第177話 味がしない
「や、やっぱり無理。気になり過ぎる……!」
一品目を食べ終わたところで、余韻もそこそこに静香は立ち上がった。
正直なところ、何を食べたかすら覚えていない。かろうじて、なんとな~く美味しかった記憶はある。
(シェフに言ったら二度と来るなって言われそうだけど)
料理の味より、伊久磨の動向が気になる。
タイミングよく皿を下げて、すぐに二品目を持ってきたエレナに「あら」という顔で見られた。
静香は椅子を押してエレナの元まで行き「お化粧室とかじゃないですから。あの、ちょっと……」と勢いよく言ってはみたものの、続かない。
エレナはプレート四枚持ちで、手早くテーブルに全員分配り終えて戻ってきた。
「何か気がかりなことでも」
輝くような美貌に間近で微笑まれて(やっぱり藤崎さん美人だなぁ)とぼんやりしそうになってから、「そんな場合じゃない」と軽く首を振る。
「あああああの、あのですね。個室の方は」
「はい。蜷川さんが進めています。順調そうです」
「伊久磨くんっていつもそういう仕事してるんですか。刃物ちらつかされながらだなんて」
レストラン勤務に、そんな危険がつきまとうだなんて誰が想像するだろう。エレナに向かって騒いでも仕方ないのは重々承知なのだが、口にしただけで手足が細かく震えてくる。何か粗相をしたら、胸に日本刀を突き立てられて……死……!!
考えただけで、顔が青ざめるどころか背景までどす黒くなる錯覚すらする。
「いつもではないです。私もこういうことは初めてなので、びっくりしています」
エレナには笑みを絶やさずに言われて、静香はまじまじとその顔を見つめてみた。
「びっくりしてない。全然びっくりしてないですよそれ。びっくりしてるっていうのは、こう、あたしみたいな反応を言うんです。どう見てもびっくりしてますよねあたし。料理も味わからないし」
ほら、ほら、と自分を指さして言うと、エレナは花がほころぶような艶やかさで笑った。
「齋勝さんって、表情がくるくるして見ていて飽きないです。私なんかこう……、面白味のない女なんですけど。今から頑張ればそういう感じになれるでしょうか……」
笑っていたと思ったら、急にずん、と暗くなった。
(ええっ、この美人なに言い出したの……!?)
静香は絶句して、目を見開く。ぱくぱくと口を動かしているうちに、ようやく声が出た。
「藤崎さんはそのままでいいと思いますけどっ。藤崎さんがあたしみたいな感じだったら、たぶんシェフとか嫌じゃないですかね!? 岩清水シェフはともかく、西條シェフなんかあたしみたいなの確実にだめですよ。滅茶苦茶いじめてくるし」
「西條くんは大体誰のこともいじめますよ」
たしかに。
深く納得しかけていたら、ちょうどキッチンから皿を持って出て来た伊久磨と目が合った。
一瞬なのに、にこっと、笑ったのがきちんと伝わる程度に微笑まれる。動きを止めることなく、残像が流れていった。
「蜷川さんは大丈夫ですよ。本人が大丈夫と言っているときは、絶対に大丈夫です。本当はこちらのテーブルを担当したかったとは思いますけど。私ではご満足いただけないかもしれませんが、もし何かお気づきの点がありましたらご遠慮なく仰ってください」
伊久磨と目が合ったのはわかったのだろう、エレナには穏やかに言われる。
慌てふためいている自分が、馬鹿みたい。
(「仕事仲間」は、こんなにも彼を信じている。普段の彼を知っているから)
彼女とは名ばかりで、ほとんど一緒の時間を過ごしたことがない自分よりも。
静香は深く呼吸をして、気持ちを切り替えようとした。
「藤崎さんで、不足とか、そういうことはないです。そんな、とんでもない。あたしが落ち着きないだけです。心配性で、そわそわして。ごめんなさい」
(この場面で迷いなく彼を信じられる。「藤崎さんになりたい」って、羨んでも仕方ないのに)
エレナが今ここにいるのは、東京での仕事や生活と決別してきたからだ。何かを得るために、何かを切り捨てている。「選ぶ」というのはそういうこと。まだ何も行動に移してもいない静香が妬んでいいはずがない。
そしてここは彼らの職場。彼女ごときが出しゃばれる場面なんかない。
反省しながら席に戻ろうとしたところで「齋勝さん」と声をかけられた。振り返ると、エレナが心配している顔で見ていた。
「そんなに不安なら、食事どころじゃないですよね。蜷川さんにちょっとこっちにも顔出すように言っておきます」
「はうぁ、いや、めっっっっそうもないです、それこそ完全に足引っ張っちゃうと思うので!! いいですからそういうの!!」
「遠慮しないでください。それで齋勝さんの気持ちが鎮まるなら全然たいしたことないですよ」
やばい。
完全に祟り神扱い受けてる。
藪蛇してしまったと歯噛みしていたら、個室から戻ってきた伊久磨が通りすがった。
「どうしました?」
親し気な笑みを浮かべて尋ねられ、咄嗟に声が出ない。邪魔したくないのに、結局気を遣わせてしまった。かくなる上は早く話を終えなければ。
「なんでもないです。伊久磨くんに怪我がなければそれで。刃物で切られたり刺されたりしていなければそれで」
「物騒な想像しているみたいだけど、普通に仕事しているだけだから。食事をどうぞ」
少しだけ砕けた話し方。
(沁みる)
「はい。食べます」
戻ろうとしたところで、エレナが伊久磨に向かってさらっと言った。
「心配しすぎで味がしないそうです」
転びかけた。焦って振り返ってばたばたと手を振る。
「藤崎さん、いいから、そういうの、いいから」
「味がしない? シェフがしくじったかな」
「やめてください、本当にごめんなさい。この後はもうずーっと席から立つことなく粛々と食事をします。ええ、東に病気の子どもがあっても西に疲れた母があっても南に死にそうなひとがいても北で
なぜか宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」が口をついてしまったが途中から明らかに間違えた。
伊久磨にはくすり、と甘く微笑みかけられる。
「わかりました。なるべく顔を出すようにしますから。温かいものは温かいうちに。落ち着いて食べれば味もするはず」
テーブルの家族からは、呆れた顔で見られている気がする。特に父親や光樹は「何やってるんだ」くらいに思っているはず。
母親の席の後ろを通って自分の席に戻ろうとしたら、ついてきた伊久磨に椅子をひかれた。手間ばかりかけさせているとさらに落ち込んだところで、ぽん、と背中に手で優しく触れられる。
椅子を押して、離れがてら伊久磨は何気ない調子で俊樹に声をかけた。
「齋勝さま、もしご存知でしたら教えて頂きたいことがあるんですが」
ほとんど皿のオードブルを食べ終えていた俊樹が顔を向けると、伊久磨は声をひそめて続けた。
「あの方、お好きなお酒とかあります? ご希望をお伺いしても『任せる』と。何かもう少し情報があればと思いまして」
俊樹は怪訝そうに眉を寄せたが、少し考えてから、そうだな……と小さく呟いた。
「出身は秋田だと聞いたことがある。行きつけの店に秋田の日本酒を揃えさせているとか」
「なるほど……、ここは素直に秋田の日本酒を出すべきなのか。普段飲みなれているだけに気に入らなければマイナスの方が大きいかも。かといって、『わかっている』と思われて御用達のお店になるのもそれはそれで困るんですが」
考え考え言う伊久磨の言葉に耳を傾けながら、俊樹も頷いてみせた。
「そもそも、いつもと同じものが良ければ、いつもの店に行くはずだ。初めてというのなら、来てみようと思っただけの理由があるはずじゃないか」
伊久磨は感じ入ったようにしっかりと頷いた。
「それですね。実は予約者名が、女性名なんです。もちろん、『女性に多い名前』というだけで男性の可能性もありますが。素直に考えて、若夫婦の奥様がご予約をされているとして……。会食の目的がもう少しわかればいいんですけど」
少し離れた位置で待機していたエレナが、「すみません」と小さく呻いた。
「予約時に私が詳しくお話を伺っていれば。年配の方を招いて楽しく食事をしたいだけ、お祝いというわけでもと言われて、引き下がってしまったんです。せめてどういうルートでこのお店を知ったかだけでも聞いていれば良かったかも」
「過ぎたことは過ぎたことです。とりあえず今は、次の手を考えなければ」
俯き加減のエレナに、伊久磨は励ますように声をかける。
それから、俊樹に今一度顔を向けて微笑んだ。
「ありがとうございます。秋田の日本酒でいきます。なんとかなりそうな気がしてきました」
「大丈夫なのか」
あまりにも決断が早いと思ったのか、俊樹が心配そうに身を乗り出す。一方の伊久磨はといえば、柔らかな光を湛えた目を細め、唇で笑みを形作り、頷いた。
「あの方ご自身ではなく、娘さんがこの店を選んでご予約されたとして、おそらく内装などの雰囲気で選んだのではないかと考えていたんです。先程シェフに館内案内をと仰って、アンティークについて色々聞いていたそうなので。目的がそちらで、料理は二の次だったとすると……。馴染みのない料理が続いたのであれば、飲みなれたお酒があった方が気持ちが休まるかもしれません。もし違うというのであれば、そこをきっかけにして改めてご希望をお伺いします」
迷いのない口調。
最後に、笑みを深めて、もう一度。
「ありがとうございます。本当に助かりました。今日は私が齋勝さんをお招きしたのに、却って助けて頂くばかりで。お時間が大丈夫でしたら、ゆっくりなさってください。後ほどシェフからもご挨拶させて頂きます」
軽く一礼して、踵を返していく。
エレナも合わせて一緒に下がって行った。
その背を見送ってから、俊樹は「いやいや、蜷川さんもなかなか大変な仕事を……」と独り言のように呟き、思い出したように静香を振り返った。
「静香、蜷川さんとは以前からの知り合いなんだな」
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