第183話 この良き時代

 光樹のピアノの音が鳴り響いている。

 由春の奏でるメロディーに、追いつ追われつ、じゃれ合うように重なり合いながら。


「さすが先生の息子さんだけある。シェフがこれだけ弾けるなら、光樹いらないんじゃないか」

 椅子に座って差し出されたお茶を一口飲み、俊樹が鋭い発言をした。

(おっと。気付いてはいけないことに気付いてしまった)

 後片付けの進行を確認してからホールに戻った伊久磨は、それを耳にして苦笑を浮かべる。


 岩清水由春は、誰をたのむことなく、ひとりで生きていける。そばでずっと見て来た伊久磨は、知っている。

 それなのに、伊久磨にとって大切な場面で「必要としている」と表明してくれた。嬉しい。

 思い出すだけで顔がにやけそうになるので、いまはあまり考えないことにする。


 俊樹が座るのと入れ違いに静香の母親が立ち上がった。

 お化粧室ですか、と確認して伊久磨は先導して案内する。

 エントランスを通り、化粧室に続く廊下の手前までたどり着いた。振り返る。

 目が合った。見られていた。


「先日は、光樹がお世話になりました」

 すっきりとして、落ち着いた声。伊久磨は目を細めた。

 あまり年齢を感じさせない風貌をしている。柔らかにウェーブがかって肩につく髪。瞳は硝子のように澄んでいて、細かな皺の浮かんだ肌も、艶めいて綺麗だ。

 笑みを浮かべると、皺が少しだけ深くなった。


「こちらこそ。ご自宅まで押しかけてお騒がせしました。今日も、ご足労頂きありがとうございます」

「あの日、ご挨拶ができれば良かったんですけど。静香のことも」

「それは俺がきちんと時間をとって改めてと考えたせいで、遅くなりました。申し訳ありません」

 一息に言って、頭を下げる。

 母親とも、話したかった。ずっと話してみたかった。

 顔を上げると、微笑んだまま小さく頷かれた。


「あの子、素直な良い子です。東京での暮らしも、苦労も多いと思いますけど、特に援助しているわけではありません。真面目で、人に頼ることもない性格です。そういう風に育てました。自立して、一人で生きていけるように」

 わかります。

 相槌を打とうとしたのに、うまく声が出ず、頷いただけになった。


「少し、厳しく育て過ぎたかもしれないと思っていました。お付き合いしている方がいると聞いたのも、初めてなんです。何かと不器用で至らないことも多いとは思うのですが」

 伊久磨は話し続ける相手の目と口元をじっと見つめた。

 見つめすぎているというのは、遅れて気付いて、慌てた。


「そんなことは。もう、すごく、幸せです。あの」

 目が惹きつけられる。

 伊久磨のよく知る人に、顔かたちだけでなく、何よりその雰囲気が似ている。空気や表情。声。

 一度口ごもったものの、しぜんと湧き上がってきたその言葉を口にした。


「産んでくださってありがとうございます。会えて良かったと、心から思っています」

 誰を、とは咄嗟に言えなかった。心の中で名前を言う。静香だけじゃなく、香織も。

 目を逸らさずに見つめていたら、くすくすと声をたてて明るく笑われる。

 素直に言い過ぎたのかと、動揺しかけたところで。


「蜷川さん。私からもお礼を言わせてください。今まで、本当にありがとうございました」

 深々と頭を下げられる。


 それは。誰の、なんのお礼なのかと。

 言葉で確かめる前に、ふと気配を感じて視線をすべらせると、大きな目を見開いた静香が立っていた。


「お母さん! トイレ行ったのかと思ったら、伊久磨くん捕まえてなにやってんの! まだ仕事中なんだから迷惑だってば!」

「ちょっと立ち話しただけじゃない。今度改めてうちに来てくださいって」

「えー!? なんの話なんの話!?」

 ずしゃっと伊久磨の前に滑り込んで身体を割り込ませながら、静香は慌てたように母親を問いただす。


「明日は蜷川さん、お店お休みみたいだけど、あなたたち一緒に過ごすんでしょ? そのままうちにって誘うのもせわしないし。静香が次にこっちに来るときでいいから、またみんなで食事でもどうかなって。今度は蜷川さんも、お仕事じゃなく」

「伊久磨くんとうちの家族で!? え、どうなの伊久磨くん、そういうの、迷惑じゃない!?」 

 がばっと振り返って見上げられて、伊久磨は軽く身を引きながら、頷いた。


「全然。むしろありがたいと思っています」

 話を合わせる。

「ほんとに……!? いいの……!?」

 引いた分だけ迫られる。壁まで追い詰められかねないので、ひとまずその場で踏みとどまった。

(いいも何も、結婚申し込んでいるわけだし)

 喉元まで出かかった言葉を、かろうじて飲み込んだ。

 さすがに、それがプロポーズの言葉になってしまっては味気ない。それは落ち着いてから、どこかで改めて。『落ち着いて、改めて機会を』と考えていると、今日のような大混雑になる、というのは経験済みだが。

 まさか、二度も三度もこんなことはないだろうし。

 さすがに、後回しにしてもプロポーズを忘れるつもりはないし。

 大丈夫のはず。


 いつの間にか光樹のピアノは終わっていた。ホールに残っていた面々や見送りのスタッフが、全員でエントランスに向かってきていた。


 * * *


 吹雪の中、齋勝家の車が出るのを待って、スタッフ一同で店内に走って戻る。

「さっさと終わらせるぞー」

 由春が発破をかけ、「おー」と先を歩いていた聖が応じながら振り返る。

 伊久磨と目が合うと、にやりと笑って「お疲れ様」と一言。並んで歩いていたエレナも振り返り「もうほとんど終わりですよ。すぐです、すぐ」と晴れやかな表情で微笑む。


「あんまりあの彼女待たせられないだろ。早く帰るぞ」

 由春も眼鏡の奥から伊久磨に視線を流して、おかしそうに言った。

「子どもでもないですし、危ないものがある家でもないですから、大丈夫じゃないかと」

 伊久磨がしれっと言うと、「そういうのいいから、仕事終わらせろ」と急かされた。



 静香は家族と帰り支度をし、コートを着込んでからも何か言いたげにしていたが「この雪の中歩かせるわけにはいきません。俺は仕事がありますし、ご家族と一緒に車でお帰りください」と伊久磨が言ったら、いいだけ落ち込んでしまった。


「お前の家の場所は知ってるんだろ。待っててもらえばいいだけじゃないか」

 由春が助け船を出し、車を運転をする母親も「経由して降ろしていくくらいはなんともないわよ」と言う。そこで初めて、伊久磨は「そういえば」と思い出し、キーホルダーも何もついていない鍵をポケットの財布から取り出して静香に渡した。


「うちの鍵です。使ってください」

「合鍵……? 伊久磨くん、あたしのために用意してくれていたんだ?」

 何やら目を潤ませて言われたが、伊久磨はいいえ、と訂正して正確なところを伝えた。


「香織が勝手に作ったんです。持たせておくと入り浸られそうですし、俺が二つ持っていても仕方な」

 ばしっと由春から背中を叩かれた。

「いいから。彼女のために用意したことにしておけよ。いまの、完ッ全に、いらない情報」

 力強く言われて押し黙る。

 静香は「ありがとね」と薄く笑って受け取り、家族の車に乗り込んだ。そのままアパートに向かい、鍵を開けて部屋を暖めて待ってくれているらしい。



(ひとのいる家に帰るのは久しぶり……でもないか)

 最近は香織が数日住みついていた。ドアを開けると、間接照明だけをつけたほの明るい部屋から、ふわりと暖かい空気が流れ出す。あれは悪くなかった。

 それどころか、慣れてしまうのを心が警戒するほど、懐かしさに満ちていた。「懐かしい」は、少し怖い。


 カウンターの前を通り過ぎようとして、足が止まる。

 数歩進んでから、由春が振り返った。

「どうした」

「あ、いえ。玄関の鍵をかけておこうかと思いまして」

 仕事の手順は身体に馴染んでいて、問われたら考えるまでもなく答えてしまう。

 だが、由春には訝し気に目を細められた。


「浮かない顔してる。何か気にかかることでも?」

 納得していない。

 伊久磨は少し考えて、カウンターの上に置かれたガレのランプに目を向けた。

 電球の明るさを滲ませた茸型の硝子シェードに、グラジオラスの青黒い装飾紋様が刻まれている。どこか神秘的で、悪魔的な造形美。


良き時代ベル・エポックって十九世紀末くらいから二十世紀初頭ですよね。古いなぁ」

 何を言おうとしているんだろう。

 自分でもうまく掴めないまま、ランプの灯りを見つめて、たどたどしく続ける。


「このお店は、まだ三年ですが……。心のどこかで、三人だった頃が一番良かったって思うことがあるんです。何もかも手探りで、うまくいかないこともあったし、失敗もたくさんしましたけど。あの日々が俺にとっての一番なんじゃないかって。たった三年なのに、懐古趣味もいいとこですよね。もし幸尚がここに残っていても、『変わらないまま』なんてことはなかったはず。いまの形にはなるべくしてなって、この先も変わり続けるのに」

 変化だ。

 がむしゃらに進んできて、いろんなことが、ようやく少しずつわかってきた気がしていたのに。

 止まってくれない。何もかも時の移ろいとともに流れ、容赦なく変わり続ける。


 幸尚がいなくなった。心愛も抜ける。聖もそろそろのはず。

 エレナがきた。オリオンもいる。だけど、みんな。いつか。

 そして自分も、この場所に立ち続けると決めてさえ、身の回りに変化が起き続けている。


「変わることは納得しています。受け入れてもいる。だけどときどき、どこかに戻りたい気持ちになるんです。戻る場所なんか、跡形もないのに」

 もう、帰る実家もない。


「わからないでもない。それはそれで良いんじゃないか。俺もあの頃は好きだ。男三人だけの単純さというか、あの時期があるから、今があるとは思う」

 拙い言葉を拾って、由春が呟く。

 その目もまた、ガレのランプを見つめていた。

 伊久磨の視線に気づくと、顔を少し上向けて視線を合わせてきた。


 低い声でおごそかに告げる。


「あの時から今も、良き時代ベル・エポックはずっと続いている。この店がここにある限り、良き時代を生きているんだ」


 俺もお前もな、と。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る