第180話 彼と生きること

「静香、蜷川さんとは以前からの知り合いなんだな」


 父に問われて、静香はフォークを手にしたまま動きを止めた。

 淡い光の下で、じっとこちらを見て来る父を見返す。

 言葉に詰まった瞬間、光樹がさらっと言った。


「彼氏だよ」

 言われた、と頭が真っ白になる。

 光樹は、絶対目を合わせないように料理の皿に目を落としてそっけなく続ける。

「去年この店のグリーンに手を入れたときに知り合ったんだって。結構最近だよね。どのくらいの頻度で行き来しているのか知らないけど、蜷川さん、仕事の休み少ないから大変だよなーっと」

 フォークで何かパリパリした網状のものを突き崩して、一口。


「彼氏?」

 父親の口から出る言葉として、ここまで気まずいものが世の中に他にあるかと。

「うん」

 ひとまず頷く。

 俊樹は視線をふわ~っと泳がせると、指で顎をつまんで遠くを見ながらぼそりと言った。


「だいぶ年齢離れてないか? 蜷川さん、かなり年下だろ」

「そこ!?」

 気にするの、そこ!? と目を見開きながら、静香はフォークを力いっぱい握りしめて身を乗り出す。


「いやいや、伊久磨くんそこまで、ん~? そこまで、若くもないかな? たしか大学卒業して三年で……誕生日いつだろ。とにかく、いま二十五歳くらいだよ? あたしはいま二十八歳だよ? お父さん、三十歳くらいだと勘違いしてない?」

「三月で二十九歳だから四歳違いか。中学や高校だとかぶらないくらい、一回り離れているな」

 少しだけ気の毒そうに言われた。その瞬間、自分が何かを間違えているような引け目を感じたが、そんなわけない。


「伊久磨くん落ち着いているから、そこまで年齢差って感じないよ。本人もそう言ってるし」

 俊樹はますます眉をひそめた。

「それは静香が年相応の大人になっていないという意味じゃないか。彼はこう……、家族のこととか色々あるそうじゃないか。お前で大丈夫なのか?」


 反論しようとしたが、何に対して反論すればいいのかさっぱりわからない。

(「お前で大丈夫なのか?」って、なに?)

 ドキン、と胸が鳴る。心臓が痛い。フォークを置いて、父親を見る。睨もうにも、目に力が入らない。


「お父さんは、あたしが伊久磨くんにふさわしくないって言いたいわけ?」

 ふう、と俊樹には溜息をつかれてしまった。


「ただでさえ、お前は普段東京だろ。それだけでも厳しいだろうに。彼は、少し難しいんじゃないか」

 厳しいとか難しいとか。

 家族のこととか。

 胸が、ずっと痛い。ズキズキしている。


「そんなの、言われなくてもわかってるよ。遠距離に関しては、今すぐじゃなくてもケリをつけるつもり。じゃなくて……『難しい』ってなに? 何が言いたいの? 伊久磨くんに家族がいないこと? そんなの、本人のせいじゃないよ。事故だって言ってたし、いまだって傷ついてはいるけど、こうやってきちんと働いて生活している。何がだめなの? 伊久磨くんの何を知って、そんなこと言っているの?」

 これまで、彼氏がいたことがなかったせいで、親に紹介したことも当然なかったけれど。

 まさか三十歳間近にもなって、交際に「反対」されるなんて思ってもみなかった。ましてや、伊久磨にはまったく落ち度のないことで。


「静香こそ、彼の何を知っているんだ? 遊びじゃなければ、結婚は当然考えているだろ。大丈夫なのか?」

「だから、何が!?」

 癇癪を起しそうになりながら言い返すと、冷たく響く声に突き放される。

「お前は、彼を支えていけるのか? 何故よりにもよって『彼』なんだ。彼は」

 静香は大きく目を見開いた。


(知っているんだ)


 父は、彼が『誰』か知っている。

 さして大きくない街だ。気にしていないはずがない、椿の家のこと。その動向。見知らぬ人間がそこで暮らしていたこと。

 伊久磨が、家族を喪ってボロボロだった時期に、どこでどんな風に、誰と生きていたか。

(それは責められるようなこと? 悪いこと? そういう時期があったことに、今の彼が否定されることなんて。あり得ない!)

 目の縁が熱い。涙が出てきてしまうのが悔しい。唇も震えている。悲しみじゃない。

 怒りだ。すべて、まぎれもなく、純度の高い怒り。瞳から炎が噴き出すが如く。


「お父さんにそんなこと、言われる筋合いない……!! お父さんは、一番それを言ってはいけないひとだよ。どうしてわからないの?」

「わかっていないのは静香だ。私はお前の親だ。子どものことで、何か問題があれば口を挟む。自分ひとりで大きくなったような顔をしているようだが」

 少なくとも。

 あなたに育てられた覚えはない。


 子どもの頃、どれだけ家の中が冷たかったか。やりきれない空気に満ちていて、居場所というものがなかったか。

 屋根があって、食べるものと着るものには困らなかった。そこに親の責任を果たしてくれていたから、手に入らないものに関しては望まないようにしてきた。愛とか温もりとか。


「それ以上言ったら親子の縁を切る。伊久磨くんを傷つけたら許さない。絶対に許さない」

 彼は。

 傷を負っている。あまりにも深く、まだ癒えていないことを、静香は知っている。

 すがりつくような寂しい目をする瞬間がある。本人も気付いていないかもしれないけれど。


(守りたい。彼を傷つけるものを、彼に近づけるわかにはいかない。たとえ自分の親だとしても)

 もしかしたらこの先一生、彼を暗く燃やし、焦がし、苛み続けるあの傷。

 不用意に暴きたてる誰かの手が届かぬように、守らなければ。それが彼と生きるということ。


「伊久磨さん良い人じゃん」

 無言で食事を続けていた光樹がぼそっと呟いた。

 そのまま、誰かの反論がある前に、ぶっきらぼうに言い捨てる。


「家族いないってさ。嫁姑問題もなくて、姉ちゃん楽でいいよな。母さん苦労しているの見て来たし」

「……ああ」

 あんた、良いこと言うわね、と。皆まで言うことはできなかったが、胸の裡で思う。

 聞こえるはずもないのに、「うん」と光樹は静香に頷いてみせて、さらに言った。


「俺はあのひとが義兄さんならいいと思う。あと、姉ちゃんわかってないみたいだけど。親父もべつに反対はしてない。ただ、姉ちゃんが大丈夫なのかって話だよね、いまの。あのひと、家がすごい片付いているんだ。そのこと、香織さんとちょっと話したんだけど」

 香織、と光樹はごく何気ない文脈で言った。

 意図的だ。彼は兄かもしれないという静香の打ち明け話を、忘れているはずがない。

 それでいてすっとぼけて名前を出している。まるで本筋とは関係ないと言わんばかりに。


 料理は綺麗に食べつくされていて、光樹はフォークを皿の隅に置きながら話し続ける。


「伊久磨さん、『家族の遺品整理が大変だったから、迷惑かけない生き方をしている』って言ってたらしいよ。いつだって、死ぬつもりで生きている。そういうひとを、この世に引き留められるひとじゃないと、一緒には生きられないだろう、って。姉ちゃんにそれができるの? 親父が言っているのは、たぶんそういうことだよ。伊久磨さんのこと、知ったつもりになってるだけじゃ足りない。彼氏ができた~って浮かれてるだけじゃなくてさ、ちゃんと先のこととか考えてんのかって」


 静香は大きく息を吸って、呼吸を整えた。目を伏せて、涙をやり過ごしてから、顔を上げる。


「家が片付いているのは気付いていたけど……。ちょっと散らかしてくる」

 気付いてはいたけど、うまく言葉にはできなかった。違和感。

(香織は、伊久磨くんのこと、わかっているんだな)

 部屋を見ただけで、何がどうして「そう」なのか。

 自分からは言わない。悟らせない。ひっそりと、ひとりで死ぬ準備だけは進めている。


 本人にもどうしようもないのかもしれない。この世に未練がない。自殺する気なんかなくても、いつでも「そのとき」が来ても良いと思っている。

 彼はまだ「そこ」にいる。


(大丈夫。絶対「ここ」まで連れて来る)

 自分が命綱になる。気持ちを新たに。


「まあ、姉ちゃんが散らかす前に、香織さんが結構散らかしていったと思うけど。ひとと暮らすのしんどいなぁって思ったんじゃないかなあれ。あ、でもあの二人って、もともと一緒に暮らしていたんだっけ」

 わざとの「香織」を、光樹はまだ続けている。

 そのことに、静香は堪えきれずに噴き出した。


「みんなで伊久磨くんの家に行かないでよ。少なくとも、あたしがいるときは遠慮して欲しいのよね。光樹も入り浸ったりしないでよ」

「伊久磨さんは良いって言ってたけど。親の許可が取れたらって。別にいいよな親父。俺男だし。伊久磨さん煙草も吸わないし、お酒も子どもの前では飲まないって。この間なんかココア……」

 言いかけて、相好を崩した。

 大切な何かを思い出したように、くすりと笑みをこぼしてから囁きの音量ですばやく言った。

「ココアは香織さんが作ってくれた。すげー甘いの。味覚どうかしてんのかって思った。椿屋の饅頭は食べやすかったんだけどな」


 いまだかつて、ここまで。

 この家族の間で、香織や椿の名前が出た試しがない。

 静香は顔を上げて、父親を見た。


「そういうことだから。大丈夫。あたしが選んだひとに文句つけないで。ほら、あたしももうすぐ三十歳だし。他にいいひといないのかなんて言われても、いないんだなぁ~。さて食べよう。お父さんもほら、食べないと。藤崎さんがお皿下げられないから」


 明るく言って、フォークとナイフを持ってお皿を見る。

 それから、ふっと隣の母に目を向けた。

 ちらりと見返してきた母は目元に笑みを浮かべていた。何か言った方がいいのかなと思ったけど、胸がつまっていて言葉が出てこない。

 代わりに、何度目かの言葉を口にした。


「いただきます」


 ふと視線を流すと、キッチンから出て来た伊久磨が、個室に向かうのが見えた。

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