第45話 赤い染み
結論から言うと、断り切れなかった。
「海の星」に届いた封書の中を改めたことを電話で告げ、書面にあった希望の日時の予約は受けられるという用件から始めた。
相手は差出人と思しき女性で「わかりました、ではお願いします」と言うものの、自分からは電話相手の伊久磨の素性を聞こうとすらしない。
わかっているのか、いないのか。
迷っているうちに電話を切られてしまいそうになり、伊久磨は思い切って言った。
「それと、お米をお送り頂いたようなのですが」
『ええ。うちが米屋なものですから。皆さんでどうぞ』
お菓子などの差し入れを受けることはあるが、米は初めてだった。皆さんで? 炊けばいいのだろうか?
「お心遣いありがとうございます。ですが、お客様に楽しくお食事して頂ければそれが何よりですから、あまりスタッフのことはお気になさらず」
わざわざ「スタッフ」と明言してから、続けて言った。
「当店のスタッフと何かお話があるということでしたが」
『そうなの。行ってから話すわ』
「ランチのお時間帯に、お客様同士でお話をされるなどして、クローズまで着席されているのは店側としてもまったく問題ありません。ですが、当店は少人数で営業しておりますので、スタッフがずっと特定のお客様のお側にいるというのは不可能です」
営業中に来られても、満足な会話の時間は捻出できない。業務に支障が出る。
『大丈夫よ。そんなに時間はとらせないから。普通にしていてくれればそれで』
直感的に、それは嘘では、と。
わざわざ手紙を寄越し、自社製品も送り付けた上で予約を入れてきた相手が、収穫なしで帰るつもりとは到底思えない。
収穫。
(俺が収穫されるのか……? なんで俺なんだ……?)
眩暈がするが、めげてばかりもいられない。
予約確認電話を入れる前に、電話番号検索してみたが、約一年前のランチが一回ヒットした。
特に注意事項もなかったようで、詳細なメモもなかった。入力してあったのは「女性二人でご来店、ご友人同士というより姉妹のように見えた」と、一行のみ。相手が手紙にあった「従姉」なら自分の見立てはそこそこ的を射ていたと思うし、「セロ弾きのゴーシュ」で傘を渡したときに「どこかで」と気付いたのもなかなかの記憶力ではあると思う。
(というか。俺の情報を売ったのは
椿邸で暮らしていた一時期、椿屋の店頭でバイトをしていたこともある。当時はそこまで客商売を突き詰めていなかったので、菓子を包んでレジを通しただけの客を積極的に記憶していたわけではない。
行動範囲からすると、自分は相手を知らないだけで、知られていた可能性は十分あるのだ。そして、先日の会話をきっかけに、何かが心の琴線に触れてしまったと。
母親の。娘本人ではなく。
これが女性自身からのアプローチなら別の対応もあり得るとは思うが(いや、別の対応ってなんだ)、母親が暴走しているだけなら、まに受けるのは危険だし、相手も困っているかもしれない。
絶対。
絶対に、自分の方から乗り気になってはいけない。目に見えない無数のトラップが張り巡らされている気がする。
「本当に、お話の時間は取れないと思うのですが。特に個人的なご用件ということであれば」
この場でお断り申し上げます。
(その一言が。どうしても、その一言が言えない)
食事自体は、レストランのスタッフとして大歓迎だし、予約してまで来たいと思ってくれるのはありがたいのだ。
客観的にみれば手紙は丁寧だったし、手間もかけてくれている。
もちろん、当日は楽しい時間を過ごしてもらいたい。ここで「俺に会いに来る」なんて構えて勘違いだったら申し訳なさすぎるし、手を尽くしてくれた相手の気持ちを踏みにじりたくない。
その躊躇が決め手になってしまった。
『そんなに難しく考えないでくれていいのよ。わざわざ電話ありがとう。当日、楽しみにしていますね。ごめんください』
電話が切れた。
「うっそだろ……」
思わず、声に出た。
(何やってんだ、俺。あり得ない。完全にこれ業務に支障が出るだろ……)
無念すぎて、しばらくの間、戻した電話の受話器を掴んだまま固まっていた。いわゆる放心状態。
「ねえねえ蜷川くん。結婚迫られているって聞いたんだけど」
そこに、ひょこっと佐々木
実際、小さすぎてきちんと視界に入れないと見つからないのだが、声はした。
「話早いですね。岩清水さん面白がり過ぎじゃないですか」
嫌々言いながら、カウンターの内側に入って来た心愛を見下ろす。
「心配しているんじゃないかな、一応。『伊久磨が米屋か……。うち辞めないといいんだけど』って言ってたよ」
「なんで婿に出す気になってんですかね。俺は一言もそんな話はしていませんよ。大体、そういう話じゃない。なんというか……、母親が暴走しているだけで、御本人がどう考えているかもわかりませんし。これで俺が乗り気になって家にお邪魔したりしたら、追い詰められた気持ちになって死にたくなるかもしれませんよ!?」
自分は男だし、背も高いし、簡単に他者から脅かされることはない。しかし、もし自分が女性であれば、こんな男を突然連れて来られても「全然有難くない」「迷惑」でしかないように思う。母親がすでに相手に自分の情報を開示していて、相手の男も自分と付き合えるつもりで来ているなんて、娘の立場からしたら恐怖でしかないだろう。
もはや、本人の耳に入れる前に、母親を説得して諦めさせ、なかったことにしてお互いきれいに忘れるのが一番良いとしか思えない。
「えと。それはちょっとさすがに、自己評価低すぎかな……」
心愛には苦笑いをされてしまったが、伊久磨は「俺はそうは思いません」と突っぱねた。
「俺がどういう人間か知りもしないで、娘の情報を流して結婚相手にだなんて。そういう時代でもないですし、これで何かあったらどうするつもりなんですかね。ほんと、そこらへん、差し出がましいですけど説教させて頂きたいです」
今回は自分だったから悪用はしないし、断りもするけど、相手が違えばどんなトラブルになったかわかったものではない、と。
ひとしきり力説したところで、根気よく話に付き合ってくれていた心愛にぼそりと言われた。
「その奥様、すごく人を見る目あるんじゃないかな……。聞けば聞くほど蜷川くんで『正解』なんだけど」
「冗談でもやめてください、そういうの。本気でいま困っているんですけど」
一体何を言い出すのかと、心愛を見下ろして恨みがましく言いながら、ふと。
伊久磨は、自分の首筋に手をあてた。
その動作を見ていた心愛は、わずかに小首を傾げてから、「あ」と言って、ネッカチーフを巻いていない自分の首に手を当てる。
「虫刺されだよ、これ」
首に一点、赤く染まっている部分があったのだ。
「何も言ってませんが」
「いやごめん、休憩に入ったからネッカチーフ外しちゃって。巻いておく。だけど、ほんとに色っぽい理由じゃないから」
心愛はどことなく悪戯っぽく言うと、背を向けてホールの方へと歩き出した。
首に手をあてたまま、伊久磨は呼び止める声をかけそびれてその後ろ姿を見送る。
虫刺されにしては時期外れですね、とか。
見えるところにキスマークつけるなんてろくな男じゃないですよ、とか。
(何も言ってない)
心愛のプライベートなんてまったく知るところではないし。
気持ちを切り替えるように、カウンターにのせたパソコン画面を見る。
しかしそこには悩ましい予約の表示があるだけで、溜息しか出なかった。
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