第31話 その手に空を掴んで
「本当に飲食経験なし? 見た目若いのに、どこの店で修業してきた人かと思った」
電子タバコを指にはさみ、蒸気を吐き出しながら、夏月が笑って言った。
結局、閉店まで残っていた夏月に「なんか食っていけ」と由春が言ってさらに引き留め、「お前は座っていろ」と言われた伊久磨とともに客席で向かい合って座っていた。
キッチンを片づけてから、何か作ってくれるらしい。
「ディシャップ自体、初めてです。ホールとキッチンに指示を出すだけの。学生バイトを入れたこともありますが、普段は動かないわけには……」
「待って、ディシャップ初めて!? あ、まあこの人数ならそうかもしれないけど。どういう経歴なの? かなり人を使い慣れているよね」
大げさに驚かれて、伊久磨は返答に時間を要した。やがて、深々と頭を下げた。
「風早さん、思いっきり使ってすみませんでした」
「いや、それはいいけどさ。レベル高くてびっくりしちゃった。オレなんか学生のときのバイトと、あと由春の店で少し経験あるだけだけど。想像以上だったよ。もう料理名全部頭から出て行っちゃったし。あいつ、何を作っているのか全然わからなかった」
北イタリア風料理と銘打ったこの時期のコースは、そのままの名前で出しているものもあり、伊久磨は客席に向かう前の夏月に何度か呪文のように唱えて付け焼刃で覚えてもらった。
バーニャカウダ、リゾット・アッラ・ミラネーゼ、コストレッタ・アッラ・ミラネーゼ……。
「岩清水さんのお店というのは」
夏月は電子タバコを適当に処理してケースにしまいこみながら、うん、と頷く。
「あいつが二十歳そこそこのときにね。市のプロジェクトで、シャッター街の空き店舗を若者に貸し出して、助成金も出すっていうのがあって。それであいつ、期間限定で一年間だけ開いていたレストランがあったんだ。聞いたことがない?」
「詳しいことは、あまり。『椿屋』という和菓子屋に大学生のときに通っていて、そこで聞いたことはあります。ちょうどあの通りの並びに岩清水さんが店を構えていたことがあったって」
「ああ、椿の。香織は元気にしているかな。知り合い?」
笑顔で言われて、伊久磨は「はい」と返事をするにとどめた。
「いろんな若者にチャンスを、っていう主旨だったから、はじめから閉店の時期も決まっていたんだ。店自体は成功だったと思う。その後……、古着屋とか全然立ち行かない店ばかりでプロジェクトも立ち消えたとは聞いた。オレはもともと東京で働いていたんだけど、ブラックで。その時期は体壊して実家でひきこもっていて、色々あってハルに駆り出されて、ホールやってたよ。あいつ、年下のくせに偉そうでさ。だけど、こう言っちゃなんだけど、この店に比べたら学校祭みたいなレベルだった。ハルの料理は良かったけど、今みたいに洗練されてなかったし。今日見ていて、ああ、ハルがやりたかったお店はこういうのか、って」
遠くを見るまなざし。
(過去のその時点から見たら、今の岩清水さんは完成形に見えるかもしれないけど。ここで終わる人だろうか)
「俺は風早さんを見て、シェフが必要としているのはこういう人なのかなって思ったんですが」
「何が!? どこが!? 全然役に立ってなかったでしょ!?」
思いっきり、気持ち良いほど噴き出されてしまう。
「謙遜ですよ、それ」
伊久磨もつられて笑ってから、テーブルの上にのせて指を組み合わせた自分の手に目を落とした。
「俺はこの業界のことがよくわかっていません。俺にとっては岩清水さんが初めての
一度しまいこんだ電子タバコを取り出して、スパッと吸いながら夏月が呟いた。
「何だ今の。ハルが悪い男みたいだな」
深い感慨とともに言われたその意味をよく飲み込めないまま、伊久磨は顔を上げて夏月を見た。
「これまで自分と同じポジションのスタッフもいなかったので。今日、風早さんを見て焦りました。風早さんがいたら自分なんかいらないんじゃないかって」
「オイオイ、それこそ謙遜だと思うけどね」
口の端にへらっと笑みを浮かべて夏月が面白そうに伊久磨の顔をのぞきこむ。
「ハルの要求水準はもともと高かったけど。今は昔の比じゃない。生半可な奴ならこの店、すぐ辞めてるよ。断言する。今日見ていたけど、パティシエのゆき君、あの子も相当頭良いよね。気付いていないと思うけど、伊久磨君もゆき君も、もう半端な店じゃぬるくて働けないよ。そのくらいのこと、ハルは要求している。もっと自信持ちな。オレは今全然違う仕事をしているけど、もう一回ここで働けって言われたら絶対に無理だ」
「風早さん」
どことなく性急な様子でまくしたてられて、迷いながら名を呼ぶも、小さく首を振られる。
「ほら、酒も飲めないし。料理に合わせてワインのフルコース組み立てるなんて絶対に無理。あれだけでかなり客単価上げているけど、それは伊久磨君が仕掛けている戦略なわけだろ。こんな使える人、ハルが手放すとは思わないんだけど」
それは買い被りだと思います。
言おうとして、飲み込んだ。
一瞬、夏月の浮かべた笑みが寂しげに見えたせいで。
電子タバコをもう一度しまい込みながら、夏月は穏やかに言った。
「だからさ、『誰とでもヤれる男』だなんて言わないであげて。それはちょっとハル、かわいそう」
*
「今日はデートないのか?」
いつもはさっさと上がっていく幸尚が、コックコートもそのままに打ち上げに残っていたので、伊久磨は真顔で尋ねてしまった。
幸尚は、一番安い赤ワインをコーラで割ってレモンを浮かべたカリモーチョをひっかけながら、剣呑な調子で「は!?」と威嚇するように聞き返してくる。
伊久磨は両方の掌を幸尚に向けて、頷いてみせた。
「悪い」
「はーっ。うるせーうるせー」
そこまで悪し様に言われるほどの質問をしたつもりはなかったが、虫の居所の問題だろう。
営業中、一杯分残ってしまったハウスワイン用のワインは飲んでしまえと言われていたので、伊久磨はしずかにグラスを傾ける。
立つと怒られるので、客席におとなしく座ったまま。
普段、閉店後に何かつまむようなときはキッチンなので、こうして夜の客席で食事するのは珍しい。
「ハルはいつ来るんだ。まだ何か作っているのか」
薄焼きピザをつまみ上げ、行儀悪く食べながら夏月がキッチンへ消える。
その後ろ姿を見送って、立ったままピザを頬張っていた幸尚がぼそりと言った。
「ニナさん、今日ちょっと焦ってたでしょ。ハルさんの昔の男現る! って感じで」
ちらりと見上げて、目を合わせてから、伊久磨は視線を逸らした。
いろんな言い訳を考えたが、鼻で笑われるのは目に見えていて、素直に謝った。
「本当にな。しなくてもいい怪我をして、ゆきにも迷惑をかけた。岩清水さんをとられると焦ってしまったせいだな」
「はい、馬鹿」
せっかく調子を合わせて愁嘆場演じてみたのに、すげなく馬鹿認定されてしまった。
仕方ないのでちびちびワインを煽っていたら、卓上に自分のグラスを置いた幸尚が、そのまま身体を傾けて伊久磨の頭上に顔を近づけて言った。
「次は許さねーですよ。ニナさんが動けないと誰に負担かかるかわかってるでしょ?」
「シェフかな」
何故か低音で脅されたが、気にしないでピザに手を伸ばす。
幸尚はテーブルの端に腰を預けて、天井を見上げた。
「ま、そうですけどね。だけど……まあ、今日、悪くなかったっすね。ニナさんディシャップ全然普通にやれるのがわかったし。ハルさん、きっと人を増やすの本気で考えると思いますよ」
天井は天井で、星も見えないのに何を見ているのかと、伊久磨もつられて見上げる。
何かを掴もうとするかのように、幸尚は両手をかざして言った。
「いつまでもこの三人ってわけにいかないし。そろそろ変わる時期が来ているんですよ。どこのポジション増やすのかわかりませんけど」
料理を作る人間を増やせば、ランチは席の回転を前向きに考えられるだろう。ホールスタッフの増員がなければ苦しいが。
(少なくとも、ゆきのポジションは競合しないんじゃないか)
むしろ、他のポジションの拡充でパティシエとしての仕事にもっと向き合えるかもしれない。
気楽に考える伊久磨の心をざらりと撫ぜるように、幸尚が呟いた。
「オレ、器用なんですよね。調理補助もホールもそれなり以上にできるじゃないですか。たとえばパティシエを加入させて、そのひとがオレより出来るひとだったら、ハルさんに配置換えされちゃうかも。『お前、今日からホールな』なんて」
「それはさすがに」
いくら由春でもそんなことしないだろう。その思いから声を上げた伊久磨を振り返って、幸尚はどこか挑戦的な笑みを浮かべた。
「いいですけど。そんなことあったら、オレ、ニナさん食っちゃうんで。ぼんやりしていたらすぐに潰してやる」
言い終えて、自分のグラスに手を伸ばす。一気に飲み干す。
光の差すキッチンからは、由春と夏月の楽し気な笑い声が響いていた。
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