Never stop believing in hope because miracles happen everyday.
第32話 See no evil,hear no evil,speak no evil.
――絶対に膝にのると決めている、暑苦しい猫みたいなひとだよ。
休日。
休日とは名ばかりで、普段「海の星」の定休日においては、新作試食だの、新しくできた同業他社の偵察だの、何かと用事を見つけてくるオーナーシェフ・
その日は、本当に、なんの約束もなくぽっかりと一日空いてしまっていた。
(暇……?)
いや、暇なわけがない。
時々利用のある外国人客対応の為に、接客英会話の勉強を進めている。現状、アレルギー食材や宗教上のNGなど、聞き漏らすとまずい内容は由春にお願いしている
ワインも、フランスやイタリアはだいぶ勉強してきてはいるが、今はドイツ・スペイン・ポルトガル……と進めているし、チリやカリフォルニアなどもおさえておきたい。本当は地元のワイナリーや酒蔵ともっと関係を深めたいとも考えているので、見学を申し込んで顔を売りに行きたい気持ちもある。
(でもまあ、それは岩清水さんがいるときだよな。流れで試飲するとしても、どちらかが飲まないで運転手しないといけないし。だいたい、俺一人よりオーナーシェフがいた方が何かと……)
これがソムリエや利き酒師の資格を取っていればまた別なんだが、などと考えながら、顔を洗って髭を剃り、シャツのボタンをはめているあたりでハッと気づく。
また由春と過ごすのが前提の休日の予定を立て始めている、と。
わかるのだ。由春もたぶん、同じなのだ。
たとえば素材探しに海まで車を走らせようと思えば、運転手の交代要員はいた方が良い。もっと言えば、出先で食事するにも酒を飲むにも一人よりは二人の方が店にも入りやすいし、帰りの運転も飲まなかった方に任せられる。
二人がいいのだ。何かと、便利で。
仕事の話はいくらでもあって、会話に困ることもない。車内でかける音楽の選択一つとっても、お互いに対して気が合わないとか趣味が悪いとか、不満に思ったことがない。
あまりにも楽なのだ。
認めていいのかどうかわからないが、かなり人間としての相性自体が良い。
これが、同僚の
(ゆきは俺といるより彼女といた方がいいだろうなとか……。あれ、なんだこれ……)
幸尚に対して当たり前に考え付くことが、由春に置き換えてみると全然しっくりこない。
そもそも。
彼女、とは。
由春の生活パターンを見る限り、いるとは思えない。
なお、自分のことは自分が一番わかっている。いない。
今まで忙しさにかまけて深く考えないようにしていたが。いない。
「……コーヒーでも飲もう」
思わず声に出して呟き、スマホと財布をブラックジーンズのポケットに突っ込んで外に出る。
普段寝に帰るだけの家には、ストックがない。豆を買っても飲まないうちに古くなってしまうだけだ。味の落ちたものに慣れたらいけない気がして、何も置かないようになってしまった。
車を出す気にもならず、のんびりと歩き出す。
行きつけの、やる気のない喫茶店。観光地にあるくせに流行っているのかいないのかさっぱりわからない。
純喫茶「セロ弾きのゴーシュ」へ。
*
駅からはほどよく離れた閑静な商店街。
ほとんどがシャッターを下ろしてしまって賑わいはないが、和菓子屋「椿屋」の他、工芸品店などが軒を連ねており、郷土出身の童話作家モチーフの銅像やギャラリーなどもあって、観光ルートになっている。
特に用事もないので椿屋の前は通り過ぎたが、からりとガラス戸を開けて出て来た
「伊久磨、今日休みか」
店名の入った白い作務衣を着こなして、微笑みかけてくる。いつ見ても乱れたところのない美丈夫だ。
「ちょっとコーヒー飲みに、そこまで」
「休憩しようと思っていたんだ。俺も行く」
肩を並べて歩き出した湛に、伊久磨は軽く目を瞠る。
「
「味は悪くない」
純喫茶「セロ弾きのゴーシュ」の店主樒は、年齢不詳の青年で、いついかなるときもぼさーっとしており、その見た目通り特に気が利かない。ある意味、仕事に厳しく自分を律すること余人の及ばない湛とは対極にいるような存在で、二人が特に親しくしているところは見たことがなかった。
(味は悪くないって、湛さんあのやる気のない人のこと、認めているんだ……)
軽い衝撃を受けつつ、店にはすぐに着く。
煤けたような真っ黒の木造建築に、すりガラスの引き戸の上にちょこんと出された赤い暖簾をくぐる。
「いらっしゃい……」
「こんにちは。コーヒーお願いします。二つ」
メニューには細かい品種もあるのだが、特に勉強する気分でもないので伊久磨はさっと注文してしまった。湛も気にした様子もない。
薄暗い店内は静まり返っていて、客は誰もいなかった。
そこだけ唯一光が差し込んでいる、窓際のテーブルに勝手にさっさと向かい合って座る。
「湛さん、椿邸出てどうです? 通い、結構遠いんですよね」
「そうでもない。車で三十分くらいかな。行きは早朝だから道路も空いているしね」
湛の運転はスマートの一言で、空いているからといってスピード違反をすることもないが、三十分は結構遠いように思う。
愛の力ですか、なんて揶揄することはできずに伊久磨は湛をまっすぐに見た。
目が合った湛は、くすりと笑みをこぼす。
「由春は何か言ってる?」
「ああ、えっと。
言葉を選んで伝えようとして、結局「荒れました」と正直に言った。
湛は、笑みを浮かべたまま窓の外に目を向けた。
「そっか。俺から言うのも違うかなって思っていたんだけど。ぐずぐずしてないで、言ってしまった方が良かったかな」
「いや、さっさと言おうがぐずぐずしようが、結局のところ荒れたと思います。シスコンなので」
湛さんのせいじゃないですよ、と言い添えているところで、死神めいた景気の悪い風体の男がコーヒーを二つテーブルに置いて去った。
軽く一口飲んでから、湛がぽつりと言った。
「わかるけどね。子どもの頃から、和嘉那さんを見て育ったわけだろ。見た目も中身もあの人が女性の基準だとすれば、理想も高くなるだろうし。由春、結婚できるのかな。恋人の話なんか聞いたことないよな」
「おっと」
その話は、という牽制の意味を込めて伊久磨が声を上げると「悪い、つい」と湛も笑ってコーヒーをもう一口飲む。
ちょうどまさに自分も考えたばかりのことであったが、黙っていても幸せオーラが出ている湛から言われると、由春の立つ瀬がないように思えて。
(いや、というか……。今、湛さん、滅茶苦茶のろけたよな……?)
「お付き合い、順調そうですね」
コーヒーを飲みながら言うと「ありがとう」と邪気なく微笑まれる。
もしかして自分は、湛にのろけられる為に向かい合ってコーヒーを飲んでいるのか? まさか? という可能性に打ち震えつつ、「それで」と伊久磨は切り出した。
心得ていたように、湛にひとつ頷かれる。
「今度両家の顔合わせの席を持ちたいんだけど、『海の星』に予約入れてもいいかな」
げほ、と伊久磨はむせた。
そのまま、ごめんなさい、と手で示してから、横を向いてひとしきりげほげほと痛む胸をおさえて呼吸を整える。咳ばらいをする。
「両家顔合わせ、ですか。岩清水さん同席じゃなくて仕事……ええと」
「顔合わせ自体は双方の両親と本人で六人でいいかなと考えているんだけど。『海の星』なら『和かな』の
「それはそう、ですね。はい。間違いないです。理にかなっています」
問題は由春の心の乱れが料理に出ないかだが、そこはさすがに大丈夫だと信じたい。
(大丈夫だよな?)
「良かった。和嘉那さんともその線で話は進めていたんだけど、『海の星』は個室があるわけじゃないから。畏まった六人席なんてちょっと荷が重いかなと。二人ともこういう仕事だし、両親は引退しているようなものだし。いざとなれば融通がきくから。必ずしも大安吉日土日昼間、と考えているわけじゃない。どこか空いている曜日があれば、早めにおさえて貸し切りのような形でも」
「現実的に考えればその方がいいと思います。六人席を一つ入れるとすると、他に進行できるのって一席、二席が限度ですけど、そちらのお客様が気になさるかもしれませんし」
楽しい会食であれば問題ないが、顔合わせの席ががっちがちで会話もままならず、という場合、もう一テーブルも変に気まずい思いをするかもしれない。
そもそもシェフが使い物になるかもわからないのだし。
「お互いの親への挨拶は、一緒に暮らすときにすませているし、今日明日すぐにでもという話じゃない。日程は改めて調整ということで」
「はい。向こう一カ月くらいで予約がまだの日を確認してお伝えします。仏滅以外で」
「あはは、そんなに気にしなくていいよ」
軽やかに笑って、カップを傾ける湛を、伊久磨はしげしげと眺めてしまった。
幸せそうだなぁ、と。
「お二人で暮らしてみてどうですか。率直なところ」
「どうと言われても。和嘉那さん、絶対に膝にのると決めている、暑苦しい猫みたいなひとだよ。どこにいても引っ付いて来るから暑……」
「熱っ」
あまりののろけぶりに慄いて、伊久磨は小さく悲鳴を上げてしまった。
言われた湛は「ん?」と顔を上げてから、心なしかかすかに頬を染めた。
(ええ……っ。湛さんまさかいまの素……? 自分がのろけているって気付いていなかったんですか?)
「いや……、それ、絶対に、うちの店で言わないでくださいね……。殺人事件の現場になる……」
「大げさだし、由春はそれでなくても早く姉離れしないと」
「いや無理でしょう。和嘉那さんが女性の基本だったら理想クソ高いし、傷心だし。しばらくは無理ですよ。和嘉那さん胸も大きいし」
魔が差した。口がすべった。
「気付いてた? え」
変なところで湛がセリフを止めて、掌で額をおさえた。
伊久磨はカップを持とうとしたが、手が震えているので、やめておいた。
「いま、Fって言いかけましたよね」
「言ってない、言ってない」
「湛さんのことだから、『こんなの、出来る方がやればいいんだ』とかなんとか、洗濯なんかもふつうにやってますよね。和嘉那さんもそのへんおおらかそうだから、湛さんが下着干してても『ありがとー』で済ませそう」
「なんだ伊久磨。どこからうちの生活を覗いているんだ」
もはや開き直って凄んではきたものの、気のせいではなく湛の色白の頬が染まっている。首まで赤い。
「なんかこう……ごちそうさまです」
「はい。仕事に戻るから」
盛大なのろけ話を見舞ってくれてありがとうございます。という意味の「ごちそうさま」を、「会計を任された」という意味にすりかえて、コーヒーを飲み干した湛が席を立つ。
やる気のない店だけに伝票などもしょっちゅう置き忘れて届いていないのだが、他に客もいないから問題ない。さっと会計を済ませて湛は風のように出て行ってしまった。
(あの湛さんが……。恋愛ってミラクルすぎるだろ)
さめたコーヒーを飲みながら、伊久磨はぼんやりと無人になった正面の席を見つめ続けた。
ああいう幸せそうな姿、いいな、と。
ところで俺は湛さんの予約の件はどうやってシェフに伝えればいいんだ、とすぐに気付いて頭痛を覚えつつコーヒーを飲み干した。
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