第40話 舞台の裏側
エントランスで顔を合わせた女性客が、一瞬だけ困った顔をした。
笑みを崩さぬまま、カウンター奥から「いらっしゃいませ」と伊久磨は声をかける。
男性と女性の二人連れで、表まで出迎えに出て一緒に店内に入って来た心愛には「斎藤さまのお席に」と伝えた。
何度目かの来店で、名前を聞かなくても顔を見ればわかる。
心愛も、予約の時間帯と人数であたりはつけているだろうし、伊久磨が事前に「今日のご予約の方はリピーターが多いからお名前を伺わなくても大丈夫です」と説明してあったので、その通りにしているだろう。
スタッフとしては新顔の心愛だけに、初めましてという会話にはなるかもしれないが、顔パスの「常連」として扱われたい相手には過度の新人アピールは不要のはずだ。
実際、女性を伴って雰囲気の良い店で安くはない料理をという男性客であれば、「使い慣れている」という余裕を見せたいかもしれないし、その演出に店側として出来ることは惜しまない。
そこまでは問題ない、のだが。
(お連れ様の女性……。以前望月様と同席されていた方だ。甲殻類アレルギーがあるはずだけど、予約時の情報にない。ご予約の斎藤様が把握していないか、以前は何かの理由があって『そういうこと』にしていたか)
伊久磨と目が合ったときの、困った顔。おそらくあれは「この店に来たことがあるのは、黙っていて欲しい」とか、そういう含みに見えた。「良い店に連れて行ってやる」と男性に言われて、「行ったことがある」と言い出せなかった可能性は十分にある。
心愛が席に通すのを見ながら、「しまったな、俺が行くべきだった」と内心では後悔しきりだった。
適当なタイミングで代わって、さりげなく確認するか。或いは。
心愛がドリンクのオーダーを取って、キッチンに下がる。
(もう一件、お客様がいつ来てもおかしくない)
できれば入口で待たせたくない。この場を離れたくはないのだが。
予約画面を表示したパソコンの時計を睨みながら、伊久磨も素早くキッチンに向かった。
「ご予約の斎藤様です。NG食材など特記事項はないですね。はじめてください。ドリンクはグラスシャンパンからです」
心愛が由春に向かってオーダーを告げている。
その横にすべりこんで「待ってください」と伊久磨は口を挟んだ。
大きな目を見開いている心愛に「ここは俺が。ご予約の林様の時間だから表にいてください」と告げ、幸尚に「斎藤様のファーストドリンク頼む」と声をかけた。
「どうした」
由春から鋭く聞かれ、伊久磨はできるだけ早口にならぬよう気を付けて言う。
「斎藤様のお連れ様の女性に見覚えがあります。以前望月様といらしていた方で、その時は甲殻類アレルギーだったはず」
会話内容から事情はうっすら把握したのか、心愛がやや焦ったように言った。
「わたし、確認したけど、NG食材はなかったわ。男性側は何度かご来店されたことがあるみたいだったけど、女性は初めてって言って……」
「それはおそらく、そういうことにしているだけで」
「伊久磨」
睨み合いかけた伊久磨と心愛の会話を遮るように、由春が名を呼んだ。
「間違いないか」
「間違いないです」
返答に、由春は考え込む顔になった。すぐに思い出したように心愛に目を向けた。
「佐々木はディシャップの指示に従え。表でお客様がお待ちかもしれない」
「はい」
そこでぐずぐずする気はないようで、心愛はキッチンを出て行く。
幸尚もさっとシャンパングラスにシャンパンを注いでホールへ向かった。
「今回、女性が遠慮して言い出せなかっただけなのか。以前ご来店したときに何か事情があって『そういうこと』にしていたのかはわかりません。店としては確認もしていますし、道義的な問題ではないですが……」
伊久磨が話し始めると、由春も頷いた。
「
アレルギーが無いなら、問題はなし。
また、本当にアレルギーならば、料理説明しながら出せば口にはしないはず。だが、わかっていながら、食べられないかもしれない料理を出してもいいものなのか。
「女性はご予約者の斎藤様には来店は『初めて』と言っているようなので、店側がアレルギーや嗜好を把握していると伝わるのはまずいと思います。なので、佐々木さんが一度聞いたのであれば、これ以上の確認は不自然です」
「うーん……」
由春は、腕を組んで少しの間悩まし気に呻く。
が、切り替えたのか顔を上げた。
「合鴨のロースト、仕込んだのがあるから、あれでいく」
土壇場でのメニューチェンジ。
まるで裁定を待つかのように息を詰めて見守っていた伊久磨は、ほっと息を吐き出しながら頭を下げた。
「ありがとうございます」
レストラン「海の星」は、季節毎に大きくメニューチェンジはするが、仕入れによっても毎日細かく内容の変更をすることはあるので、メニューはコース名と値段のみの表記にしている。
その分、予約段階でアレルギーや食べられないものは確認し、対応するようにしてきた。
当日の予約なしの来店であっても、注文を受けるときに細かく聞き取り、場合によってはメニューの変更も行っている。
そのため、急な変更であっても、たとえば二人の内片方だけというのではなく、テーブルごとに料理変更してしまえば、店側が対応したこと自体気付かれないことも可能だ。
しかし、今回はそれが客側からの要請ではなく、伊久磨の判断だ。
気の回しすぎの線も否めず、余計な仕事を増やすだけであり、かつお客様にその努力が伝わるわけでもなければ、評価されるわけでもない。
それをわかった上で、由春が手間を惜しまず意見を取り入れてくれたのは、ありがたい。
「ま、手つかずの皿が戻って来るのは俺も勘弁だからな。それだけならまだしも、無理して食べて倒れられて救急車呼ぶ羽目になっても困る。不安の芽は摘んでおいた方がいい」
それはそうだが、伊久磨としては幾何かの不安はある。前向きな対応をしてもらえるとありがたい反面、申し訳なさもこみ上げて来た。
「考えすぎかもしれないんですが」
「いや、いい。よく気付いた」
頭の中ではコースの整合性や、料理変更に伴う食器の選択など、めまぐるしく考えているのだろう。どことなく遠くを見ながら、由春が呟く。
それから、思い出したように伊久磨を見た。
「佐々木は佐々木で考えがあって、お前ともぶつかるとは思う。ただし、常連客の対応だとか、お前にしかできないことはあるんだ。そこは忘れるなよ」
「えーと……はい?」
(いまの話、佐々木さんなんか関係あったか?)
お客様の名前は斎藤様ですが? と。
いきなりなんの話をし始めたんだ、という態度が前面に出て、間抜けな返事をしてしまった。
由春は嫌そうに手を振って、冷蔵庫に向かってしまう。
慰められたとか励まされたとか、そういうことかもしれないというのは、遅れて気が付いた。
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