第36話 ビター・ビター・ビター

「クッソ強ぇわ」


 由春は、挨拶もそこそこに「こっち」と心愛を伴ってキッチン奥の事務室に消えて行った。

 おそらく。行末を見届けたわけではない。


 伊久磨はしばらくその場で硬直していた。本当は、心愛の使っていた皿を下げてテーブルを片付けてさっさと休憩に入ってしまいたかったのだが。

(胃が重たい。息が出来ない。足が動かない)

 ゆえに、立ち尽くしていた。そこで、後ろから近づいてきた幸尚に前まで回り込まれて、顔を見上げながら言われたのだ。「クッソ強ぇわ」と。

 情けない表情を見られるのが嫌で顔を背けながら、伊久磨は息も絶え絶えに言った。


「返す言葉もなく……。そこから見てらしたんですね」

 さっき心愛相手にそんなセリフを言った気がする。確か。完全に自虐である。

 幸尚は、トレーにカップや皿をのせながら、感嘆の溜息をついてもう一度言った。


「鬼だよ、鬼。あんなに遠慮なく他人を追い詰める女、はじめて見た。他人、だよな? 死に別れの母親じゃないよな?」

 言った瞬間に幸尚も失言に気付いただろうが、生憎あいにく魂が傷つきすぎていた伊久磨としては、この期に及んで傷が増えたところでもはや何も感じなかった。

「母親はもう死んでる。あんなに若くなかった」

「ああ、うん。そうだよね。ごめんなさい」

 自分の失言の罪悪感に耐えかねた幸尚が、伊久磨の腕にすがりながら陳謝する。


「いや、本当に、なんというか。間違えたことは何も言ってないんだ。だけど、あの人の言うことって、ただのレストランに要求されるレベルじゃない気がする」

 もはや宮廷作法だとか、VS王族、VS貴族。例えるのであればそのレベルの心構えなのでは。


 最初に見た笑顔や、のんびりとアールグレイのチーズケーキを食べていた横顔を思い出して、伊久磨はつい悩ましい溜息をもらしてしまう。

(可愛いと思ったんだけどな。特にあの笑顔)

 甘くて美味しい名前だし。

 もっとも、ピュアココアには本来砂糖は入っていないので、そのまま飲もうとすれば甘党には即死レベルの苦さだった気はする。


「親兄弟とか、他人じゃないとか、古傷抉ること言って申し訳ないんですけど」

 そこから離れられなかったのか、結局幸尚はまたスレスレのたとえ話を始めようとしたので、伊久磨も「一応、うちの家族死んだのはそんなに前じゃないから」とスレスレの牽制はしたが、胸の痛みが限界を突破しているので割と平気だった。ごめん、と言いながら幸尚はもう一度言う。


「あれだけ口出しするひとが、他人ということは、ない、ですよね?」

 幸尚らしくなく、ぎくしゃくとしたしゃべりだった。

「ない、と思う。岩清水さんの知り合いだし。今日は完全に『下見』だ」

 伊久磨もまた、機械仕掛けの人形のようにカクカクと頷く。


「なんの、って、愚問ですよね」

「ぐもん」

 答えは出ているものの、触りたくなくて、二人で答えの周りをぐるぐるしている状態だ。

 やがて、いい加減身体の硬直をどうにかしよう、と伊久磨は無理やりに伸びをした。

 喉にまだ何か詰まっているような重苦しさがあるが、もうとにかく頑張ってしゃべってみる。


「たぶん、岩清水さんがどこかから呼んだ、『経験者』で間違いない。うちの店で採用するんじゃないかな」

「あはは~。怖ぇ~」

 普段傲岸不遜な幸尚にしては珍しく、泣き笑いのような弱々しさで「怖ぇ」を繰り返す。

 伊久磨も気分はまったくもって、同じだった。


(うちの店の台所事情からすれば、経験者とはいえ出せる給料はそこまでじゃない。新人を取るのかと思っていた)

 その場合には、どこのポジションであれ、みんなで丁寧に仕事を教えて、戦力になってもらって。従業員の休日を増やしたり、テーブルの回転を増やしたり、いろんなことに挑戦していこう。

 そう、前向きに考えていたというのに。


「おい伊久磨」

 キッチンから戻って来た由春に声をかけられる。

 嫌々ながら、振り返った。


「お前、さっさとメシくって休憩しろ」

 由春と心愛が並んで歩いてきたところだった。

「はい」

「で、こっちは佐々木だ。さっきなんか話していたみたいだから紹介はいいな。今度からうちの店で働く。必要なことは一通り説明しておいてくれ」

 俺がですか、とは言えない。

(というか、紹介はして欲しい。経歴だとか。ポジション……)

 ちらりと見た心愛は、目が合うとにこりと微笑み返してくる。

 確かに、先程のバトルは個人的な好悪や感情とは無縁なのであって、挨拶の場まで引きずるものではない。

 挨拶以前に容赦なく洗礼を食らわせてきた神経は驚嘆に値するが。


 場に漂う微妙な空気はさすがにわかるのか、由春が明らかに居心地悪そうな顔をした。


「仲良く、な?」

 なんだそれ。

「もーーーー、ハルさんてばーーーー!! 仲良くするに決まってるじゃないですか!!」

 ばしばしっと心愛が遠慮なく由春の背中をぶっ叩いた。

 それだけで、伊久磨と幸尚は「ヒエッ」と変な声を上げているのだが、由春は「ん~」と唸るのみ。


「オレらが同じことしたら『おいやめろ』とか『殺す』って言うくせに。なんすかね、女子の特別待遇」

 幸尚が、ぎりぎり聞こえる音量で伊久磨に内緒話を仕掛けて来た。やめてくれ、と伊久磨は顔を背けるも、心愛にはしっかり聞かれていた。

「ははぁん。そこのピンクがパティシエの真田くんね。で、背が高い方がホールの蜷川くん。なるほどなるほど~~」

 舌なめずりせんばかりの輝く笑顔で確認される。

 怖気おぞけが走った。


「とりあえずお前今日、受付とホールな。伊久磨に仕事教えてやってくれ」

 やばい。

(心折れる。俺が教えられる側なんだ)

 確かに段違いの経験は感じた。仕方ない仕方ない、と自分に言い聞かせる。ここで「年の功ですかね」なんて女性相手に年増をあてこすっても見苦しいだけだ。もちろん初めからそんな気はない。

 一方、やや困った調子で心愛が由春を見上げて言った。


「ハルさんそれはないでしょう。わたしは一番の新入り、下っ端なので。このお店に関しては、すべて教えて頂く立場ですよ」

 わりと真っ当なことを言っているが、肝心の由春が、何か考え事を始めていて聞いている様子がない。

「今まで女性従業員がいなかったんだ。ロッカーとかどうするかな。着替えくらいはするだろうし、どこか部屋作った方がいいよな。うっかりしてた」

「は~、さすがに『お前なんか女じゃねえし、そこらで着替えてろ』とは言わないんだねぇ」

 感心しきりの様子で頷く心愛を、呆れたまなざしで見て、由春は肩をそびやかした。

「なんだよ。俺今までそんなこと一度も言ったことねーだろ。捏造すんな」

 この野郎、とでも続けそうな由春をまっすぐに見上げて、心愛は「そうですが」と前置きをしてから立ち向かうようなまなざしで言った。


「わたし、職場で女として扱ってもらうつもりがないので。というか、男も女もないので。それはまぁ確かに、気付いたことは気付いたときに言いますけど。お店が良くなると思えば。だけどハルさん、どっかの抜けた経営者みたいに『女性ならではの目線で』なんて言い出さないでくださいね。このお店が今まで男三人でここまで繁盛させてきたことは素直にすごいと思っているんです。ここで『経験者』だから『唯一の女』だからといって、大ナタを振るってやるなんて思っていません。なので、すべては教えて頂く立場からのスタートだと思っています」

 ひとまず真面目な顔をして頷いている由春だが、それほど集中しているようには見えなかった。

 実際、心愛の演説が終わると「それはそうとしてロッカー……」とぼやぼや言い出し、心愛に思い切り背中を叩かれていた。


「どこの店で一緒だった人か知らないですけど、仲良しですね~」

 また、幸尚が聞こえよがしに言う。

 聞きつけた心愛がぱっと振り返った。

 にこっと笑った。


「それはそれとして」

 そう言い始めた心愛は、伊久磨の目から見て、本当に天使のような愛らしさで言ったのだ。


「わたし、いつまでもホールやるつもりないので。真田くん。すぐにシェフパティシエの座をもらうからよろしくね」

 

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