Sleep no more!
第184話 I have done my duty.
ハロー、彼氏の家です。
手始めに何をすれば良いか、皆目わかりません。
渡された鍵を使って、ドアを開ける。後ろ手で閉めて、すぐに鍵。長い一人暮らしでしみついた習慣。
電気はどこだっけと手探りしてスイッチを押す。
冷え切った空気の中見回せば、相変わらずのがらんとした寒々しい空間。生活感のなさ。
(あっさり鍵を渡しちゃうところが伊久磨くんって感じだよね。部屋片付いているし、べつに何見られてもいいって余裕)
今日あの場で鍵を渡すつもりがあったかどうかも定かではないのに、決めたらすぐだった。
自分がいないとき、いつ人が入ってもいい心構えが出来ている。すごい。
そこにまとわりつく違和感の理由には、ようやく思い至ったわけなのだが。
まずは暖房をつけようと、ブーツを脱いでキッチンを横切る。ドアを開けて、スイッチで電気をつけてから、中をのぞきこんだ。
正月に来たときと変わらない。整理整頓されて静謐に満たされている。
黒いカーテンのかけられた窓。毛足の長いラグに、ローテーブル。右手側は、ガラス天板のパソコンデスク、フラップ扉のディスプレイラック。チェストと、ワードローブ。左手側には、カバーリングがきちんとされて、皺もないほど整えられたベッド。一分の隙もない。ひとの営みの痕跡があまりにも少ない。
(いつ死んでもいい……)
未練の見当たらない部屋。
中央まで進んで、ローテーブルの上に置かれたリモコンを手にし、エアコンをつけた。
ゴオオオオオという温風を聞きながら、ほっと息を吐き出し、手にしていたボストンバッグをベッドの横に置く。コートを身に着けたまま、ラグの上に移動して、座り込んだ。
(香織が散らかした跡、もうどこにもないね)
この部屋の「意味」に気付いて、鍵まで作って好きに暮らしていただろうに、全部片づけられてしまっている。手強い。手始めに何をすればいいか、皆目わからない。
絶望が深すぎる。
今さらながらに、手の施しようがない深淵を覗き込んだ気分。力になりたいのに、必要とされていない感覚。
膝を抱えて、ベッドにもたれかかり、目を閉ざした。
愛してる。
好きで付き合っていても、口にはできない言葉。どうしたら伝えられるのだろう。
この世に生きることに執着してください。あなたと一緒に生きたいんです。
コン、コン。
一定の間隔で、ドアをノックする音がする。
ハッと静香は顔を上げた。一瞬、自分がどこにいるかわからない。
(寝てた?)
少しアルコールが入っているせいだろうか、目を瞑っている間に時間が過ぎていたらしい。
コン、コン。
立ち上がって、玄関に急ぐ。鍵を締めたときに、習慣でU字ロックもかけてしまっていた。阻まれた伊久磨が呼んでいる。
「ごめんっ。いま開ける」
ロックを外してドアを開けたら、冷たい夜風が吹き込んできた。
視線を上向けると、唇に笑みを浮かべた伊久磨に見下ろされていた。
「ちゃんと俺だって確認してから開けないと。後を付けてきた変なひとだったらどうするんですか」
「え……」
思ってもみないことを言われて返答に詰まったところで、伸びて来た腕に捕まる。
冷え切った身体に包み込まれ、頭の上に顎を軽くのせられた。
「ただいま。帰りました」
「お、おかえりなさいっ」
言われる前に言いたかったなぁ、とすでにして出遅れ感。後悔しながらも抱きしめ返そうと腕を背に伸ばしたのに、「中に入りましょう」とかわされる。
伊久磨が靴を脱ぐ間に先に立って部屋に戻ると、「何をしていました?」と背後から尋ねられた。
「えっと。寝てました。なんか、眠かったみたいで」
寝てた? と笑いを含んだ声で聞き返される。
「明るすぎるので、照明変えますね」
部屋に踏み込むと、伊久磨は静香を追い越してベッドサイドに向かい、フロアランプを点けた。それから、頭上のLEDをリモコンで消す。
間接照明の穏やかな光だけになった。
「いま、浴室の暖房入れてきました。先に使います? 俺の後の方が温かいかな。風呂にお湯を張ると時間がかかりますし、シャワーだけで。疲れているようでしたら、今日のところは寝てしまいましょう」
耳になじむ優しい低音。聞いているだけで胸がいっぱいになりながら、静香はその背に抱き着いた。
「……どうしたの?」
「少し寝たから、元気。伊久磨くんは、晩御飯もまだなんじゃないの? いつも通り、ゆっくりして。お酒飲むなら付き合うし」
「そう? 無理しないで」
一度静香の腕から逃れて、向きを変える。正面から手を伸ばして頬を包み込みながら、顔をのぞきこまれた。思わず、柔和な微笑を浮かべた伊久磨を見上げて、静香は焦りのままに言った。
「無理してない。せっかく一緒にいられるのに、寝たくない」
指の長い手に頬を寄せると、顎を軽く持ち上げられる。
「そんなこと言うと、食べてしまいますよ。頭からバリバリって」
赤ずきんちゃんの狼みたいなこと言ってる、と思いながら静香は目を閉ざした。
(食べていいよ……)
自分からは言えなくて、代わりに腕を伸ばして抱きしめる。二人とも、まだコートも着たまま。
静香、と耳元で囁かれた。強く抱きしめられて、ベッドの上に押し倒される。
「静香、このまま……」
「うん」
好きにして。
全部食べてしまって。身体の奥で溶け合うように、一つになりたい――
「あ」
唇が唇に触れた瞬間、伊久磨が妙に現実的な声を上げた。
なんだろう、と思ってから(なんだろうううううう!?)とパニックに襲われる。
「え、なに、なに? なんかあった? なに? あたしなんか変? どうしたの!?」
超・慌ててる。
焦りまくってる。
その静香を見下ろして、伊久磨は焦りが伝わっていない様子でのどかに言った。
「写真が欲しかったんです。良かった、思い出して」
「写真!?」
「静香の。だめですか?」
「え、いや、あの、ええと」
押し倒された体勢から、伊久磨が身体を浮かせたのをいいことに、静香はその下から抜け出して後ろ手でベッドの上を後退していく。
(こ、この状況で写真って。ど、どういう写真……? 脱いだりする……!?)
びっくりしすぎて声が出ない。
一方の伊久磨は、座り直してベッドから床に足を下ろしつつ、上半身を捻って静香を見て来た。
「本当は店で撮れば良かったんですけど。うちだと背景が味気ないんですよね」
「……?」
見ているのは、静香ではなく背後の壁のようだ。
「なんの写真?」
何に使う写真? とは聞けなかった。彼女の写真を保持したい彼氏の心境とはこれいかに。いかに!?
「今日手土産にしたホタテなんですけど」
「ホタテ」
「お店のお客様が用意してくださったんです。彼女の親と会うと言ったら、気にしてくれて。その会話のときに、彼女の写真ないの? って話になって。あの、変なひとではないですよ。年末に『恋愛成就』のお守りをくださった方です。その報告みたいなもので。お渡しするわけでもなく、今度ご来店されたときにお見せするだけです。それ以上の意味はないです」
「ああ~」
なるほど~。
(説明、わかりやす~い)
滅茶苦茶納得した。
「コートは脱いだ方がいいかな」
「どうでしょう。室内ならその方がいいかな。一度電気つけますね」
てきぱきと立ち上がって、伊久磨は照明のリモコンを手にして灯りをつける。
漂い出していた危ういムードがぱっと霧散した。
「立つ? 座る?」
「そうですね。全身である必要はないと思うので、そのままそこで正座していただければ。バストアップで撮りますけど、膝を抱えたままだと背筋が伸びないので」
「わかった」
手早くコートを脱いでベッドの脇に畳んで置き、ベッドの上で正座する。
伊久磨はスマホを取り出して、静香の方へと向けてきた。
「やっぱり背景が白だと、証明写真みたいですね。もう少し自然な写真が良かったかな」
「表情どうする? 笑う? 真面目?」
「どっちがいいんだろうな。どっちも可愛いと思うんですけど、俺はどんな静香も可愛く見えてしまうので、判断できないです」
真顔で言われて、静香も大きく頷いた。
「そうなんだ。あの、べつに何パターンか撮っても大丈夫だよ。使えるのを採用して」
名案、というように伊久磨も力強く頷く。
「それでいきましょう」
このあと滅茶苦茶写真撮った。
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