7 技術/目に見えるもの・見えないもの

第38話 皿の上の世界

 鬼軍曹:佐々木心愛ささきここあの朝は早い。


 蜷川伊久磨にながわいくまが出社したら、すでに調理場で忙しく立ち働いていた。

 上半身はコックコートで、黄色のネッカチーフを巻き、腰から黒のエプロンを身に着けている。

 ふわふわの髪は、毛先が出ないようにきちっとまとめられていた。夜会巻きとかいう隙の無い髪型で、髪の毛一本落ちないようにとの配慮だろう。

(マダムか)

 小柄だし、見た目の可愛らしさから、初対面の場ではさほど年上っぽくも見えなかったが、髪の印象が変わっただけで見違えた。

 大人の、綺麗な女性だ。


「おはようございます」

 声をかけてから、出入口そばの手洗い場で手を洗う。

「おはよう!!」

 背中で、元気いっぱいの声を聞く。

 ペーパータオルで手を拭きながら振り返ってはみたが、普段なら仕込みをしているオーナーシェフ・岩清水由春いわしみずよしはるの姿が見えない。


「ね、ちょっと試食しない? 色々作ってみているんだけど」

 皿の上に並べた焼菓子を持って、心愛が近づいてくる。

「なんですか」

 クッキーや小さなパイのようなものが見えるが、今ここで作る意図がわからない。

 ただ、興味がないわけではなかったので、粉糖をまぶしたいびつな丸いクッキーを摘まみ上げて口に運んでみた。

「ポルボロン、ポルボロン、ポルボロン」

 身長差40センチくらい。だいぶ下の方から、心愛が謎の呪文を唱えてくる。

 甘いクッキーは、口の中で儚くホロリと溶けて消えた。


「どう?」

「甘いです」

「じゃあ次こっち」

 ひし形に成形した小さなパイ。薄い焼き色で、上に緑色の豆のようなものがのっている。ピスタチオだろうか。

 疑問はたくさんあるのだが、こういう状態の料理人はとにかく人に食べさせたいし、できれば美味しいと言わせたいのは知っている。由春も、もう一人のパティシエの真田幸尚さなだゆきなおもそうだ。

 そして、料理に関しては深い知識があるわけでもなく、十人並みの味覚を自負する伊久磨には、彼らの作るものはたいてい美味しい。

 小さなパイを摘んで食べてみる。

 バターをたくさん使っているのか、サクサクしているが、シロップでも染み込ませたようなしっとり感と甘さもある。内側にぎっしりつまっているのは細かく砕いたピスタチオやナッツ類。


「どう?」

「甘いです」


 率直に答えたが、心愛の反応は微妙だ。何か変なことでも言ったかなと考えてみたが、他に何も思い浮かばない。


「もう一つどうかな。次は……」

 皿に盛りつけた菓子をさらに選び始めた心愛を見下ろして、伊久磨は疑問に感じたままに尋ねた。

「これ、なんですか。焼菓子販売でもするんですか」

 心愛はぱっと顔を上げて、あら、というように目を瞠った。

(なんだその反応。違うのか?)

「えっと、フールセック、ドゥミセックか。セロファンに包んでリボンで結んで並べるっていうより、この店の雰囲気だとお洒落な缶に詰めて『おもたせ』みたいな感じよね」

 そのくせ、話にはのってくる。よくわからない。


「置けば売れる可能性はありますけど、今唯一店頭販売している食器類と違って、賞味期限があるのがネックですね。注文販売が安全だとは思いますが……、どうやって周知するか。確かに、たまにデザートのケーキ類を販売して欲しいと言われることはありますし、需要がないわけではないと思うんです。パティシエが増えるならクリスマスケーキを個数限定で受けたり、バレンタインギフトなんて線もあるかな。チョコは得意ですか」

 ショコラさんだけに。違った、ココアさんだ。

 心愛は伊久磨を見上げて、茶色っぽい目を輝かせた。


「それ、もしかして前から考えていたの?」

「そういうわけでは」

 今まで明確に仕事として考えたこともないし、もちろん誰かに言ったこともない。なぜいま口をすべらせたのかはわからないが、乗りかかった船のようなものなのでなんとか説明した。


「現状、真田はパティシエ専任というより、調理補助、ホール補助の面も強いので。これ以上仕事を増やすわけにはいきません。だけど、うまくその仕事を他に任せて、もう少し本来の仕事に集中できるのであれば、本人もやってみたいかも、とは。今でも通常のデザートの他に、バースデーケーキくらいは作っていますけど、評判もいいですよ」

「それはそうなのよね。パティシエが二人いるなら自分の食い扶持は稼がないといけないわけで、販売か……」

 考え込み始めた心愛に対し、伊久磨もつい話に熱が入ってしまう。


「負担は負担なので、必ずしも直接うちで作る必要はなくて、イメージに合う作家さんがいれば業務委託もできると思います。個人で販売サイトに出品しているような方の中には、実店舗で商品を展開したいと考えている方もいるでしょう。もちろん、こと食べ物の場合、品質の低いものを置くメリットはまったくないので、岩清水さんなりパティシエの二人で徹底的に監修して、『海の星』の名前で出してもいいものに限ります。実際、何度か問い合わせは受けているんです。現状では見合わせていますが、街のカフェなんかだと結構ありますよね。手芸作家や絵描きの展示会の宣伝DMを並べたり、手作りのアクセサリー類なんか置いていたり。今は『和かな』の食器だけで手一杯といいますか、管理が煩雑になる割に格別売り上げにつながるわけではないので重視はしていませんでしたが」

 

 がちゃり、とドアが開いて、幸尚が姿を現せた。


「おはようございます」

 一目で警戒しているのが知れる目つきで心愛を見てから、並び立つ伊久磨に視線をすべらせ、手を洗い始める。

「おはよう」

 心愛と伊久磨で同時に言ったが、振り返った幸尚のまなざしは険しいままだ。


「仲良さそうに立ち話ですか。オレは喧嘩売られたのは忘れてないんで。昨日の今日で仲良くするのは勘弁です。そこんとこよろしく」

 普段の幸尚を知っていれば、ぎりぎり許容範囲だ。すぐに「なに尖ってんだよ」と混ぜっ返せば深刻な対立にはならず、冗談にしてしまえる。そうすべきだ。

 わかっていたのに、ワンテンポ遅れた。

 幸尚は、止める間もなく心愛の手元を覗き込んで口の端を吊り上げるように笑った。


「家庭料理っすかね。素朴ですね~」

「これは」

 反論しようとした心愛に対し、幸尚は笑ったまま続ける。

「ポルボロン、バクラバ、ブリガデイロ、ロクム? コースの最後に持ってくるものじゃない」

(もしかして、これ、全部名前あててる?)

 何がなんだかよくわかっていなかった伊久磨からすると、幸尚やっぱり出来る奴じゃないか、とこんな場面なのに感心してしまった。

 それにしても、挑発している。

 一方言われた心愛は気にした様子もなく、にこにこと言った。


「一つ一つならね。ただし、たくさんあれば別じゃない? デザートワゴンしてみたらどうかなと思って。コースの最後に、お好きなものをお選びくださいって。コーヒーや紅茶、場合によっては食後酒と一緒に」

「それ、ハルさんはなんて言ってるんですか」

「とりあえず種類作ってみろって。マカロンとかクッキー、プリン、ブラウニーみたいなのは想像がつくと思ったから、ちょっと違うのにしてみたの。各国デザートというか。もちろんコースとの兼ね合いもあるけど、少し変わったのがあってもいいでしょ」

 幸尚が手を伸ばし、心愛が皿を差し出す。

 特に悩む様子もなく、白いポルボロンを摘んで食べた。


 すっと溶けて、甘い。

 さっき食べた感覚を思い出しながら、伊久磨は幸尚の横顔を眺めていた。

 褒めるのか、憎まれ口を叩くのか。

 幸尚は、食べ終えた後、しばらく考える顔をしてから、再び皿に手を伸ばして、伊久磨も食べたパイを手にした。

 食べて、飲み込んでから、また考えるような顔になってしまい、もう一つ手にする。

 その時に、心愛がにこりと笑って言った。


「いくつでもいけるでしょ? 食事の最後にお好きなお菓子をお好きなだけ、って結構楽しいと思わない?」

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