第35話 ブラック

 ――今からお客様の悪口で従業員同士で盛り上がるつもりだったのかな?


 胸に冷たいものが流れ込む。

 そうじゃないと言い訳したい気持ちと、言い訳できないことをしてしまったという後悔と。

 由春の知り合いで、「三人でまわしている」と店の内情も了解していて、発言は完全に同業者のそれだった。だからといって、気がゆるみすぎだったのは否めない。相手が何者か実際にはわかっていないのに、完全に口がすべった。


(そんなつもりはないと口先では言えるけど、じゃあどういうつもりだったのかっていう)

 頭がまわると言われたわりに、全然まわらずに、返答に詰まってしまう。


「わたしはさ、思うんだけど。『ああ、このお客さん、よくわかってなくて間違えちゃったんだな。初めてなら仕方ない』って受け止めればいいんじゃないかなって。毎回。新しい相手に会うたび、毎回よ。そりゃね、経験を積めば『前にこういう騙し討ちをしてきたお客様がいたから、この人も』って身構えることはあるよね。だけど、違うお客様なんだよ。それなら、いきなり疑わなくてもいいじゃない。君さ、ベビーカーを見たときに、席の算段とか頭の中駆け巡ったんだろうけど、一瞬表情に出てたよ。『やられた』『面倒なことになった』って。そのまんまのいやーな笑顔だった。入口でお出迎えするひとのする顔じゃなかった。お客さんだってそれで臨戦態勢になったんだから。『子連れだからって迷惑かけるって決めつけて、嫌がらないでほしい』って。特に予約者のお客さんは焦るよね。良いお店見つけたつもりで友達と来たのに、店員さんがいきなり冷たかったらさ」


 反論したい。

 迷惑をかけてきたのはお客様が先なのだと。

 ただし、その反論が的外れなのもわかる。

 それは自分を守りたいだけの、自分視点からの正しさでしかなく。

 たとえば店の営業という観点から見ても「言い訳」の域を出ない。


「返す言葉もなく……。そこから見てらしたんですね」

 ばつが悪いを通り越して、完敗の境地。全然かなわない人なんだ、というのが疑問の余地なく押し寄せてきて、ならば仕方ないと思いそうになる。

 だが、安らいだのはほんの一瞬。自分への失望や至らなさで、目の前が暗くなる。眩暈がする。

 胸が引き攣れるように痛いし、胃もギリギリと軋み始めた。


「ハルさんにはピーク過ぎてから来いって言われていたけど、ピーク時が見たいじゃない。ハルさんが信頼する従業員が、どの程度か知りたかったんですもの」

 紅茶を飲もうとカップを持ち上げ、いつの間にか飲み干していたことに気付いてテーブルに戻した。

 どの程度、とは。場合によっては大変失礼な発言だが、咎めることもできない。


「全然……。良いところがなかったですね」

 席替えのトラブルはあったものの、多少待たせただけで、お客様に迷惑はかけていない。苦情コンプレもなかった。全員笑顔で帰って行った。子連れの二人も、もちろん。

 結果は上々だった。

 しかし、今指摘されたことは紛れもない事実であったし、そもそも心愛の助けがなければ女性客の機嫌を損ね、その後コンプレに発展した恐れは十分ある。本来はものの数ではなかった心愛が芽を摘んだだけだとすれば、今日の営業は本当に危うかったのだ。


「ちなみに。今日のあのお子様連れのお客様、また来てくれると思う?」

 本格的に胃が痛い。正直勘弁してほしい。

(確実にこの質問は試されている)

 もうわかっているのだ。自分は「ハルさんが信頼する従業員」としてはすでに失格の烙印を押されている。この上、さらなる未熟さをあぶりださないで欲しい。切実に。


「正直なところ、わかりません。仰る通り、私の対応は良くなかったと思います。後は……、どの程度店に満足して頂いたのかも、わかりません。滞在時間も思いのほか短かったですし。居心地が良くなかったのかもしれません」

「わからないことばっかりだね」

 きた。

 可愛い声と可愛い笑顔で、遠慮なく突っ込んでくる。


「お客様同士で盛り上がっておいででしたし、あまりお話する機会もありませんでした。会話内容も聞いておりませんでしたので『また来たい』などのワードが出たかどうかもわかりません。その状況で憶測を述べるのは」

 にこり、と微笑まれる。絶対に何か言いたい顔だ。ここまでくると、もう好きにしてくれという心境になりつつあった。


「それは君がさ、『また来てください』って念じながら接客してないってことだよね。このお店って、広告打ってないって聞いたけど、口コミとリピーターがすべてってことでしょ? 一回来てくれたお客様には、絶対にもう一度来て欲しいって気持ちで接しないとだめなんじゃないの?」

(理想論だ)

 正しいことを言っているのはわかるが、それはさすがに理想が高すぎる気がする。

 お客様に対して歓迎の気持ちはあるし、楽しんで過ごして欲しいと願っているし、できればまた来たいと思って欲しいとは常日頃もちろん考えている。

 だが、それも「お客様次第」なのだ。


「今私が何か試されていて、これを言えば確実に不正解だってわかった上で言うんですけど。あのお客様に関しては、『お子様が大きくなってからまた来てください』という気持ちは抱きました」

 心愛の表情が、はじめてひどく冷たいものになった。

 まなざしがゴミを見るそれだ。


「あなたよほど最初の印象が悪かったのね、あのお客様」

「騙されたと決めつけていたので」

 どうにでもなれ、と露悪的に告げた。

 怒髪天、くる。


「捨てちゃいなさいよ。そんな憶測も警戒心も、この先の人生でクソの役にも立たないわよ。確かにね、真相はわからないわ。もう帰ってしまったお客様がどんな人間だったかなんて確かめようがないし。それなのにその悪感情はなに? まるで『また来るかもしれないから警戒している』とでも言っているみたい。上等じゃないの。それこそ、また来てくれるような接客をした自信があるなら、名前はしっかり覚えておきなさいよ。次に予約が入ったときも子どもの欄とか飛ばされていたら、電話すればいいだけなんだし。『前回ご来店頂いたときには小さなお子様をお連れだったと記憶しておりますが、今回はご同席でしょうか。お越しくださるのであれば、衝立をご用意するなどして、他のお客様の目を気にせずお楽しみいただけるようにご配慮いたしますがいかがでしょう』これでいい話じゃないの? わざわざ『あ~例の客か。子ども入力していないけど、また騙し討ちをする気か』って憎しみと警戒を募らせないで、まず話し合ってみなさいよ。それとも、できないの? あなたの能力ではそこまで出来ないの?」


 ものすごく単純な感情に頭の中が埋め尽くされた。

 大人になってからこんなに怒られたの初めてだ、と。


(オープニングスタッフでこの店に入って、飲食未経験で。岩清水さんにはずいぶん怒られてきたけど……。もしかして、岩清水さん、優しいんじゃないか?)


 今まで、「うちのオーナーシェフは要求水準高いな」と思っていたけど、比じゃない。

 なんというか、細やかさの次元が違う。

 そもそも由春には少々言葉が足りない面があり、「見てわかれ」とばかりに説明を省く強引さもある。その上で、「お前の仕事は気を利かせることなんだ」と頭を押さえつけられて躾けられてきた。

 反発もないではないが、それで仕事を覚えたのは事実だ。

 結果的にどんな状況でも常に先回りして、相手に不足だと言われないようにしてきた。それが、ホールを自分の持ち場とし、すべての席の進行に気を配る、広い視野の獲得にもつながったと思っていた。


 甘かった。


 決してヒステリックではなく、話しぶりも冷静で、筋道が通っている。

 しかし、それにしても驚異的な怒りの持続であるように感じた。ふつう、挨拶もそこそこに、名前もよくわからない相手に対して、ここまで長広舌ふるえるものなのかと。

(ショコラやばい)


「は~。なるほどこれは先が長そうだわ」

 伊久磨の心の声とまるでハーモニーを奏でるかのように。

 完全に「だめだこいつ」と言ったとしか聞こえないぼやきとともに、心愛は空のカップを持ち上げて「あ」と間抜けな声を上げる。

 なお、もはや手足がしびれたように動きを止めている伊久磨は声も出せない。


「オッス。佐々木、待たせたな」

 そこに、ようやく由春が現れた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る