第179話 少し先の未来

 五歳からなんだよね、とオリオンが言った。

 視線は皿へ。アミューズブーシュを繊細な手つきで盛り付けている。

「飲酒。イギリスでは」


 煌々と照らし出されたライトの下。

 ディシャップ台で進行中のテーブルのオーダーを確認していた伊久磨は、冗談だと思って流しかけた。

 一応、確認の為に聞き返す。

「五歳? 十五歳?」

 盛り付けを完了して、オリオンは顔を上げた。皿を差し出してから、柔らかい口調で続ける。


「五歳、家庭内では。法律では十八歳になっているけど、場合によっては十六歳でもO.K.第二王子が十四歳で寄宿学校パブリック・スクールに進んだとき、すでにアルコール依存症だったらしいっていうのは当時話題になった」

 騙されているのかと、ちらりと聖を窺い見る。

 皿の上に綺麗な切り口のテリーヌを置いていた聖は、伊久磨に顔を向けてくることもなく「マジだって」と言った。それを受けて、オリオンはおっとりと言い添えた。


「最近では健康上の理由から推奨はされていないけど。ちなみに一歳半というと……、せいぜい、夜は子ども部屋でひとりで寝るくらいかな。泣いても叫んでも大人は大人、子どもは子ども。ぬいぐるみや毛布を抱いて一人で寝なさい、て感じ。日本では違うんだよね? 僕のおばあ様は日本人だったから、イギリスの文化にはびっくりしたみたい」

 先程見たばかりの、言葉もまだの幼い子どもの姿を思い浮かべて、伊久磨は戸惑いのままに眉を寄せた。


「事故起きないんですか。そんな小さな子を一人にするなんて、こう……」

 オリオンは苦笑して肩をすくめる。伊久磨はまじまじとその目を見つめて、口をつぐんだ。


 妹と年が離れていたので、生まれたときから覚えている。暗い夜に家族でくっついて寝ていたことも。

 夜通し風が吹き荒れて窓が軋む音を立てるような日は、ふと目が覚めた真夜中に、家族の寝息や温もりにほっとした。

 やがて自分の部屋を与えられても、寝る時以外は家族のいる居間で過ごしていた。小学校入学のときに買ってもらった学習机は、ほとんどその用途で使った覚えもない。宿題も居間で済ませていたくらいだ。

 心の深みにしまい込んだ生家の灯。今は何もかも遠く、失われて久しい幻。

 耳の奥から誰かの笑い声が甦りかける。そんなのは嘘だ。もうみんな死んだくせに。


 まとわりつく悲しみを振り払うように皿に手を伸ばしたところで。

 空気の流れが変わった。風。

 視線が吸い寄せられるようにホールとの境に向き、飛び込んできた由春の姿を見とめた。


 * * *


「俺が作って、俺の店で出す料理は全部『本物』だっつーの!」

 抑えた声ながらも、一言言わずにはいられなかったらしい様子。

 そのまままっすぐ裏口側の手洗い場に向かい、さっと手を洗ってから持ち場に向かう。待ち構えていた聖が「わかった、わかった」と腕を伸ばして抱き寄せた。

 由春は、ぎゅうぎゅうと抱きしめられていることにすら気付いていないかのように、憤懣やるかたない様子で息巻いている。


「逆に、どうすれば『偽物』なんか作れるんだよ。『偽物』ってなんだよ」

 ゆらりとその身体から苛立ちが湯気となって立ち上っているかのように見えた。

(落ち着いてそうだったけど、やっぱり怒ってたんだ)


「お疲れ様です。ずいぶん気に入られていたみたいで」

「うるせえ。つーかお前……、切られるなよ。刃物をちらつかせるなんて、あり得ない。クソが。少なくともあのじいさんは今後出禁だ。家族に免じて今日は追い出さないが、次はない」

 終始機嫌は悪そうだが、自分の心配をされていることだけはわかって、伊久磨は思わず笑みをこぼす。

 

「さてどうでしょう。また違うお子さんに予約させてしれっと来そうな気がします。子どもが二十人いるそうですよ。マフィア家業の後継ぎ以外は一般人だそうで。うちの店で祖父母と孫が一緒に来る行事というと……。初節句や七五三をはじめとした子どものお祝い、喜寿や米寿といったご本人のお祝い。色々ありますね」

 聖の腕から逃れてきた由春に、両肩に両手を置かれた。


「俺は来て欲しくないんだ。面倒事は起こさずつつがなく食事を終え、二度と来ない。その加減で」

「無茶苦茶なこと言ってますけど。結局のところ、最善を尽くすしかないじゃないですか」

 仕事に戻ってください、と腕を引きはがして背を向ける。


「齋勝さまのテーブル行きます」

 ホールから戻ってきたエレナが、並んでいるプレートを手にした。

 伊久磨もまた、ディシャップ台の前に立つ。由春が戻ってきたので、個室の食事を始められるはず。

 一瞬肩を並べたところで、エレナに小声で言われた。


「光樹くんと静香さん、喧嘩しているかも。空気が変」

 ちらりと見下ろすと、見上げてきたエレナと目が合う。

「御両親は」

「お父さまはふつう。お母さまは静かな方ですね。あまりでしゃばらないようにしているみたい。あ、でも蜷川さんは個室に集中してくださいね。こっちは、私が、なんとか」

 顔が緊張している。

(俺のせいか?)

 リラックスしているとは言い難い空気が伝わってしまっただろうか、と微笑んで見せる。


「俺は大丈夫です。齋勝さまをお任せします。だけど何かあったらすぐに教えてください。フォローします」

 エレナの瞳に、安堵の光が浮かんだ。ふわりと表情がほころぶ。

「ありがとうございます。ひとりで対応しようとして失敗するくらいなら、先輩に、ですよね」

「はい。お客様は新人の実験台ではありませんから。藤崎さんが担当とはいえ、抱え込まないで。店としてベストを尽くしましょう」

 大丈夫ですよ、と繰り返して送り出す。


 視線を感じて顔を向けると、由春に見られていた。眼鏡の奥の瞳が、面白そうに笑っている。


「何か?」

「三年もこの仕事をしていると、立派な先輩になるもんだなぁ、と」

 褒めているのか揶揄しているのか、咄嗟に判断し難い。伊久磨は一度口を閉ざす。


(もし俺が幸尚のようにこの店をやめて、東京へ行くと言ったら、どうしますか)

 心の中だけで問いかけて、目を伏せる。

 どうもしない。


(俺を「先輩」になるまで育てたのはシェフで、俺がいなければ藤崎さんなり、違うひとなり、自分のパートナーとして育て上げるはずだ)

 信頼を試すようにifの話などしてはならない。得るものより、失うものが多い。

 どこへなりとも行けと言われてしまったら、その亀裂はやがて決定的になる。


この人シェフが俺を選んだんじゃない、俺がこの人を選んだ)

 生きていくのも覚束なかった時期に、この店の戸を叩いて、ともに働くと決めたのは自分だ。

 選ばれなければ、望まなければ生きていけないと思ったら、不安で試さずにはいられなくなる。そうじゃない。

 今まで自信を失わないで続けてこられたのは、岩清水由春というひとが。

 絶対に、自分を裏切らないと信じることができたからだ。

 

「個室もなんですけど、ごめんなさい。先に謝っておきますけど、齋勝家がやっぱり気になっています」

 弱音も甘えも言いたくはなかったが、一方で心配があれば抱え込むなとひとには言っている。それは自分自身も例外ではない。

「知ってる」

 由春は短く答えてから、感慨深げに呟いた。


「あそこ、姉弟でお前のこと取り合ってんのか。お前のせいだぞそれ。断絶したらどうするんだ」

「え。無いですよ。無い無い。岩清水さんだって、湛さんを和嘉那さんと取り合ったりしないですよね。自然な流れとして、湛さんと和嘉那さんを取り合っ、あ、これ言葉にするとえぐいな」

 わざとらしく慌てたふりをして打ち消してみたのに、由春はひくりと頬を引きつらせていた。


「えぐい上に根も葉もねーよ。ひとんちの姉弟関係で邪悪な妄想をするな」

「先に言い出したのはシェフですよ。静香と光樹が俺を巡ってだなんて」

 あほですか、と言う前に切り込まれる。

「椿とフローリストでお前を取り合っていたんじゃねえのか。どうすんだ椿」

 あながち、根も葉もないと却下できずに伊久磨は押し黙る。しかし時間は容赦なく過ぎるし、今はそんな場合ではない。

 目の前に並んだプレートに手をかけた。


「とりあえず行ってきます」

「行け」

 追い払うように送り出される。

(どうするも何も、香織は香織。静香は静香だ)

 二人の仲を引き裂いたのだとしても、それぞれとは誠実に付き合っているつもりなのだが。

 一方で(引き裂いた……? 俺が……?)という新事実に動揺していた。


 そうかもしれない。そんな気がする。自分でなくてもあの不均衡はいずれ崩壊していたとは思うのだが、自分がきっかけになったのは間違いない。

 この状態のまま、静香と結婚したとして。式まで挙げるとすれば。

 静香の家族は当然参列するし、家族のいない自分が招くとすれば真っ先に思い浮かぶのは香織。


 


 何がというのではなく、はっきりとその言葉が頭に浮かぶ。

 だめだ、絶対。

 香織の存在を消したまま、静香の家族と付き合っていくことはできない。かつて家族のいない痛みを分け合った香織も、自分にとってはかけがえのない存在なのだ。静香と比べることはできない。

 

 香織は生きているし、この先もずっと生きていく。

 まだ望みはあるはず。今よりも少し違った未来が。

 もし望みなどなく、触れただけで壊れてしまうのなら。


(俺はきっと、壊してしまう)

 壊すことを、選んでしまう。


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