第46話 未来のこと
当日、休むか、と由春が言い出した。
「佐々木もいるし。順番に休みをまわすつもりだった。週休二日は無理でも月休六日くらいまでは持って行く。べつにお前を特別扱いしているわけじゃなくて、
由春の代わりはいない。が、伊久磨と幸尚のポジション、どちらにも入れる心愛がいるのであれば、三人で休みを回すことはできるだろう、という意味か。
由春が物凄く何か言いたそうにしていると気付いて、閉店後ぐずぐずグラスを磨いているうちに幸尚と心愛が帰り、ようやく切り出してきた。
グラスを片付けながら、伊久磨は浮かない調子で答えた。
「そうは言っても、俺の休みにサービスの位置に立つのって佐々木さんですよね。本人はそれで良いんですか。自分がパティシエとしてキッチンに立って、幸尚にもっとサービスを覚えさせろとは考えないでしょうか」
「そこは佐々木に納得してもらう。幸尚は、今は伸び盛りだし、将来的にもサービスじゃなくて、パティシエとしての仕事に比重がくるように考えている。サービスには専任のお前もいるし、幸尚は今よりもっと
由春の構想としては、料理部門に自分がいて、デザートや販売部門に幸尚がいて、という基本のラインがあるのだろう。しかし、伊久磨の立場からは賛成しかねるものがある。
「俺から見ると、佐々木さんはサービスとして優秀です。ゆきに言わせれば、パティシエとしても優秀みたいです。そして本人の希望はパティシエです。この場合、経験者で実力もある佐々木さんの下にゆきがつくことになってもやむなしだと俺は思います。ゆきも納得するでしょう。そこを、オーナーの意向で『器用だから』と佐々木さんを便利に使って、サービスでは専任の俺の補助、キッチンではゆきに指導はさせるけど、あくまで後から来た人間としてゆきの下。これだと、四人体制を盤石にするどころか佐々木さんに辞められてしまうと思います」
そこはいくら由春と心愛が旧知の仲とて、シビアに判断されても仕方ない部分だと思う。
両方できるばかりに、希望ではない部署に置かれて、本来やりたい仕事ができないのであれば、『能力があったばかりに、損をする』ということだ。不満にもなるだろう。
由春は、コックコートのくるみボタンを外しながら、遠くを見るような目になった。
「佐々木は、もともとパティシエ希望だったが、最初の会社でサービスで採用されたらしい。それでサービスを覚えた。その後、ずっと希望を出し続けてキッチンに入れてもらって、パティシエとして修行を開始したと言っていた。どちらもきちんとした店できちんと修行したから身についている。だけど
小さな店・少人数でやってきた功罪のようなもので、「調理にまったく手が出せない」伊久磨はサービスの専任だが、両方できる人間はできるだけにやらざるを得ない状態だった。
それだけに、由春が心愛の加入を機に、幸尚が仕事に集中できる環境を作り、一気にレベル上げさせたいと考えるのもわからないではない。
問題は、それを心愛が納得するかだ。
サービスで採用された店に不満があり、希望を出し続けてパティシエとなったのであれば、この店でまた同じ道を辿るのを果たして良しとするのか。
「たとえば、なんですが」
伊久磨は、迷いながら切り出す。
すでにコックコートの前をすべてはだけていた由春が、眼鏡の奥からぼさっとした目を向けてきた。
「一年とか、明確な期限を区切るべきだと思います。一年間はその体制で、佐々木さんはサービス兼任でいく。ただし、一年後にはサービスに人員を補充し、幸尚も佐々木さんも基本は中の仕事に専念させる。もちろん、それはお客様の増加を前提としているので、パティシエ業務だけではなく、調理補助として今以上に二人とも調理に関わっていくという意味ですが。ちなみに、調理の人間を増やすのは論外です。いま岩清水さんがホールに出られるのは岩清水さんだからだと思います。もし人数が増えたときに、場の流れを読めない新人がホールに出て来られるのは困ります。かといって、岩清水さんを差し置いて、自分はキッチンだけできればいい、みたいな人に大きな顔をされても迷惑です。なので、ベテラン・新人問わず調理は増やさないでください」
調理の代わりがいなければ由春の休みは捻出できないが、由春レベルの料理人を連れて来るのは金銭面からも無理がある。ならばそこは初めから考えない。
「器用な人間に負担をかけるというのは、凄くもったいないです。ゆきを伸ばしたい岩清水さんの考えもわかりますが、佐々木さんも犠牲には出来ない。とはいえ、いきなりは無理ですから、きちんと展望があることを伝えた上で協力をお願いすべきです。一年というのは例ですが、その心積もりなら四人でシフトを組むときはランチを二回転とるとか、夜は個室もとって、売り上げを伸ばしてスタッフの増員に備えましょう」
腕を組んで伊久磨をじっと見つめていた由春は、力説熱弁が終わると「なるほど」と頷いてから、掌で顎を撫ぜた。由春の髭は伸びが良いようで、朝は綺麗に剃っていても、夜も深まって来ると少しずつ伸びてきて見た目にはザラついた印象になる。顎をもてあそんだまま、しばらくぼんやりしていた。
「何か」
もっさりしたままろくに喋る気配のない由春だったが、伊久磨に水を向けられるとようやく話し始めた。
「いや、一年後もお前辞めるつもりないんだなって」
からかっているのか、と一瞬思った。だが、続いた言葉のせいで噛みつき損ねた。
「今と同じメンバーで、この先もずっといくつもりなんだな、お前」
ぎしり、と胸の奥が軋む。
(誰かが欠けることを想定しているのか)
伊久磨か、幸尚か、心愛か。
「何かを理由に誰かが欠けるとしても、店としての展望は持つべきです。ゆきや佐々木さんを使い潰す前に、話し合うべきだとも思います」
「それはそうだ。先が見えないのはきつい。目標は遠くにあってもいいが、近くにもいくつか置いておいて、ときどきは達成感を味合わないと。人間は簡単に迷子になる」
それは、普段、こと仕事においては無敵の岩清水由春には少しだけ珍しく。
弱い響きの声だった。
しかし、由春は顔を上げると、すぐに妙に人の悪い笑みを浮かべてみせた。
「それで、米屋の件だが。休んでいいんだぞ」
「いいですよ。家にいても気になるだけです。そろそろ、その日あたり北川様がご来店しそうな気もしますし。夜にも一件、ワインエキスパートを持っている石塚さんのご予約がありますから、俺が外していると面倒なことに……」
切々と言ってから、伊久磨は溜息をついた。
(夜の石塚様はワイン通でとにかく店員を試すのが楽しいお客様だからな。ご来店前に色々準備したいんだけど。ランチで個人的な話で時間をとられるのは業務に支障が……)
だからといって、米屋の奥様と店の外で会うというのも何やらまずい気はする。
もしどうしても店に迷惑をかけそうなら、そうした方が良いのはわかるのだが、かえって退くに退けなくなるのではないか、と。
「『すでにお付き合いしている方がいますので、お断りさせて頂きます』で、いいんじゃないのか。難しく考えるなよ」
(難しく考えるなって、たしか電話でも言われた気がする)
俺がいったい何を難しく考えているというのか、と伊久磨は内心で納得いかないものを抱えつつ、由春を睨みつけた。
「嘘は言えません」
「ん。いないのか」
この生活のどこを見ればいると思えるんだよ。
よっぽど反論したかった。しかし幸尚は彼女が途切れないし、東京から戻ってきたばかりという心愛も何やらありそうだ。仕事の拘束時間や休みの少なさを理由にしているのは伊久磨くらいかもしれない。
(……あれ。俺なんで彼女がいないんだ。というか岩清水さんはどうなのか)
ここで聞いてみて「いるけど」なんて言われたら普通に落ち込みそうなので聞くに聞けない。
ただ、
「とにかく。後腐れないようにお断りします。婿に出す父親みたいにしみじみしたふりしないでください。絶対面白がっているだけだし。あーうぜえ」
本音を添えて、エプロンを外す。もう帰ろう。
そう思ってから、それはそれとして、と由春に改めて目を向けた。
「飲みます?」
「いいぞ」
二つ返事で決まって、結局二人で店を後にした。
こんな生活をしている由春にだって、絶対に彼女はいないはずだった。
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