29 星の王子様(前編)

第186話 シェフの決断

「シェフ。来週、全然予約が入っていない日があります」

 休日明け。

 朝の業務として、予約を確認していた伊久磨が、キッチンの由春に声をかけた。


「昼も夜もか」

 味を見ようとしたのか、レードルでスープを小皿にすくったタイミング。

 動きを止めて不思議そうに聞き返してきたところで、通りすがりの聖に皿を奪われていた。聖は一口飲んで「Excellent」と呟く。「俺も」と言いながら由春は伊久磨に視線を戻した。


「予約サイトの方も、間違えて満席扱いになっていないか確認したんですけど、そういうわけでもないです。例年、落ち込む時期ではありますが。天候も読みづらいですし、出歩くのもしんどいせいでしょうか」

「水曜日か。よし、店閉める」

 即決。


「閉める……?」

 経験がないせいで、伊久磨はぼやっとして聞き返した。由春は小皿でスープを飲んでから、軽く頷いた。


「予約サイトの方には臨時休業で連絡しておけ。予約はストップ。問い合わせの電話も全部断れ。そこなら定休日と合わせて連休にできるし、いっそ休んでしまった方がいい」


 言っていることを理解はできるのだが、心がついていかない。

(予約を入れないで、飛び込みできたお客様はどうする? シェフもスタッフもいるのに「臨時休業」だなんて信用に関わらないか?)

 お客様と一番に接する立場として、そんな考えが頭をかすめる。

 一方で。


 由春と伊久磨以外のスタッフは、時間給扱いだ。客がまったく見込めない日に、料理のスタンバイをしてスタッフも揃え、暖房をつけて館内を暖かくして待ち構えていても、売上がまったくなければそのマイナスは痛い。

 素早く計算した結果、由春が正しい、と結論が出た。


「わかりました。問い合わせを受けた際には別の日をお勧めするようにします」

「頼む。その辺はお前のいいように、藤崎にも指示を出しておけ」

 はい、と生返事をしながら、伊久磨はふっと過ぎった考えに囚われてしまう。

(休み……連休か)


 それを言えば静香は喜びそうな気もするが、伊久磨の中には若干の葛藤があった。

 伊久磨が時間を作れたとしても、静香は仕事のはず。調整をして休むかもしれないが、病気でもないのに、頻繁にそういうことをしていい仕事ではない。

 付き合い始めとはいえ、今月はすでに自分から東京に一回行き、静香もこちらに来ている。

 会いたくないわけではないが、遠からず結婚をするつもりなら、不用意な出費を避けるべきなのではないか。

(ケチかな……。でも「遠距離」だって納得して始めているんだし、気軽に会えないのはお互いに了解している。我慢するときは我慢した方が……)


 ついつい考え込んでしまったところで、由春が「あのさ」とそっけなく言った。


「温泉」

 顔を上げた伊久磨はまさに二つ返事で答える。

「名案」

 にっと由春が唇の端を吊り上げて笑った。


 以前は、休日はよく二人で行動していた。他店に挨拶がてら食事に行ったり、市場や物産展を見たり。

 最近少しご無沙汰になっていたが、相性の良さは折り紙つきだし、この仕事についてから旅行らしい旅行もしていない。

 提案としては、かなり魅力的だった。


「行きましょう。海の星うちがすいているくらいですから、この時期の平日の温泉はガラガラじゃないでしょうか。良いプランがないか調べます。あ、どうしよう。シェフはやっぱり、料理に力が入っているところがいいですか?」

 宿を取って温泉なんて、小・中学生の頃の家族旅行まで遡らないと記憶にない。

 なんとなく声まで弾んでしまう。


「おい、なんの相談だ。そこの二人で温泉行く気か?」

 話に割り込んできたのは聖で、伊久磨はまざりたいのかな、と何の気なしに聞いた。


「行きますか」

「行く」

「僕も」

 横からオリオンが口を挟んでくる。

(まあそうなるか)

 まるで社員旅行だなと苦笑してから、遅れて気づいた。


(藤崎さんはどうするんだ? 佐々木さんはおそらくパスだとしても、社員旅行なら藤崎さんを誘わないとのけ者にしているような……。かといって、男性四人に女性一人って結構プレッシャーじゃないかな。西條シェフと同居しているくらいだから、その辺は気にしない性格なのかもしれないけど……)


 一緒に行けば女性用としてもう一部屋手配することにもなるだろうか。

 かといって、誘わなければその晩は椿邸で香織と二人きり……?


(あれ、香織、藤崎さんは西條シェフとなんかあるって言ってなかったけ。西條シェフは藤崎さんと香織を一晩二人きりにして大丈夫なのか?)

 そういえば、以前そこの二人は喧嘩もしていたが、理由ははっきりとわからないままだ。


「おい蜷川、なんか悩んでるだろ。俺が行くのはそんなに嫌か」

 見透かしたように聖に言われて、考えていたことがそのまま口から出た。

「藤崎さんはどうするんだろうって。こんな男だらけの中で行くのか、行かないとすれば椿邸で香織と二人きりだなと」

 素直に言い過ぎた。聖が眉をしかめて「微妙」としか表現できない顔をする。何を考えているのか全然わからない。

 できれば思わせぶりな態度はやめて欲しい。


「あのー、私ご迷惑でなければ行きたいです」

 どこから話を聞いていたのか、キッチンに戻ってきていたエレナが口を挟んできた。

 それは社員旅行だからなのか、それとも香織と二人なのが気詰まりなのか。

 にこにこと微笑を浮かべているエレナからは、判断がつかず、伊久磨からはなんとも言えない。「わかりました」と答えるのみだ。

 なぜか、エレナにはほっとしたような顔で微笑みかけられた。


「社員旅行なら経費にも計上できるし、いいな。そうしよう。今日はどうせ暇だし、宿の手配も仕事の合間にやっておけ」

 由春から指示が出て、決まりとなった。


 翌週の二連休、「海の星」のメンツで温泉へ行くことに。

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