第34話 ミルク
「すごい、目が綺麗。しかも大きい。将来は美人さんだなー」
ぶしつけに、赤ちゃんに触ったりはしない。適切な距離を置いて、それでも本当に心の底から可愛いと思っているような愛し気しな視線を注いで、あやすように小さく手を振っている。
ふわふわの、肩につく茶色の髪。小柄で、童話の少女を思わせる小花柄のふんわりしたワンピースをまとっている。
(三人目、じゃない。お連れ様じゃない。別口だよな)
伊久磨の心を読んだように、その女性が顔を上げた。茶色っぽく澄んだ目をしており、顔いっぱいに笑みを広げている。
「予約の佐々木です。すごく早く着いちゃった。待たせてもらうから気にしないでね」
十二時の佐々木様はすでに入店しているから、と伊久磨はすぐに思い出す。美味しそうな名前の、と記憶を辿ったときにふんわりした茶色の髪に気を取られて、思わず言ってしまった。
「ショコラ様」
「ん?」
にこっと聞き返されて、違う、と思い当たる。「ココア」だ。
そのまま、佐々木
「今日、天気良くて良かったですねー!! 赤ちゃん連れて出るときに天気悪いと大変ですよね。お友達同士ですか? たまたま生んだ時期が近いとか? え、あ、産婦人科つながりですか。あ~なるほど。同じ誕生日! すごい、幼馴染ですかね。い~な~、これから楽しいこといっぱいありますね~!!」
話を巧みに引き出す話し方で、会話が弾み始める。
この隙を逃してはならない、と伊久磨は準備しようとしていた席に大股に歩み寄る。
エントランスにも化粧室にも近い端の席。万が一赤ちゃんが泣き出したり、或いは所用で席を立つときも他の客席の横を通らなくていいので、気持ちが楽に過ごせるのではないかと。
テーブルを動かし、ベビーカー分のスペースも確保してエントランスに戻ると、女性陣はすっかり話に花を咲かせていて、遅いとか、待たされたとの文句が出ることもなかった。ついでに、早めに入店した席が立ったので、会計までできる余裕があった。
(助かった……。これで「ココア」さんの席も作れる……)
ちらりと横顔を伺う。年齢不詳、自分よりは年上に見えるが、由春よりは年下くらいか。由春の個人的な知り合い。
これはごく一般的な、十人中八、九人が思うようなことだろうが、と自分の中で前置きしながら、伊久磨は顔を逸らして胸中で呟いた。
可愛い
「ほんとに、可愛いですよね~。あ~笑ってる~。目元がお母さんに似ているのかな。美人さんになるぞ~」
お待たせしました、と声をかけて先に女性客二人を席に通した。
心愛は、すっと身を引いてからにっこりと女性客と赤ちゃんに向かって笑いかけた。
「いってらっしゃ~い。楽しんできてくださいね~!」
*
来店している旨は由春に伝えたが、なかなか手を離せる時間帯ではない。
由春が料理を運んだりと、ホールに出ることもあるものの、特に親しく言葉を交わす様子もなかった。
心愛は料理と料理の間は、ごく普通の若い女性らしくスマホを眺めて過ごしていた。(キッチンの様子を見る限り無理だな)とは思いつつも「料理のペース上げましょうか?」と声をかけたときには「大丈夫。話し相手がいないから本読んでるだけ。急いでないからゆっくり進めてくれていいよ」と気さくに答えてくれた。
意外にも客の引きも早く、心愛にデザートとドリンクを運んだ頃には他の席はすでに引き揚げていた。
子連れの女性二人に関しては、「久しぶりのランチ」ということでクローズまでねばられる覚悟はしていたので、少し意外だった。
「アールグレイのチーズケーキ。これすごい美味しい。コアントローを入れたら合いそうだと思うけど、ランチだし、ノンアルコールの方が無難かな。酔うひとはどんな少量でも酔うもんね~」
近づいたら、のんきな口調で話しかけられる。
(間違いなく同業者)
確信を深めた。
由春はまだキッチンから出てこない。二人の会話を聞けば関係性はわかると待つつもりであったが、いつになるかわからないので、踏み込むことにした。
「ご来店されたときに、気のせいでなければ助けて頂いたと思います。本当に助かりました」
紅茶のカップに口を付けていた心愛は、テーブルに置いてから伊久磨を見上げた。
「この規模のお店を三人で回しているのはすごいと思うけど、何かトラブルがあれば総崩れだよね」
正しい。
上から目線とも感じなかったし、ごく常識的な反応だと思った。
そして、やはりあのとき二人客の気をひいてくれたのはこちらの窮状を見かねてだった、ということがその一言からわかった。
(「お客様」じゃない。スタッフ側だ)
ある予感に突き動かされるように、口を開く。
「普段はそうならないように、ネット予約でもお子様連れや特記事項のある方にはこちらからお電話差し上げて、詳細をお伺いしています。ですが今日は……、ネット予約で、入力もなく、事前に子どもがいるという情報がありませんでした。それで、お席を変えさせて頂くためにお時間を頂く形に」
愚痴や言い訳がましくならないようにと思いながらも、つい具体的な話までしてしまった。
心愛は気にした様子もなく、軽く頷く。
「あ~、ときどきいるんだよね。『料理を注文しない年齢の子の予約は必要がない』と頭から決めているお客様。そういうひとは、電話でも言わないことあるよ。よくよく聞いているうちに子どもがいると気付いて、こっちから『二名様と四名様ではお席が変わってきます』と説明しても『親が抱っこして、料理も取り分け程度だから気にしないで』なんて言われて、話がかみ合わないの」
砕けた口調で言ってから、紅茶をもう一口。
光の中で見ると、本当に綺麗な茶色の髪だった。天然かパーマかわからないが、ふわふわくるくるとして、触ったらとても柔らかそうだなと思った。
(ショコラ)
触りたくなる前に、視線を逃した。
「子ども向けのコースがないので、『子どもがいると断られると思った』と言われたこともありますし。ネット予約の場合、入力項目が出て来るので、今回は意図的に無視されたような気もするんですけどね」
ぽつりと、愚痴ってしまった。
愚痴とはいえ、言ったその瞬間は、本当にそう考えていたのは確かで。
後から考えれば、気が緩んでいたとしか思えないのではあるが。
「ん~」
紅茶のカップを両手で包み込んだまま、心愛が納得いかない声をもらした。
そして、伊久磨を見ずに、前を向いたまま話し始めた。
「君はさ、きっと頭がまわるんだと思うのよね。だから『こんなミスするはずがない』『わざとだ』って思っちゃうんでしょ。だけど、人間はミスをするよ。しかも、初来店のお客様の場合、入力画面初見なんだし、『意味がわからない項目や重要だと思わなかった項目は戻ってきて後から見ようと思っていたら、どんどん先に進んじゃって、予約できてた。終了』ってことも十分考えられるよね」
そこで、ゆっくりと顔を上げて伊久磨の目を見た。
「それとも、なに? 今の前振りは。『いやーまた騙された。ほんと子連れ客は図々しい』って今からお客様の悪口で従業員同士で盛り上がるつもりだったのかな?」
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