28 ベル・エポック(後編)

第178話 本物

「部屋の温度は大丈夫ですか。寒くないですか」

 個室にて。

 テーブルについた四人にファーストドリンクを配りながら、伊久磨は穏やかに声をかけた。

 うち一人は、椅子に座ることなく父親の膝の上。物珍し気に見上げられて、しぜんと笑みが浮かんできた。


 窓の外では、真っ白な雪が舞っている。

 カーテンを閉めてしまえば暖かくなるはずだが、雪の夜でもライトアップしているのは庭の景観も売りの一つだからだ。

(明日は吹雪の予報だったな。今晩はこの後、荒れ模様か)

 お客様のお帰りになる時間までに、交代で雪かきに出ないと、駐車場が埋もれてしまうかもしれない。

 予約状況から各テーブルの進行予測、仕事の割り振りまでざっと思い浮かべて、自分が暗く冷え切った外に出て行くところまで思い描いた。


 氷点下。

 夜気を吸い込んで、喉から肺が凍り付く。滅茶苦茶に吹き付けてくる風の中、乱舞する雪に頬を打たれ、身体の芯まで凍えながら夜空を見上げる。

 右も左も天地もわからない。

 その瞬間、暗闇を、暗黒を見通せるかのように思考が冴えて、舞い散る雪の結晶が瞳にくっきりと飛び込んでくる。吸い込まれて行く感覚が身体を駆け抜けていく。


「本日はお足元も悪い中、ご来店頂き誠にありがとうございます」

 耳を打つ、硬質な声音。

 ほんの一瞬、夢のように全身を包み込んだ夜の幻は立ち消えて、暖かな室内へと意識が呼び戻された。


「当店のシェフの岩清水です」

 半歩下がった位置から、慣れた口上を述べた。

 耳目を集めて、由春がすらりと続ける。


「本日特別コースを四名様で承っておりましたが、おひとりは一歳半であるとお伺いしました。まだ召し上がったことのない食材も多いのではないかと。時間帯も夜ですし、アレルギー等の反応が出た場合、受け入れ先の病院を探すのも大変で、大ごとになる恐れもあります。お子さまには、別途、食べなれた食材でコースを組ませて頂きます」

 視線が、うっすら笑みを浮かべている老人の方へと向かう。


 ――ここは俺の城だ。


 由春のまなざしは静かで、揺るぎない。

 老人は椅子の横からテーブルに向かって立てかけていた杖を、手にした。なんの変哲もなく見えた木製の杖。弄ぶように右手から左手へ。その動きの途中できらりと鈍い輝きが目に飛び込んでくる。

 まるで刃物が光を弾いたような。

(……! 見間違いじゃない。本物だろうな)

 するりと上下に割れて、木製の杖から刃がのぞいていた。


「家族の誰にもアレルギーなんぞないからね。大丈夫じゃあ、ないかね」

 笑みを絶やさず、口調は穏やかに。

 由春は眉のひとつも動かさずに、きっぱりと言った。


「そういうわけにはいきません。私にはこの店でお客様が口にするものに、責任があります。危険があるかもしれないとわかった上で提供することはしません。子どもと大人は違います。違うものを同じとみなしても、同じにはなりません。一歳半では長々とコースが続いても、食事に集中することすら難しい時期かと思います。とはいえ、それは個人の特性や親御さんのしつけとはまた別です。今日は個室もご用意できましたので、他のお客様を気にすることもなく、寛いでお食事なさってください」

「本物をね」

 鍛えられた発声だ。老人の声は、張り上げた様子もないのに、響く。 


「本物を見せてあげたいんだよ。食べられないとしても」

 座ったまま床に杖を立てて、両手をのせている。

。認めた)

 老人に目を向けて、由春は唇に笑みを浮かべてみせた。


「料理は食べて頂く為に作っています。大人の方と内容は変えたとしても『子どもだまし』ではないのでご安心を。それと、料理以外にも『本物』なら館内にたくさんありますよ。そちらのビリヤード台も、触っても簡単に壊れませんので、どうぞ。明治時代のもので紫檀製、象牙入り。脚の形はライオン脚と呼ばれるものです」

 促されて、皆が目を向ける。


「日本にビリヤードが入ってきたのは江戸時代末期、長崎の出島に持ち込まれたのが最初と言われています。明治時代になると大邸宅にはこのような『撞球室』が設けられることが多かったようですが、当時はビリヤードは上流階級のものとされていました。まず、部屋の作りからして特別です。台の表面を水平に保つ為に地面から床までに石や煉瓦を組み立てそれ専用に作る必要があり、基礎工事に莫大な費用がかかったようです。しかも初期のビリヤード台は縁や脚まわりに豪華な彫刻の施された贅沢な輸入品でした。国産品が出回り、一般に普及したのは明治二十年代の後半。ちなみにそのビリヤード台は初期の輸入品です。彫りはバロック式」

 淀みなくすらすらと話す声は心地よく、伊久磨もまた耳を澄ませて聞いていた。


「遊べるのか?」

「ぜひ」

 値踏みしているのが明らかなぶしつけな視線を向けられても、由春は泰然としている。

 確認するように老人が口を開いた。


「入口に置いてあったのは、ガレか?」

 カウンターの上にランプを置いているが、それを目にして気に留めていたらしい。

「はい。エミール・ガレの『本物』です」

 何一つ動じることなく由春が答える。

 老人は、不意に呵々と明るい笑い声を響かせた。


「そうかそうか。なるほど。ではもう少し何か見せてもらおうか。『本物』を」

 言いながら立ち上がる。手始めとばかりにソファに関して話題にあげる。これもアンティークか、と。

 由春が老人と話している間、伊久磨は若夫婦に声をかけた。


「おじいさまがご納得してくださったようですので、お子さまの料理に関してはいくつか変更させて頂きたいと思います。スープはコーンスープでしたら召し上がれますか」

 子どもの食べられるものに、大人のコースも一部変更して、要所要所で合わせていくこともできるな、と思い浮かべながら確認した。


「ありがとうございます。あの通り、父は頑固で……。この子の食べ物に関しては、甲殻類はまだ試していませんし、あとそばとか……。だめかどうかはわからないですけど、シェフの仰る通り、アレルギー反応が出ても夜ですから、行きつけの病院も閉まってますし」

 母親が溜め込んでいたかのように話し始め、伊久磨も頷きながら耳を傾ける。もともと無理があると思っていたのだろう、明らかにほっとした様子だった。

 老人につかまった由春はまだまだ時間がかかりそうな気配だったので、一度切り上げて部屋を後にした。


 * * *


 伊久磨の持ち帰った情報をもとに、聖とオリオンでコースの内容変更を始めることにした。


「ヤのつく職業っぽいって。つまり?」

 言い添えられた言葉に、オリオンが目をしばたいて聞き返す。

 英語でなんていうんだろう、と迷いつつ伊久磨が答えた。


「ギャング?」

 視線を向けた先は聖で、頷いているのを見て間違いではないらしい、と結論付ける。そのままオリオンに向き直り、念押しとして続けた。

「ジャパニーズマフィア」

 ああ、とオリオンは小さく頷き、「マフィア」と呟いた。


「それでハルは」

「マフィアに気に入られて話し相手になっていました。まだ戻ってこれないかもしれないので、西條シェフ中心に進めてください」

 ちょうど話し合っているところにエレナが戻ってきて、齋勝家が揃ってスタートするところだと告げる。


「蜷川さん、ファーストドリンクだけでもいきますか」

 立ち止まることなく準備しながら、エレナに問われて伊久磨は「ありがとうございます」と返した。そのままホールの様子をうかがった。

(齋勝家。お母さんは初めてだ)

 髪が横顔を隠してはっきりとは見えない。染めていないのか白髪交じり。肩まわりがほっそりとしていて、静香に似た印象を受ける。

 姉弟の母親。そして。


「準備できました。ファーストドリンクはお任せでお父様と静香さんがアルコール、蜷川さんの用意していたモエ・エ・シャンドンのロゼ。お母さまと光樹くんはロイヤルブルーティーです」

 エレナに頷き、トレーを受け取ってホールに向かう。


 先程、個室で対応にあたった若い母親の姿がかすめる。父親が膝に乗せている子どもに向けた、まなざし。心配事が消えたとばかりに、子どもの好物、普段食べているものの話を伊久磨にしてきた。

 それを「母性」だとことさら神聖視する気はないけれど、そこには愛があるような気がして。


(齋勝家のお母さんは、自分が産んだ子どもを手放すってどういう心境だったんだ。どうしても手元で育てられない事情があったにせよ)

 彼のひとにとって、椿香織はいかなる存在なのか。


 テーブルに向かう。

 四人の様子を見ると、早くも空気がおかしい。静香の顔色が悪いし、光樹はむすっとしている。一家の父親は表情がほとんどなく、母親は伊久磨が近づくのに気づいたように顔を向けてきた。

 目が合う。


 硝子のように透明度の高い、澄んだ瞳。淡い笑みを浮かべている。

 見た瞬間に納得してしまう。静香よりも光樹よりも。

 手元で育てられなかった息子が一番似ている、その目。

(こんなの、見ればすぐにわかる。誰にだって)


「いらっしゃいませ。こんばんは」

 失礼にならないように視線を剥がしながら、四人を同時に視界におさめて挨拶をする。

 心の奥底が、変にふつふつと沸いていた。怒りでも苛立ちでもなく、得体の知れないもの。

(……いや、怒り? 俺は怒っているのか?)

 失われた時間。会おうと思えば会える距離に、互いを親子と認識しながら無視しあってきたであろう二人。「捨てられた子ども」の香織からは、それはどうしようもなかったはず。

 どうにかするとしたら、親であるこのひとが。


 滅茶苦茶になりかけた心を無理に圧し潰す。今はそんな場合ではないと、雪の夜の暗さを思い起こし、気持ちを抑えつける。大丈夫、今日は集中力がある。


「アルコールのご注文はお父様ですね。帰りの運転は奥様ですか」

 いまはまだ仕事中。

 穏やかな声を心がけて話しかけ、目が合った俊樹に笑いかけた。笑えたと思う。

 どうか最後まで、この感情に拘泥することなく、笑い続けていられますように。


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