第30話 明日に繋がる約束を胸に

 大切にされていないなんて思っていない。

 深呼吸して、頭の中を整理すればわかる。


 すぐに病院に電話して予約して、タクシー手配。押し問答なんて無駄なことしない。

 怪我をしたら治療する。些細なものだからという素人判断になんか耳を貸すことはなく。

 何のためかと言えば決まっている。長引かせないためだ。明日以降の仕事に障らないように。

 経営者としての判断は、この上なく迅速だ。

(仕事のためだとしても、ここまでの決断をすぐに下せる上司って、そんなに多くないんじゃないか)

 欲目かもしれないが。


「蜷川君が欠けたら『海の星』が営業できないってわかっているから、岩清水シェフ焦ったでしょうね」

 受診を終えて会計しているときに、院長婦人に声をかけられた。

(焦っていたかな)

 落ち着いていましたよ、なんて受け答えたらちぐはぐな印象になるのはわかっているから、「無理をきいて頂いてありがとうございました」と頭を下げた。

 病院に着いたらほとんど待ち時間なく診察室に通された。「岩清水シェフ」が自ら予約を入れたおかげで配慮された可能性はある。

 怪我自体は大したことがなく、二、三日無理して歩かなければすぐに良くなるとのことだった。


「車、表にまわしてあるから乗って」

 見送りに、雑談がてら外までついてきた院長婦人が、伊久磨に明るい調子で言った。

 病院の正面にエンジンのかかったランドクルーザーが停まっている。

「えっと……」

 当然のように戸惑う伊久磨に、院長婦人は悪戯っぽく笑いかけた。


「シェフから電話があったわよ。店に戻るだろうから、タクシー呼んでおいてって。少しも歩かせる気がないみたいね」

「すごいタクシーに見えるんですが」

 というかタクシーではない。

「私も仕事終わって帰るだけだから。ついでよ。助手席にどうぞ」

 断る方が面倒をかけるという空気。伊久磨は観念して礼を言い、乗り込む。

 由春が伊久磨の目の前で電話していたときは、そんな会話はなかった。もう一回かけたのだろう。

(吉村夫妻は店のお客様だぞ……。タクシー呼んでおいてなんて、気軽に使うなよ……)

 そのくらい自分で出来るのに。そもそも怪我だって、大げさに受診したけど、たいしたことがなかったし。


 伊久磨はシートベルトを締めて「本当にご迷惑を……」と頭を下げたが、院長婦人には「いいのよ。次はサービスしますって、シェフ直々に言ってもらったから」と笑い飛ばされた。

 言った以上は、するのだろう。伊久磨もこの恩は忘れない。次の予約が入るのを心待ちにしてしまう。


 ひとつひとつはとても小さな気遣いの連なりが、細くとも確かな縁を結んで、明日に繋がる約束になる。


「急ぐわよー。お店心配でしょ? シェフも首を長くして待っているわね」

 優し気な声で言われて、伊久磨は何度目かの「ありがとうございます」とともに頭を下げた。


          *


 店の裏口まで車を回すと言われたが、入口に向かうカップルの姿を見かけて、伊久磨は礼を言ってから正面で降りた。


「いらっしゃいませ。安斎さま、お待ちしておりました」

 今まさにドアを開けて入ろうとしている二人の後ろから声をかける。

「おっと、誰かと思ったら蜷川君。後ろから?」

 中年男性の方が、伊久磨を振り返って髭を生やした顔いっぱいに笑みを広げる。

「お迎えに出たら、すれ違ってしまったみたいです」

「なんだよ、エプロンしてないぞ。シェフにお使いにでも出されていたんじゃないの?」

「お足元、お気を付けくださいね。そこ、段差があります」

 賑やかに会話しながら、さりげなく先に立ち、ドアを開ける。足が痛むのは無視して、二人を中へ招き入れた。


 すでに二席始まっている。料理を運んでいた幸尚がちらりと視線を向けてきた。伊久磨を確認しながら、客に向かって「いらっしゃいませ」と微笑を浮かべて言う。

 別の席では、夏月が笑いながら客と話している。

 ドリンクを聞かれて、グラスワインをすすめていた。

 あまり違和感がない。


 ――あの人、ニナさんに似てるんだ


 遠目に見る。

(似ているんだろうか。俺はあんな風に笑えているだろうか)

「僕はそんなに飲まないんですが、うちのスタッフが間違いないって言っていましたから」

 美味しいの? なんて聞かれて、けろりと悪気ない口調で受け答えしている。

 知らない店に突然立っても、気負った様子がない。


 ――オレが今のハルの要求にこたえられるとは思わないんだけど


 謙遜だ、と結論づけた。

 間違いなく、彼は以前由春と一緒に働いていたひとだ。どこかで道は違えたのかもしれないが、再会して、窮状を見かけて、一肌脱ぐ程度には気持ちが通じている。

 必要とされているひとだ。


(自惚れなんかない。ずっと焦っていた。自分がなんだかわからない。その不安定さが振り払えなくて。もっと視野が広くて気が利いて、もっとシェフの意を汲める誰かが現れたら、自分は必要なくなると)


 必要とされたいんだ。

 おこがましいとか、大それたことだと思いながらも、この欲望はもう隠せない。

 この場に自分がいることを、否定されたくない。できれば認めて欲しい。お前がいなければと言わせてみたい。


(誰かに否定されたわけじゃないのに。敵はいつだって気弱になる自分だ。周りを信じ切れずに、拒否されて追い出される被害妄想。裏切られて捨てられるという、根拠のない怯え。逃げ出す理由を用意しておきたいだけの)


 手の内にあると思っていたものが、なすすべもなく失われていく。

 世界のどこにも居場所がなくなる。

 全部怖くて。

 それくらいなら、自分は何も持っていないのだと言い聞かせ続けて来た。

 大切なものは初めから手が届かない。自分のものじゃないから、失うことだってない。


 ずっと、自分が立つ場所を不確かなもののように感じていたけれど。


「蜷川君、最近ワイン揃えたって言ってたよね」

 今は名前を呼んでくれる人がいるから。


「安斎さま、前回いらしたときにイタリアワインがお好きだと仰っていたので。シェフも最近凝っていますし、今回の料理に合わせて私も少し勉強しました」

 予約電話のときに軽く話題にした件で、伊久磨は穏やかに微笑んでみせる。

「じゃあ、料理に合わせてお願いしようか。飲むでしょ?」

 連れの若い女性に軽く声をかけて「少しならね」と楽し気なやりとりをするのを見ながら、伊久磨はさりげなく確認する。

「安斎さまはグラスワインのコースでよろしいでしょうか。各料理に合わせて一杯ずつセレクトしますけど、一通りだと結構な量になりますね。お連れ様はお酒は……?」

「そんなに飲んだら酔っちゃうわ」

「わかりました。では、様子を見て追加する形で」

 もしかしたら男性は飲ませたかったかもしれないが、付き合い程度なら二杯が限度だろう、と。

 何か言いたげな男性には今一度笑いかけてから頭を下げて、キッチンに引き返す。


 料理の皿に向かっていた由春が顔を上げて、険しい目で見て来た。

「伊久磨、足」

「重いものを持って負担をかけたり、走ったりしなければ大丈夫だそうです。普通に歩く程度なら」

 さすがに痛みがあって、客席から見えないのをいいことにわずかに引きずりながら、手洗い場に向かう。


「おかえりー! 待ってたよー!! ハウスワイン、開いているのある? 赤と白頼まれたけど、料理に合う? 大丈夫? 冷蔵庫に入ってるの? 抜栓できないからお願い」

 引き返してきた夏月が、伊久磨の姿を見かけてまくしたてた。


「大丈夫ですよ。赤は肉、白は魚、なんて固く考える必要ないですし。好きなものを好きなタイミングで飲めばいいと思います。今お通しした安斎様のお席におしぼりとお冷をお願いします。オーダー分のドリンクは用意しておきます」

 夏月が走り書きしてきたオーダーシートを受け取りながら、伊久磨は由春に目を向ける。


「今、安斎さまご来店されたところ。ご本人が卵アレルギーある。今回は使ってないから大丈夫として。料理に関してはダイエット中だからポーション少な目って指示が出ていた席です。お連れ様と揃えて目立たないように。ワインはフルコースでオーダー入っているから進行はゆっくりめだと思う。はじめてください」

 ちょうど幸尚が戻って来たのを視界にみとめ、顔を上げて壁掛けの時計を確認した。歩み寄ってきた由春にエプロンを手渡されて、腰に巻き付けながら話し続ける。

「ゆき、まだ手が空くなら出迎えに出て欲しい。佐々木様、いつもご予約の時間ぴったりだからそろそろ到着されるはず」

 言い終わるとほぼ同時に、遠くでドアベルが涼しく鳴り響いた。

「ウィ」

 フランス語みたいな返事をして、幸尚が出て行く。


「伊久磨、司令塔ディシャップの間そこの椅子に座っていていい」

 オーダーシートを吊るす、回転するディシャップ台の横に、座面高めのバーチェアが置いてあった。

 軽く片頬で苦笑しながら、伊久磨はゆっくりと近づく。

「ホールを見ないでここから指示だけって、不安しかない。出るときは出るから、止めないでください」

 椅子の横を通り過ぎて、ワインの準備にかかる。


 ふと、視線に気づいて由春の方を振り返った。

「足は本当に大丈夫なのか」

「しつこい。今日の営業の心配だけでいい」

 ノータイムで言い返した伊久磨に対し、由春は目を逸らしてキッチンを横切りながらぼそりと言った。


「お前が戻ってきたから大丈夫だろ」

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