第187話 定期連絡

 本日の報告内容:温泉(社員旅行)


 恋人である齋勝静香が「不穏な空気」を醸し出すタイミングが、この頃だいぶわかるようになってきた。


 ――おん……せん……?


(くる)

 伊久磨は一瞬、瞼を伏せた。

 帰宅後、部屋が暖まるまで、コートを脱がないままベッドに寄りかかって電話をするのが日課になっている。

 前日が休日で一日一緒に過ごして、夜に東京に帰るのを見送ったばかり。昨日の今日で何か話すことあるかなと思ったものの、いざ電話をかけて声を聞くと自然に会話になるのはいいとして。

 流れで、今日あったこととして話したのだ。「みんなで温泉行くことになりました」と。

 その瞬間、スマホからびゅうっと不穏な風が吹きつけてきた(※イメージです)。


 ――「海の星」のみんなで……? 温泉……? 


 どうしようかな、と悩んだのは一瞬。どうせ言うことになるならさっさと言ってしまおう、と伊久磨は静香の物言いたげな雰囲気に構わず先手を打った。


「+香織」


 ――え……ええええええ、香織は関係ないでしょう……!? なんでそこ当然みたいにまざるの!?


 今頃目玉が転がり落ちそうなくらい目を見開いているんだろうなぁと思いつつ、伊久磨は落ち着き払った口調で続けた。


「湛さん、育休とるみたいです。いま、従業員に育休をとらせると企業に助成金が出る仕組みがあるみたいで。あ、それはいいんですけど、とにかく湛さんが休んでいる間香織は全然休めなくなるので、湛さんが『今のうちに休め』ってすごく気にしているとか。しかも椿邸は実質『海の星』の社員寮みたいなものだし、香織はうちのオリオンとも仲良くなったみたいなんですよね。パティシエの。職業的に、何かと話が盛り上がるらしくて。そういうこともあって、西條シェフが『当然あいつも来るだろ』って」


 薄々そうなるかなぁとは思っていたが、結局そうなった。

 一応、けじめとして「社員旅行だとしたら、香織は部外者にあたると思いますが」と伊久磨から一言いってはみたものの、「忘年会に来てたし、椿屋は関連会社みたいなものだろ」と聖に強引に肩を抱かれて断言されてしまった。

 顔が近づいたほんのわずかの間に「あいつまだ一人にしない方がいい。特に夜」と素早く囁かれた件については、伊久磨の中ではひとまず保留になっている。


(西條シェフも、海外経験を生かして東京あたりで仕事を探すなら、いつまでもここにはいられないと思っていたけど。もしかして「海の星」じゃなくて、香織が理由で留まっているんだろうか)


 もし香織がエレナと恋人として安定した関係になっていたら「一人にする」心配はないが、現状どうもそういう空気ではないようなのだ。

(香織は、藤崎さんは西條シェフと何かありそうだとは言っていたけど。西條シェフが気にしているのは、どちらかというと香織……)


 エレナはといえば「海の星」での仕事に前向きで、他のことは特に考えていない様子。勤務時間も長いし、まさに椿邸は「寝る為に帰る仮住まい」のようだ。仕事に慣れて「辞めない」確信を得たら、部屋を借りて出て行くつもりかもしれない。


(西條シェフ。香織を「一人にしない」のは、結構難しいですよ)


 そこを気にしていたら、聖はどこにも行けない。そしておそらくそれは、香織が望むことではない。自己犠牲の空気には敏感なのだ。勘づかれたら最後、逆鱗に触れる。

 たとえばこの間の喧嘩の原因は、案外その辺じゃないか、と伊久磨には思えてならない。 


 ――温泉かぁ……。いいね。あたしもまだ伊久磨くんと行ったことない。行きたいね。


 耳元で、静香が少しだけ落ち込んだ声で言う。静香は部外者なので「仲間外れ」でもないし、そこに不満を持ってはいけないと自制しているのだろうが、なんとなく寂しいのはわかる。


「俺も静香と温泉行きたいですよ。浴衣姿見てみたいです」

 その場合はもちろん露天風呂付客室のあるところだなぁ、とぼんやり考えてしまった。

 一方の静香も溜息まじりに呟いた。


 ――はぁぁぁ。伊久磨くんの浴衣、カッコイイんだろうなぁ……。


「俺ですか? まずサイズの問題がありますね。事前に問い合わせて難しいようだったらスウェットでも持参しないといけないかな。丈の足りない浴衣なんか、シェフに『どこの小僧だ』っていじられそうだし」

 ビジネスホテルに泊まるときでさえ、備考欄に身長のことは書くようにしている。

 もし浴衣にサイズがなければ、普段からだらしない恰好をすることなく、仕事中など特にコックコートをきちっと着こなしている由春には何か言われそうだ。すべてにおいて器用な上に知識もあるので、本人は浴衣の着付けも完璧な気がする。

 その伊久磨の考えていることがまるで伝わったかのように、静香が「わかるわかる」と言った。


 ――ああ、シェフの浴衣もかっこよさそう!! あたし制服萌えってないと思っていたんだけど、シェフの働いているところ、めちゃくちゃ絵になるもんね。様になってるって言うか、浴衣も絶対似合うだろうなぁ。


 伊久磨はスマホを耳から離した。

 無言で睨みつけてから、持ち直す。


「静香、今日はそろそろ電話切りますね。部屋も暖まってきたし、浴室暖房もつけているからさっさとシャワーしてしまいたいですし」


 ――え、もう!? そんなに時間経ったかな。ごめん、気が付かなくて。


 いえ。

 いつもより全然短いくらいですけどなんとなく。

 自分の中に渦巻く何かに気付いて、伊久磨は小さく溜息をついた。


「謝らないでください。いま少しだけ嫉妬しました。悪気は全然ないのは知っているんですけど、あまり他の男の話はですね」


 ――……えっ。いやいやいやいや、シェフだよ? シェフだよ!? 伊久磨くんの! そりゃね、この間会ったとき、あ、まだ一昨日だけどそのときに「俺にしとくか?」なんて言われたときはドキドキしたけどね! たぶん、シェフに言われたら誰でもドキドキするってだけの話で!!


 伊久磨はスマホを耳から離した。

 やや長い時間無言で睨みつけてから、持ち直す。

 離している間も静香が何か言っていた気がするが、よく聞こえなかった。


「シェフがそういう冗談言ったっていうのは初耳ですね。よく覚えておきます。俺の彼女だってわかってても言うのか。へぇ」


 ――伊久磨くん!! ごめん、嘘じゃないけど、誤解がありそう!! その場の状況を見れば全然そういう話じゃないから!! ほら、あれだよ!! お正月に西條シェフとアクシデントでぶつかったときみたいな……あのときも伊久磨くんとちょっと変なことになったけど、西條さんなんかあたしに一ミリも興味もないしね!?


 そういえば、そんなこともあったな、とそのときの光景を思い出した。

 状況は状況として理解はできたが、普通にイラっとした。


「静香って、目を離すとすぐに『そういうこと』になるのはどうしてですか。今度真剣に話し合いたいと考えています」


 ――「そういうこと」ってどういうこと!? 何一つ「そういう」要素ないから!! だいたいシェフだって完全に冗談以下の世間話以下の何かだったから!!


「それはそれで俺の彼女をなんだと思ってるんだって感じなんですけど。『以下の以下』ってなんですか。まともに扱って欲しいですし、セクハラなんか論外です」


 ――わーぁ? 伊久磨くん、曲解だよ? なんかこう、わざわざひねくれ曲がったこと言ってない?


 べつに。

 自分のいないところで由春と静香が会話しているくらいどうってことない。

 大体、静香はいま現在東京で一人暮らしだし、仕事で男性と会ったり話すこともあるだろうし、それをいちいち何か言っても仕方ないし、考えるようなところでもない。

 頭でわかっているのと、嫉妬するかしないかは別次元の話らしい。


 ――あの、あたしが好きなのは伊久磨くんだよ?


 伊久磨はスマホを握りしめて目を閉ざした。胸の中に広がった暗黒がおさまるまで、数秒待つ。


「ごめんなさい。そこまで言わせるつもりじゃなかったんです。静香のことになると俺少し変みたいです。なんでしたっけ。温泉だ。行きましょうね。二人でゆっくりしましょう」


 ――うん……。家でゆっくりもいいけど、温泉でゆっくりもいいよね。今度はちゃんと計画して会って、どこに行くかも決めておこう。あ、次いつ会おうか。今まで何かあるたびに「それなら行きます」って、お互いいきなりの行動ばっかりで。


 そういえば。

 伊久磨は思い出して苦笑した。

(いつも会う理由を探しているせいで、きっかけさえあればお互いに即決だから)

 今回など、逆に事前に連休があるとわかったものの、動揺してどう会いたい自分をおさえておこうか悩んだくらいだ。


「いまカレンダー見ます。来月も例年通りなら客数はそんなに多くないでしょうし、いまの人員なら交代で休みもとれるかもしれません。どこか連休になるとしたらお伝えします。藤崎さんがいるので、俺も休めるはず」


 そうは言っても、現時点で休みが決まっているわけではなく、具体的な日程やどちらが移動するかは、詰められない。

 雑談交じりに、はじめからわかっていたような結論を出す。

 結局いつもより少し長いくらい話して電話を終わりにした。

 直前、伊久磨もその言葉をすべりこませた。


「俺も静香が好きです、おやすみなさい」


 静香の返事を聞いて、静香から電話を切るのを確認してからスマホを耳から離した。


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