第181話 呼吸

 三年も働いていると、空気の流れでわかる。

 振り返ったところで、由春と目が合った。


「行くぞ」

「はい」

 馴染んだやりとり。タイミングをはかることもなく。


「少し時間がかかる。個室のお客様はデザートまで終了しているが、聖、気にしておいてくれ。お立ちになる席もあるかもしれないから、藤崎はホールのテーブル会計を見るようにと」

 エレナはホールから戻っておらず、オリオンは外に雪かきに出ている。

 由春は聖に手早く指示を出してエプロンを外した。立ち止まることなく歩き、その後に伊久磨が続く。

 追いつくのを待っていたように、目の前すれすれでスピードを落とされる。ぶつからないように足を止めると、肩越しに振り返り、にやりと笑われた。


「個室、完全に目が届かなくなるのが怖いな。ファミレスの呼び出しボタンでも導入するか」

「シェフ、いまはボタンよりタブレットですよ。ファミレス行くことないから知らないんじゃないですか」

 すかさず言い返すと、由春は片眉をしかめた。

 その顔を見下ろしながら、伊久磨は念入りに言い添える。


「注文も呼び出しもタブレットで出来ます。注文式の回転寿司だと会計の確認もできますね」

「注文式? それはもう、回転寿司とは言わないんじゃ」

 ピンと来ていない様子。

 伊久磨はふっと噴き出して「今度一緒に行きますか」とにこやかに誘いをかけた。


「食うものあるかな」

「ガリ食べてお茶飲んでてください。俺は食べたいもの食べます」

 キッチンとホールの境目、ぎりぎりの位置。なんだそれ、と由春に肘で小突かれ、避けずに甘んじて受ける。

 その次の瞬間、ホールに踏み出したときにはすでに、二人とも何事もなかったように表情を切り替えていた。

 呼吸。

 気持ちが良いくらいに、互いの動きがわかる。歩くテンポも、話の区切りも、全部。二人で連れ立って行動するときに、寸分の狂いもなく合わせられる。

 向かうのは、齋勝家のテーブルだった。


 シェフの挨拶を最後にしたのは、ゆっくりと話す時間をとる為だろう。

 不測の事態があっても、対応するつもりでいるに違いない。

 背中を見て、伊久磨はそっと吐息した。


 静香と父親が揉めていたようだと、エレナから報告を受けている。食事を中断するほどではなかったし、その後は特に荒れることもなく、和やかな空気になった、とはいうものの。

 疑いたくはないが、エレナはあまり目を合わせないようにしていた。

(たぶん、何か隠している。仕事じゃなくて、俺のプライベートかな……)

 伊久磨は個室以外にもホールのテーブルを見ていたので、タイミングを合わせられず、齋勝家のテーブルには行けなかった。静香も落ち着いている様子だったので、ひとまず仕事に集中させてもらった。

 問題を先送りにした、とも言う。

 

(まず第一に光樹の仕事バイトの件。次に静香との交際の件)

 それで手一杯のはず。功を急いてはいけない。一つずつ一つずつ。

 自分に言い聞かせはするものの、欺瞞のように思えてならない。


 椿香織は命の恩人。香織なくしていまの自分はいないのに、香織を黙殺する人たちと、何もなかったような顔をして仕事と結婚の話をして、笑い合えるのだろうか、と。

 悩む間もなくテーブルに着く。


「本日はご来店頂きましてありがとうございます。岩清水です。お目にかかるのは初めてですが、先日電話でお話させて頂いたのは、お母さまですね。その節はありがとうございました」

 落ち着き払った態度。明瞭で張りのある声。

 テーブルの四人にさっと視線をすべらせて、柔和に微笑む。


「お料理はいかがでしたでしょうか」

「とても良かった。どうもありがとう。いやしかし、話には聞いていたが、若いね。この建物に内装で、これだけの料理だ。客もそれなりだとは思うんだが、よくやってる」

 父親が口火を切る。

 由春が、ははっ、と明るく声を立てて笑った。


「たしかに、いろんな方にご利用頂いていますね。今日は蜷川がお客様のことで齋勝様にご相談申し上げて、ご協力願ったとのことで。ありがとうございました」

「世間話にのっただけだ。何か役に立ったなら良かったが」

 滑らかな会話。しかしここで気は抜けないと、伊久磨がひそかに深呼吸したところで。


「これで蜷川はうちのエースなので。いま店抜けられると、困るんですよ。引き抜き話はずいぶんあるんですが。中には、上司の俺からなんとか説得してくれ、なんて案件も。俺にまわってきた場合は蜷川に話を下ろす前に握りつぶしていますけど」

 俺、と。

 よそ行きの上品さをかなぐり捨てて話し始めた由春に、伊久磨は「何言ってるんだ?」と目だけで気持ちを伝えたものの、流される。


「特に多いのが、市内中小企業の経営者クラスからの打診ですね。娘と会ってくれ、と。年齢も年齢なので、今から自分の会社で跡継ぎとして育てても十分いけるってことだと思いますが。だよな、伊久磨。今年に入ってからも、営業初日にわざわざ予約入れて、御年賀持ってきてくれたところもあったような」

「シェフ、いまその話は」

 おい、なんの話を始めたんだと目配せは続けているが、目を細めて笑い返されただけ。


 カチャン、とシルバーが皿に置かれる小さな音が、やけにはっきりと響いた。


「伊久磨くん。なんの話? あたし聞いてないんだけど。娘に会う? 跡継ぎ? お見合いでもするの? どこの誰と?」

 予想していたし、すでに覚悟もしていたが、静香が黙っていられるわけもなく。

「終わった件です。娘さんの写真や身上書が送られてくることがありましたけど、個人情報だし丁重に送り返しています。だいたい、ご本人ではなく、親御さんからの打診ですよ。ご本人からならいざ知らず」

 失言した。

「いざ知らずってなに? つまり『ご本人』からのお誘いならまんざらでもないってこと?」

 伊久磨は静香の目を真摯に見つめ、なるべく穏やかに声をかける。


「わざわざ勘違いしないでください。親同士が結婚を決める時代でもないのに、娘さんもいい迷惑だろうというだけの意味です。考える余地すらない、ですよ。言うほどの話でもありません」

「嫌だ知りたい。そういうの、彼女は教えてもらってもいいんじゃないかな。ま、言いたくないなら良いんですけど。あたしほら、伊久磨くんの家に誰かが泊まってるって言われても『誰?』って聞けないくらいだし。聞かないから気になってないってわけじゃないんだけどな~」

 腕を組んで、聞こえよがしな独り言のようにぶつぶつと言われて、「ああ」と間抜けな声が出てしまった。


「気になっていたんですね」


 途端、静香から冷え切った視線を向けられる。

「なるでしょ。ならない彼女がどこにいるのよ。遠距離じゃなかったらそのまま家に確かめに行ったわよ。というか近距離ならそのまま住みつくし。別々に暮らす意味ってなんかあるの?」

 どう見ても口からブリザードを撒き散らしているように見えるのだが、自分の勘違いでなければこれは甘えられているのだろうか? と伊久磨は首を傾げてしまった。


「自分の彼女が何を言っているかよくわからないんですけど」

 思わず由春に尋ねると「あれほどわかりやすい惚気があるかいい加減黙れ」と言い返される。

 この事態を招いたのは自分のくせに、と伊久磨は納得いかない思いに駆られた。


「あの……、うち、家を建てる仕事しているので。新居の相談にはのるわよ。娘のことだし、値段に関してはもう頑張らせてもらうから」

 そこまで黙っていた母親に口を挟まれて、そちらに目を向けながら(あ、そうだ、建築屋さんだった)と伊久磨は一度納得しかけた。

 それから、改めて、なんの話だっけ? と考え始めた。


「姉ちゃんこれ、姉ちゃんの片思いだ。認めちゃった方がいいよ。いろんなひと巻き込む前に」

「光樹はまたそういうこと言うし! 大体、付き合おうって言い出したのは伊久磨くんなんだよ! この席でね、こう、『俺はどうですか?』って」

 あー、あの時か、と由春が呟いた。

 光樹はひたすら渋面になって、姉をいたわし気に見ている。

「言えば言うほど伊久磨さんに迷惑かけてるから。そろそろ黙ろうよ、姉ちゃん」

「嘘じゃないんだってばー! ね、伊久磨くん! 伊久磨くん!?」


(なんだろう。俺の勘違いでなければ、家族と上司の前ですごく恥ずかしい話を披露されているような気がする)

 あるべき手順をすっ飛ばして。

 いま我に返ったら恥ずか死ぬんじゃないだろうか。

 死因:恥ずかしさに心臓が耐えきれなかった。


「今は光樹のピアノのバイトの話をしたかったので……。静香はその後でいいですか」

「えーっ、やだよ伊久磨くん、後回しにすると忘れるじゃない!」

 前科があるからなぁ。「後回しにすると忘れる」一字一句すべて正しく否定できる箇所が一切ない。


「さすがに五分は記憶持ちますので。五分なら待てますか。最悪、忘れているようでしたらもう一度言って頂けると思い出します」

 考えられ得る限り誠実に言ってみたところ、盛り上がって身を乗り出していた静香も、椅子に座り直して居住まいを正した。

「そっか。五分ね。わかった」

 わかってくれた。


 ほっと安堵したところで、由春から容赦なくどつかれた。


「頼むから、聞いているだけでポンコツがうつりそうな会話はやめてくれ」

 眼鏡の奥から、恐ろしく非難がましい目で睨みつけてきている。

 まじまじと見返してから、伊久磨は触れ合う寸前まで距離を詰めて言った。


「いつもこれだけ側で生活していて、うつっていないつもりですか。手遅れですよ、もう」

「うるせえ」

 会話の終了を待つまでもなく、同時に、二人とも通路の方へと目を向ける。

 個室から、家族連れが出て来たところだった。

(子どもが飽きてたからな、ゆっくりはしないか)

 タイミングがかぶってしまったと齋勝家に視線をすべらせると、目が合った俊樹に頷かれる。


「こっちはいいから、まずあちらへ。見送りなどがあるなら行ってきなさい」

「すみません。この続きはのちほど」

 ありがとうございます、とひとまずの礼を言って、由春と踵を返して向かった。


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