第189話 まなざしだけで
高原の温泉つきペンション「グスコーブドリ」。
冬場はかき入れどきらしいが、たまたま大学生のサークル団体がキャンセルになったタイミングだったという。
雪深い田舎道を走り、山間部へ。
市内を出てくるときは青空だったが、いつしか重い雪が降りはじめ、視界は夕暮れ時のような薄暗さだ。それでいて暗くなりすぎないのは、四方を埋める真っ白な雪のせい。
ワイパーでフロントガラスの雪を払いながら、伊久磨は前方を走る由春の青いレクサスを追う。
(白夜ってこんな感じかな)
曖昧な暗さと明るさが永遠に続くような、極北の夜と朝。
言葉でしか知らない遠くの光景を思い浮かべていたら、助手席に座っていた聖がぼそりと言った。
「紘一郎、昨日流氷撮りに行ったらしい。寒い時にわざわざ寒いところに行かなくても」
札幌に帰った穂高紘一郎のことだ。「家族」であるだけに、連絡はきちんと取り合っているということか。
「早速あちこちに行っているんですか」
(流氷か。見てみたいけど寒そうだな)
周囲に他に車はなく、音楽もつけていない車内は黙ってしまえば静かだ。
眠くならないように気を遣っているのか、聖は出発して以降、たびたび話しかけてきている。
「国内にいるんだ、って感じだけどな。前は『今オーストラリアだよ』なんて言って、二週間くらい平気で家空けていたし」
「オーストラリア。コアラとカンガルーしかイメージないな。あっ、ワインに関しては多少勉強していますが」
伊久磨が相槌を打つと、聖が滔々と淀みなく話し始める。
「写真家としては面白いみたいだ。撮るものたくさんあるからなー。アボリジニの神話に出て来る
多言語使いの西條聖は、日本語に限らず他の言語を話していても、とにかく言葉の響きがうつくしい。
声が良い。
内容がさっぱりわからなくても、話をずっと聞いていたくなるのは、その明瞭で涼やかな声によるところが大きいだろう。
(本当に何言ってるのかわからない)
それはまるで言葉ではなく、遠くで奏でられる楽の音のようだ。
香織とオリオンは後部座席で穏やかに会話をしていたが、今はそれも止んでいる。聖の語りに耳を澄ませているのかもしれない。
「おい、蜷川。何が何だかって顔してる」
鋭く指摘され、伊久磨はハンドルを握りしめて前を向いたまま、笑みをこぼした。
「はい。オーストラリアと言われても俺は『ウルル』くらいしかパッと出てこないです。『世界の中心で愛を叫ぶ』の映画で見ました」
「お前旅行してなさそうだもんな」
「してないです。国内もそんなにないですし、海外は全然。行きたいけど、今は休みが無いですから。いっそこんな感じで店を一週間くらい閉めてくれたら、どこかに行くかもしれません。西條シェフのオススメはどこですか。やっぱり、フランスかイタリア?」
「オススメはトルコ、イスタンブール。そういや、トルコで温泉行ったな、由春と。パムッカレとか」
聖の口からは馴染みのない地名がスラスラと出て来る。旅行程度で人生観が変わるとまでは伊久磨は思ってはいなかったが、聖レベルになると「世界を見てきた」貫禄があって、素直に羨ましい。
「休みの日に会社の人と会うの、嫌な人もいるかもしれませんけど、俺は今すごく楽しいです。時間に追われないで会話するの、たまには良いですね」
体が軽くなるような心地よさ。まさに羽を伸ばしている感覚。
茶化すことなく、聖も普段より柔らかな口調で答えた。
「この仕事、終わりがないからな。休むと決めないと、本当に休めない。それで言えば、由春、今回はよく決断したな……」
聖の視線が、前を行く由春の車に向けられる。
(確かに。今までは休まなかった。俺と幸尚が頑丈だったせいもあるんだろうけど。これから人数が増えたら、そういう「創業時の苦労」も若い世代に疎まれたりして、週休二日が基本の「会社」にして行かないといけないんだな……)
男三人でがむしゃらに働いていた時代は、すでに終わりを迎えている。新しいスタッフに、新しいやり方を。刷新し続けなければ前には進めない。
(岩清水さんは、もちろん言われる前からそのことをよくわかっている。今まで以上に俺もそれを汲んでいかないと)
支えなければという気持ちが強い。焦りにも似ている。原因はよくわかっている。
由春にも弱みがある。
不意に気づいたせいだ。
* * *
グスコーブドリに着く頃には、天気は持ち直していた。
空は灰色の曇天であったが、雪は止んでいた。
駐車場に入っていくレクサスを追いかけて、その隣にアウディを停める。
運転席を降りると、雪かきをしていたらしい女性が、スコップを雪に突き立てながら車の方を見ていた。
曇りだと油断していたが、積もった雪はそれなりに光を照り返していて、一瞬目が眩んだ。
動きを止めた伊久磨の横を、さっと通り過ぎていく影がある。
「よぉ。すーぐわかったぜ。変わらないなあ、
樒。視界を塞がれたように、相手の姿が見えない。
「樒さん。わー、ほんとに来てくださったんですね。お電話頂いたときは半信半疑だったんですけど、樒さんだし」
素早い返事に、頷きかけた。
(この人、わかってる)
伊久磨など、ここまで来てもまだ全然現実だと思っていない。一緒に食事をしたり飲んだり、あまつさえ服を脱いで温泉に入る樒など、想像もつかない。
「そうだなあ。なあんか虫の知らせというか。俺そういうの、結構大切にしているから。意味がないことはしない。けど、気になることはとりあえずやっておく。後悔するの嫌なんだよね。その俺の虫がさ、いま花坂の顔見ておけっていうから。元気か?」
樒は歩いて近づいて、その人の前に立つ。
バタン、とドアを閉める音がして、伊久磨はそちらに目を向けた。
(……暗い?)
俯きがちな由春。黙って車の後ろに回り、トランクを開けている。
一方、花坂と呼ばれた女性は、ひょこっと樒の傍から顔を覗かせた。
青ベースに華やかな毛糸多色使いのニット帽から、サラッと長い黒髪が浅葱色のダッフルコートの胸元にかかっている。顔は、化粧気はないものの、目鼻立ちがハッキリしていた。優しげだが甘やかさはなく、少年のようにも見える。
伊久磨の視線に気づいたらしく、目が合う。にこり、と邪気なく微笑まれた。
「遠いところ、お越し頂きありがとうございます。今日はゆっくりなさってくださいね」
落ち着いた声。伊久磨は軽く会釈をしつつも、その人に目を奪われて視線を逸らせなくなる。
胸がドキリとした。
清潔感があって、笑顔や声が温かい。
雰囲気も言葉遣いも申し分がない。
今すぐにでも、「海の星」のエントランスに立って、お客様を迎えている姿が想像がつく。
(欲しくない、はずがない)
一目でわかってしまう。
この人は、岩清水由春の店に立てば、すぐに欠かせない存在になる。
由春は、ぐずぐずと荷物を出していた。エレナが受け取ろうとするが「自分の荷物を」と断られている。
一方の「花坂」は、気負った様子もなく樒の影からスタスタと歩いてきて、由春の背後に立った。
「春さん、お久しぶりです。今日は大きなキャンセルがあったから、皆さんで来てくださって、助かりました」
深々と頭を下げた。動きに沿って黒髪がさらりとすべる。
香織が突然「あっ」と声を上げた。
「
声につられて、花坂明菜が顔を向けてくる。微かに首を傾げてから「ああっ」と目を大きく見開いた。
「香織さん!? 髪型とか雰囲気全然違うから、わかりませんでした! 予約も代表者と人数で頂いていたので。すごいお久しぶりです!! 心愛が色々とお世話になっているみたいで、どうもありがとうございます」
再び深々と頭を下げる。
……何かわかりそうで。喉元まできているのに。
由春の昔の知り合い。樒や香織とも顔見知り。「心愛」という親しさ。
(このひと……)
明菜はさらに由春の元に歩き出しかけた。
「春さん」
声をかけたところで、長靴が深みにはまり込んだらしく、軽くバランスを崩す。
転びそうにもなかったのに、さっと歩み寄った由春が手を伸ばしてその体を支えた。
「すみません、大丈夫です……」
驚いたように見上げた明菜を見下ろして、由春は眼鏡の奥の瞳に優しい光を灯して低い声で言った。
「明菜。突然悪かったな。予約受けてくれてありがとう」
「うん」
言葉足らずに見上げた明菜の目は、微かに潤んでいるように見えた。まばたきほどの、わずかな数秒、二人で視線を絡めてから、明菜はそっと身を引く。
「お待ちしていました。お荷物お持ちします」
「いいよ。こっち何人男がいると思ってるんだ。雪かき一人でしていたのか? 冷えてるだろうし中で休めるなら休めよ」
止まっていた時間を誤魔化すように、二人ともテキパキと事務的な話を始めた。
いつの間にか香織が伊久磨の横に立っていて、なぜか言い訳がましく言う。
「花坂明菜さん。伊久磨はたぶん会うの初めてだよな。俺も今ここで働いているって知らなかったし。由春の最初の店の……『ポナペティ』のスタッフだったんだ。心愛ちゃんと一緒」
「あ、うん。今の会話でなんとなく、そうかなってわかってた……」
心愛と、以前店を訪ねてきた風早夏樹と。
もう一人いることは知っていた。由春のかつての店をのスタッフ。男か女か、ポジションは何かも聞いたことはなかったが。
(いつか会うと思っていた)
伊久磨は、由春と会話している明菜を見る。
由春の目を見ただけでわかった。
彼女はおそらく、特別な存在だ。
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