第182話 夜に金色
ドアを開けると、視界は一面の雪。強い風が闇から吹き付けてくる。
ホワイト・アウト。
「車、正面までまわしてきます」
一家の若い父親が、コートを着込んで外に出て行く。ちょうど正面玄関の前にいたオリオンが「足元お気をつけて。ご案内します」と、吹雪の中を駐車場まで先導して行った。
エントランスでは、由春が杖を持った老人に説明を求められて、淡々と話す声が響いている。
「エミール・ガレの本物といっても、実際にガレ自身が直接制作した作品ほとんどないとされています。ご存知かもしれませんが、ガレは『芸術家』であると同時に百人以上の職人を抱える工場の『経営者』であり、現在流通している作品はガレ工房の職人の手になるもの。作品に入っているサインの筆跡から製品の年代推定を試みる鑑定方法もありますが、あまり意味はありません。これはガレブランドを示す『商標』として何人もの職人が記したものであり、ガレ本人が直接記したものでもありません」
カウンターの上に置いていた硝子のランプを手にして、サインの箇所を老人に見せていた。
(たぶん「シェフ」が一番気に入られていると思う)
老人は、話の内容よりも、打てば響くように淀みなく話す由春の博識ぶりを面白がっているようである。館内にあるアンティークに関して、由春は尋ねられて答えられないことがない。
二度と来て欲しくないという本人の希望とは裏腹に、老人は微笑を浮かべ、もはやガレのランプではなく由春を興味深そうに見ていた。
「ガレは世紀末フランスにおけるアール・ヌーヴォー、つまり『新しい芸術』を代表する芸術家であるといえますが、一方で新しさに拒否反応を示す保守的な層にもよく対応していたようです。経営を成り立たせるためのバランス感覚ですね。芸術性の高い工芸品を生み出しながらも、なるべく手の届きやすい価格におさえて、人々の生活を豊かにしようという心があったように思います。『
老人はそこで声を立てて笑い、由春を見上げた。
「この店は、手が届きやすいかな。なかなか強気の値付けのようだが」
表情を変えることなく、由春は老人を見下ろす。
「ここまで腕を上げるのにだいぶ投資をしているんです。それに、今は従業員も抱えています。見合った価格はつけます。経営者として」
母親は子どもを抱きかかえている。腕の中で、子どもはぐったりとしていた。眠そうだ。
伊久磨の視線に気づいたのか、ふと母親は顔を上げてにっこりと笑って言った。
「子ども、好きですか」
伊久磨は穏やかに微笑んでみせた。
「あまり接したことはないんですけど、可愛いなと思います。こんなにお小さくても、一生懸命食べてくださいましたね」
食べこぼしたり皿をひっくり返したり。見ていてハラハラする場面はあったが。
母親は苦笑するばかりだった。
「家じゃ全然なんですよ。何作ってもだめなときもあるし、この間食べたものも今日は食べてくれないとか。ひっくり返されて、遊ばれておしまい。子どもが生まれてから外食もほとんどしたことがなくて……。本当は今日も気が重かったんですけど、父がどうしても、と。個室をご用意して頂いて、ありがとうございます」
「実は個室を客席として使い始めたのが最近なんです。まだほとんどお客様にはご利用頂いたことがないんですが、何か気になったことがありましたら仰ってください」
伊久磨が言うと、いえいえもう全然何も、と手を振って笑って答えられる。
ドアが開いて、オリオンが雪をまとって姿を見せた。
「お車のご用意ができましたので、どうぞ」
ちらりと目を向けられて、伊久磨は頷いてみせた。心得たように、オリオンがドアを押さえて母親を誘導する。由春と伊久磨で老人の横につく形になった。
一歩外に踏み出した途端、吹きすさぶ冷たい風に息を止められる。
「お足元危ないですから、もしよろしければお手を」
老人の足が止まったのを見て、由春が腕を差し出した。さすがに身に迫った危機を否定することもなく、老人は由春の腕に手をかける。
嫌だとか、来て欲しくないとは言っても、店の敷地を出るまで客を無下にできないのはもはや店員としての
由春がエスコートをし、伊久磨が万が一の場合にすぐ手を伸ばせる位置について歩き、門までたどり着く。
ぎりぎりまで寄せていた車の後部座席に母子が乗り、老人は助手席に乗った。
伊久磨は手でドアをおさえていたが、閉める直前、顔を向けてきた老人ににこやかに声をかけた。
「本日はありがとうございました。杖はお使いではないようでしたが、もし次の機会がありましたら、店内にはお持ち込みなさらないように固くお願い申し上げます」
反応を待つ。
伊久磨を鋭く睨みつけてから、老人は深々とシートにもたれかかり、フロントガラスに目を向けた。
「今日の酒はうまかったな。よく用意してあった」
「お酒は各種揃えております。お好みに合って良かったです」
老人は視線を伊久磨に戻すと、風にもかき消されぬ声で言った。
「良い店だった」
「ありがとうございます」
それが終わりの合図と了解して、伊久磨は静かにドアを閉ざす。
一歩身を引くと、車は走り出した。
テールランプはすぐに見えなくなる。
強い風が吹きすさぶ。
方向感覚を失わせるほどの吹雪と暗闇に包み込まれた瞬間。
「寒ッ」
由春が声を上げた。
雪かき仕様で防寒具を着込んでいるのはオリオンだけで、伊久磨と由春は先を争うに店内に戻った。
ドアを開けて中に入ってすぐ、由春から背中をばしっと叩かれる。
「余計なこと言いやがって。俺は二度と来て欲しくねーって言ってただろうが」
「何言ってんですか。一番お年寄りに優しくしていたくせに。シェフが甘いから俺が言わざるを得なかっただけですよ」
「うるせーな。お前ふざけんなよ」
言い合いながら、はっと振り返る。
心配で見に来た風情の静香と、その父親俊樹の姿がそこにあった。
* * *
他の席も立ち、店内には齋勝家を残すのみとなる。
エレナがすすめたお茶のおかわりを断ると、光樹は席を立ってピアノに向かい、鍵盤に手を置いた。
指が、繊細に打鍵する。
さざ波立つように、柔らかな音が溢れて押し寄せ、ホールを満たした。
(「春よ、来い」だ)
滑らかなアルペジオ。
「まず光樹の件だが。どういう店かは、だいたいわかった。あれで良ければ使ってくれ」
気負いなく弾き続ける背から視線を剥がして、俊樹が由春を見た。
「ありがとうございます。あの演奏が食事中に聞けるとなれば、再来店の理由になるお客様もいらっしゃるかと」
伊久磨は、肩を並べていた由春の横顔に目を向けた。
(ほめてる)
かなり最大級の賛辞ではないだろうか。
視線には気付いているだろうに、由春は一顧だにすることもなく、俊樹を見て重ねて言った。
「蜷川の件ですが。先程の話は別に冗談で言っていません。蜷川をここまで育ててきたのは俺なので、おいそれとよそにはやれないんですよ」
なんの話だ? と記憶をさらって、伊久磨は目を見開く。
(引き抜きとか)
ちょうどそのとき、聖がキッチンから歩いてきた。冷蔵庫に入れていたホタテを発砲スチロールに入れた状態で持って来たようだ。由春がそこに置いて、というように近くのテーブルを目で示した。
由春は俊樹に視線を戻し、よく響く声で告げた。
「料理の世界では、シェフや料理長を『おやっさん』なんて言うところもありましてね。ま、良し悪しなんですけど、俺はここの従業員の親の自覚があります。特に蜷川に関しては、店をオープンするときに、『椿の若』に託されたので。信頼して預けられて、手塩にかけて育てました。伊久磨に親がいないからといって、ぞんざいに扱う家にはやれません。それは俺と椿が許さない」
光が差して、音が消えた。
言葉が出ない。
ずっと燻っていた懸念事項を見抜かれていたことと、はっきり口にしてくれたことに。
言葉が出ない。
黙って由春を見ていた俊樹は、低く呟いた。
「椿の先代はもう亡くなってしばらく経つはずだ。『彼』は椿の当主だろう。若ではなく」
由春は唇に笑みを浮かべつつ、切れ長の瞳を見開いて念を押すように言った。
「そうでした。では、椿の当主と『海の星』のシェフが親代わりです。あ、そうだ。伊久磨には他にもまだいるんですよ。彼女の親と会うと言ったら、手土産まで用意してくれるようなあしながおじさんが。伊久磨の周りには、ここで生きてきた分だけ、人がいます。居場所はここです。間違えても、中小企業の経営者の跡取りだとか、そういう目的でお嬢さんとお付き合いしているわけではないので。手元に確保しようなんて思わないでください」
最後の方は、若干の早口。
耳を澄ませて聞いていたら、滲みかけた涙が引っ込んだ。
(なんだこのひと……、結局気にしているのは俺が齋勝工藝社に引き抜かれないかだけじゃないのか?)
香織と由春が親代わりだなんて、年齢ほとんど変わらないお父さんが二人なんてどうしようと本気で困惑したし。
香織は友人で、由春は上司で、「海の星」は職場なのに。居場所はここだなんて、住みついているみたいなことを言われても。
言いたいことが渦巻いている。
「よくわかった。気に留めておこう」
由春への返事は短かった。それから、俊樹は改めて伊久磨に向き直った。口の端に笑みを浮かべて言った。
「娘と付き合っているとか。まだ本人の口からは聞いていないんだが」
う、と伊久磨は胸に痛みを覚えながら、深々と頭を下げる。
「静香さんと、お付き合いさせて頂いています。お互いの仕事のこともありますし、今すぐにではありませんが、結婚を考えています。申し上げるのが遅くなりまして、すみません」
顔を上げたところで、「本当だね」と頷かれる。続けて、しみじみとトドメをさすように言われてしまった。
――本人より先に親同士で話をつけることになるとは。「親が結婚を決めるような時代でもない」と言っていたんだし、もう少ししっかりして欲しいね。
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