人だけになるので誰か……」

「じゃあ私がうつります」

 緑色の上品なコート姿のエレナがすぐに名乗りを上げて、由春の方へと歩き出す。


「ナビはついているでしょうから調べものも必要ないと思いますけど、眠気予防に助手席にしようかな」

「ああ、まあ、どこでも」

 ぼんやりとしている由春に微笑みかけてから、助手席に乗り込んだ。


「これで、アウディは俺が運転で、香織、オリオンと西條シェフ。レクサスが岩清水さん運転の樒さんと藤崎さんで決まりですかね」

 事前に決めていたわけではないが、自然の流れで人員配置が決まった。自然なのだと思う。少なくとも作為的な何かはなかった。


 伊久磨は、憮然としている様子の由春を見て、確認した。


「出発でいいですか?」

 由春は眉をしかめて目を伏せてから、「そうだな」と温度の無い声で答えた。


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