【Camellia】
第185話 甘い生活
どうせ今日はお客様が少ないよ、と椿香織は電話口で言い、少し話してから受話器を置いた。
蛍光灯に照らし出された「椿屋」の店内。
壁際の棚にはばら売りのどら焼きや饅頭が並び、買い物用に竹籠が積み重ねてある。中央にはガラスのショーケースと木製のカウンターがレジを三方からぐるりと取り囲むように配置されていて、背にした壁には暖簾の下がった通用口。奥は工場につながっていた。
店の隅には、ガラスケースに入った大型工芸菓子。白い花をつけた椿の大木が、ライトアップされることもなく薄暗がりに展示されている。
温度は、冬の戸外から来れば暖かいかもしれないが、作務衣姿で過ごすには肌寒い。
「
工場から店に顔を出し、しゃがみこんで作業をしていた作務衣姿の水沢湛に、香織は軽い口調で説明をする。
カタカタと、道路に面したガラス戸が音を立てていた。その向こう側では白とも灰色ともつかない雪が吹き荒れている。
湛はカウンターの内側からガラスケースの中の竿物菓子を補充していたが、膝を伸ばして立ち上がり、香織を振り返った。
「今日は一日香織が店番か。藤崎さん、居候は肩身が狭いから店に立つって言ってたけど」
本気とも冗談ともとれぬ口ぶり。香織は「まさか」と一笑に付した。
「昨日も帰り遅かったのに。『海の星』で週六で働いて、残り一日は『
「外堀埋められるのが嫌なんじゃなくて?」
従業員でもない女性が店頭に立っているとなれば、それは誰の目にも身内と映る。しかも当主の香織と同居中。結婚まっしぐらだ。
香織は頭痛を覚えたように、眉をしかめてみせた。
「梓さんあたりが言いふらしているんだ。藤崎さんのこと気に入っているから。この間会った時なんか、西條さんに取られないようにね、なんて念押しされたし」
「西條か。どうなんだその辺」
興味があるのか、ただの世間話なのか。湛の表情からはうかがい知れない。
香織は視線を虚空に彷徨わせる。
「どうだろう。仲は悪くないと思うけど、お互いを意識しているようには見えないかな。藤崎さんはどちらかというと……」
そこで、香織は湛の顔を見て、声に出さずに唇の動きだけで告げる。伊久磨、と。
注視していた湛は、嘆息して呟いた。
「伊久磨は、齋勝静香と付き合い出したって聞いた気がする」
「うん。たぶんあそこ、結婚までいくよ」
穏やかな笑みを広げながら目を伏せ、香織は湛に背を向けた。カウンターの隙間から店内にするりと歩き出して、ガラス戸に近づく。
ちょうどそのとき、吹き荒れる風に身をすくませた人物が、ふらりと歩いてきてガラス戸にびたん、とへばりついた。
間近で目撃した香織が、急いで戸を引き開ける。
乱れたふわふわの赤毛。色白の肌に、緑色の宝石のような瞳。ここまで歩いてきたせいか、明らかに疲弊した表情をしていたが、香織と目が合うと笑みを浮かべた。
ゴウッと音を立てて、強い風が吹き抜けていく。
よろめいたその人の腕を、香織は強く掴んで引き寄せた。
「中へ。凍えますよ」
Thanks.
低い囁き声が、唸る風にも負けず耳に届いた。
* * *
「この間ハルの家で会ったときに話した、カルバドスの羊羹。試作した」
店の奥には、一段高くなった、普段はふすまで閉じている畳敷のスペースがある。香織は店番の為母屋に下がることもできず、ひとまずそこを開放した。蛍光灯と灯油ストーブを手早く点ける。
「突然ごめんね。お店も見てみたくて」
おとなしく後に付き従いながら、オリオンは流暢な日本語で言った。声は優しい。
香織が振り返ると、赤毛の影から柔らかな光を湛えた瞳が、微笑み返す。
身に着けているのはカーキ色のコート。ヒョウ柄の癖のあるマフラーが意外なほどに似合っている。
「『海の星』休み少ないですからね」
「うん。今日を逃すとまた来週だ」
石段からの板敷きにたどり着く。靴を脱いでどうぞ、と案内する。敷居を越えて畳。
「この部屋普段使っていなくて。温まるまで少し時間がかかりそう」
「気にしないでいいのに。ありがとう」
冷たい座布団に両膝を立てて座りながら、オリオンはにこにこと言う。
カウンターの奥では、湛がポットのお湯でお茶を淹れ、オリオンの持ち込んだ羊羹を切り分けていた。
「カラメル状にりんごを焼いて、カルバドスで風味を足している。どうかな。羊羹そのものは本職には敵わないよ」
ふわりと香るアップルブランデー。りんごは思った以上にフレッシュなフルーツ感を残していた。
「美味しい。見た目も綺麗だし、酸味と甘みが上品」
香織が言うと、湛も「バランスがすごくいい」と呟いた。
「いいね、これ。百貨店とか駅地下の客足があるところに置いたら伸びるかも」
オリオンは口を挟むことなく、にこにこと見守っている。
「ありがとうございます。参考になりました。あの、せっかく来てくれたんだし、何か食べたいものがあればどうぞ。今日みたいな日は売れ残りも出ますし。遠慮しないでいくらでも」
「うん。少し見せて」
オリオンも立ち上がり、香織の差し出したつっかけを履いて顔を上げ、店内をぐるりと見回した。
視線が、すぐそばの椿の大木で止まる。「それ、まさかピエス・モンテ?」と面白そうに言いながら上から下まで眺め始めた。
「はい。砂糖をベースに、米や餅の粉を加えて作っています。食用ではないですが、使っている材料は全部和菓子に使うものです」
「かおりが作ったの?」
さらりとファーストネームで呼ばれるが、そういう習慣の国のひとだからかな、と流した。
「いえ、これはかなり古いんですよ。菓子職人としてはまともに働いてなかった俺の父親が作ったらしいです。身体が弱くて毎日工場に立つのは無理だったんですけど、こういう、自分のペースで作るものならなんとか」
職人と、呼べるのかどうか。仕事らしい仕事をしていたとは聞いていない。
それなのに、椿の大木は葉の一枚、花びらの柔らかな重なりを見ただけでも、そこにたしかな和菓子の技術があるのがわかる。本来は熟練した腕の良い職人が挑むような大作を、修行もままならないまま若くして亡くなった父がどうやって作り上げたのか。
(長生きしていたら、それなりの職人になれた人なのかもしれない)
才能という得体の知れないものがもしあるとすれば、彼にはあったのだろう。終わりを迎えた年齢を超えた今でも、自分に同じものを作れるとは思わない。
「すごく繊細なアートだ。お菓子や料理に永遠はないけど、ピエス・モンテは芸術として残せる」
オリオンはしばらく眺めていた。
湛は軽く挨拶をして工場に戻り、香織も店内の在庫の賞味期限などを確認する。
客は全く来ず、やがてオリオンは「これ食べたいな」と言いながら竹籠に菓子を選んで持ってきた。
「お代はもちろん結構ですよ。お茶淹れますから、どうぞ座ってください」
そろそろ畳の間も暖かくなってきている。客の気配どころか道を行く人影すらなく、香織は自分にも茶を淹れた。靴は脱がないまま、板敷に腰掛ける。
「黒糖饅頭美味しい。好きだな、これ」
セロファンを丁寧に剥がして一口食べて、オリオンが顔をほころばせる。
湯呑みで冷えた指先を温めながら、香織は見るとはなしに見ていたが、ふと既視感に襲われて目を瞬いた。やがてその正体に思い至り、ふっと息を吐きだす。
「そうやって、そこでよくお茶をして行く奴がいたんですよ。懐かしいな」
日本語に堪能なオリオンは、香織の砕けた物言いに気付いたようだ。
「友達?」
「ん。そうですね。その頃は友達だったかな……」
曖昧な言い回し。香織は苦笑して、すみません、と言い添えた。
「今も友達ですよ。その時は、そこまで仲良くなるとは思ってなかったんですが。あいつは普通の大学生で、人より背が高くて、甘いものが好きで……。一度慣れてしまってからは、うちのパートさんたちに来るたびに『お茶飲んでって』って引き留められていました。みんな仕事中だから構えないんだけど、少しでも長居させる為に、よく俺が呼ばれたんですよ。『蜷川くん来てるから、若も休憩にしたら』なんて」
――年末に帰省するときに、ここで菓子折り買って行こうかな。
――菓子折り? 大学生が帰省するだけで家族にそんなに気をつかうのか? 親の金で学生しているくせに。
――それは全くもってそうなんですけど、家族に買うお土産はバイト代から。帰って来るだけで良いって言われるけど、なんとなく。
十二月半ばの会話だった。それが「あの頃の」伊久磨と交わした最後の言葉になった。
(たくさんおまけしてやろうと待ち構えていたのに、あいつ、来なかった)
年明けに雪の夜道にうずくまっているのを見つけたときには、既に人が変わっていた。以前の彼はもうどこにもいないし、二度と会えないのだとわかった。
日付はハッキリ覚えていない。一月末か二月。ちょうど今くらいの時期。
「かおりはそのひとのことが好きだったんだね」
誰のことか、わかっているのかいないのか。オリオンの声を聞きながら、香織は淡い笑みを浮かべる。
あのまま大学を卒業していたら、ここが地元でもないし、どこへなりとも行き、もう会うことなかったかもしれない。
それでも、もし時間を戻せるなら、仲良くなる可能性を捨ててでも彼の運命を捻じ曲げたものをすべて遠ざけたい。
いつまでも屈託なく笑っていて欲しかったから。
「ひどい風。こんな日は、どこにも行かないで恋人とベッドで過ごすのがいいね」
ガラス戸の向こうに目を向けたオリオンが呟き、香織は笑みをこぼす。
「
からかうように声をかけると、オリオンは視線を流してきて甘く微笑んだ。
「僕も。あいにく恋人はいない。だけど会いたいひとはいるから、会いに来たよ。この風にもめげないでね」
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