第29話 心はどこに

 内装をカメラに収めて、物珍しげに店内を歩き回っていた夏月。「何かあれば」と伊久磨が申し出ても、「お構いなく」と感じ良く言うだけで手間もかからず、現在は客席でパソコンを開いて作業している。

 休憩中、外に出ていた真田幸尚さなだゆきなおは、顔を合わせたタイミングで軽く挨拶を交わした程度で、キッチンで夜の準備に取り掛かっていたが。


「あ、わかった」

 しゃがみこんで、冷蔵庫からラップをかけたステンレスバットを取り出しながら言った。

「あの人、ニナさんに似てるんだ」

 ガコン、とバットがステンレス台に置かれる。

 クリップバインダーに挟んだ発注リストを眺めていた伊久磨は、顔を上げてぼんやりとしたまなざしを幸尚に向けた。

「あの人?」

「風早さん。地味イケメンで、頭良さそうだけど毒のない感じ。いかにもハルさんが好きなタイプ」

 咄嗟に、反応しそびれた。何か言おうとはしたのだが、うまく頭の中で像が結ばず言葉が出てこない。


「褒めてるのか、貶してるのか、というやつか」

 結局、無難な反応しか出来なかった。

 概ね好意的な評価だったとは思うのだが、素直に受け止められぬまま。

(岩清水さんが、好きなタイプとは)

 表現として今一つ、妙に引っかかる。


「ニナさん、だいたいハルさんの無茶振りもわがままも受け止めるじゃないすか。あの人も、なんかそういう感じ。ハルさんが仕事やりやすそうな相手というか」

 予約の時間帯とコースを書きこんだ連絡票に目を落として、幸尚は軽い調子で言う。

(「好きなタイプ」は、仕事がやりやすそうな相手、か)

 わからなくもない。

 料理を作ることができない自分は、キッチンの二人が仕事しやすいように心を砕くのが基本だ。それは、言われずとも相手の考えを汲むとか、見落としに気付いてフォローするだとか、それ自体は誰でもできる些細な作業の積み重ねでもある。

 特別じゃない、ただの人間の自分にもできること。

 他にできることが、あまりにも少ないから。


「たしかに。風早さん、サイト構築は素人同然だって本人は言っていたけど、店の経費に計上してないから、多分岩清水さんが個人的にお願いしている。わがままを聞いてもらっているのはひしひし感じるよ。本当は、そのくらい俺が空き時間にでも出来れば良かったんだけど」

「ニナさんいつ時間空いているんですか。過労死しますよ。外注できることは外注でいいじゃないですか」

「それはそうだけど、金銭の授受もなく、個人的な伝手つてで仕事を依頼するのはあまり良くない」

 幸尚が、顔を上げた。

 伊久磨の顔をまじまじと見つめ、真顔で言った。

「ニナさん、調子悪い? 変な顔している」

「顔は元からかなぁ」

「そういう話はしてなくて。なんか声も変。心をどっかに置いてきちゃったみたい」

 幸尚は。

 ピンク頭でパンキッシュな見た目ながら、地に足がついていて、何かと現実的な言動が多い。聞き返して確認しないと理解が及ばないような、抽象的なことは滅多に言わない。


(心?)


 思わず胸に手をあて、いや脳かな、と考えた瞬間。

 キシリと胸の奥に軋むような痛みが走って、心臓が締め付けられる感覚があった。


          *


 由春の姿が見えない、とごく自然な習い性のように探してしまったが、いつの間にか夏月のテーブルについて料理の雑誌を読んでいた。

 夏月が、パソコンを閉じながら話しかけている。


「客席はセッティングした状態で撮るとして。あとは料理とか、夜のライトアップされた外観も欲しいんだよね。キッチンも人物入れて、顔をぼかした感じで撮る? シェフの写真はどうしよう」

「いらねーな。シェフに会いたい客が増えても困る。俺がキッチンを出て、客席に挨拶に立つのが増えると支障が」

「しかし、お客さんきちんと入っているのがすごい。夜は満席? 広告打ってないんだよな? リピーターと口コミと紹介だけか」

 予約席のセットがそこだけ残っている。

 その席自体は遅めだが、他の席が入ってからセッティングに入るのは難しいので、済ませてしまいたい。

(とりあえずセットだけ置いておくか)

 トレーにシルバーの類をのせて、近くのテーブルまで持って行く。


「もうこんな時間だ。夜の営業に障るね。どうしよう、オレいったんどこかに下がらせてもらおう」

 伊久磨の姿を見た夏月が、慌てたように立ち上がる。一方、両腕を突きあげるように伸びをしながら、由春がどことなく意地悪っぽく言った。

「働いていってもいいんだぞ」

「よせよ。もう無理だ」

 適当にパソコンを詰めたバッグを手に持った夏月が、笑いながら歩き出そうとする。その足が、テーブルの脚に引っ掛かって、ぐらりとバランスを崩した。すぐそばまで迫っていた伊久磨が、咄嗟に手を伸ばす。

 夏月は、パソコンをかばおうとしたのか、無防備に転ぶだけの姿勢になっており、伊久磨に半ば抱き留められる形になった。


 ぐっ、と足首に嫌な力がかかったが、夏月を離すわけにはいかず、伊久磨は奥歯を噛みしめて堪える。


「ごめんっ。大丈夫!?」

 ぱっと身体を離した夏月が慌てて言う。

 足を踵から床についた瞬間、痛みが走る。伊久磨は小さく息を飲んだものの、飲み込んで、微笑んで見せた。

「お怪我は。パソコンは無事ですか」

「うんっ。ないない大丈夫。うっかりしてた」

 朗らかに言う夏月を前に、同じく笑みを保ったまま伊久磨はそろりともう一度足を踏みしめてみる。

(痛い)

 捻った。

 ツキン、と骨に響く痛み。耐えられないほどではない、と自分に言い聞かせる。これから夜の営業なのだ。歩けないわけにはいかない。営業が終わるまでは、誰にも気付かれないようにしなければ。

 

「伊久磨」

 一番気付かれたくない相手に、名前を呼ばれた。

 諦めと、一縷の望みをかけて「はい」と返事をする。

「お前いま、足捻っただろ。痛むのか?」

 完全にバレている。

(どうしてそこ、鋭いのかな)

「問題ないです。ちょっと痛い程度」

 すぐそばまで寄って来た由春は、その場にしゃがみこむ。痛む右足に手を伸ばし、足首から掴みあげられた。


「んっ。……岩清水さん……ッ」

 遠慮のない動作に、声が漏れる。そばのテーブルの天板を掴んで、倒れないように身体を支えつつ非難がましく名を呼ぶと、そっと手を離された。 

「痛がってんじゃねえか。だめだなこれ」

「だめって」

 即断即決で、何か切り捨てられた。

「病院行け。すぐに行けばまだ間に合う」

「夜の営業が」

 口答えしているのに、聞く素振りもなく由春はポケットから取り出したスマホを軽く操作して耳にあてる。


「……どうも。『海の星』の岩清水です。あ、奥様でしたか。ええ、いつもお世話になっております。次のご来店楽しみにしています。……はい。そうです、診療、今から間に合いますか。うちの蜷川が足を痛めたみたいで。……それはなんとか。ただ、放っておくと本人無理して働きそうなので、一度診てもらえます? ……ああ、はい、それはもう。大事な戦力なので。早く治してもらわないと」

 ひとしきり感じよく話してから電話を切り、続けてどこかにかける。一台お願いします、という会話の流れからするとタクシー会社だ。

 止める間もなく用件を済ませて、スマホを切ると尻ポケットに突っ込んだ。


「いま車来るから。保険証あるな? 吉村内科に診療予約入れてあるからさっさと行け」

 勝手な。

 伊久磨の意思も確認せず、話を進めてしまう。それがあまりにもいつもの岩清水由春で、伊久磨はつい剣呑な調子で言ってしまった。

「行けない。夜の営業がある」

「それはどうにかする。お前が心配することじゃない」

 どうにかするって、どうやって。

(心配くらいしてもいいだろ)

 そんなことまで、否定しないで欲しい。

 由春がふいっと伊久磨をかわして歩き出したことで、睨み合いはあっけなく終了する。


「ハル。今の展開、オレはさすがに責任感じるんだけど」

 追いすがれない伊久磨より先に、夏月が背に声をかける。

「ただの事故だ。夏月は関係ねえ」

「関係なくはない。というか……、現役の頃も使い物になっていなかったわけだから、戦力なんてとてもじゃないけど言えないけど。ハルとパティシエくんだけでバタバタしている横で待機は……できないかな」

 最後のその一言には。

 躊躇いのような、痛みのような。甘苦さと強さが込められていて。

 キッチンに向かおうとしていた由春が肩越しに振り返る。眼鏡の奥からは、睥睨するようなきついまなざし。


「働いていく気か? 本気で?」

 あまりの鋭さに、伊久磨ですら息を止める。夏月もまた、さっと顔を強張らせたが、ひるまなかった。

「オレが今のハルの要求にこたえられるとは思わないんだけど」

 言い終えて、伊久磨の腕に軽く触れる。

「だから、戻って来れるようだったら、戻ってきて欲しい。料理を運ぶくらいのことはするけど、蜷川君がディシャップに立ってくれるだけでもたぶん、全然違う」

「夏月。勝手なことは言うな」

 忌々し気に口を挟む由春に構わず、夏月は伊久磨の腕を掴む手に力を込めて、素早く言った。


「無理はしなくていいけど、お願い。オレを使っていいけど、不安だろ? オレ、アルコール駄目だから、ワインの抜栓すらできないからね。戻れたらでいいから」

 そして、伊久磨の背を掌で労わるように軽く叩いてから、バッグを片手に由春の方へと歩き出す。


「これ、事務室かどっかに置かせて。ソムリエエプロン借りればこの服装でもいける?」

「夏月、マジ言ってんのか」

「マジだよ、大マジ。ここでお前を見捨てたら、この先どんな無理難題飲まされるかわからないし」

「見捨て……」

 納得いかない様子の由春と肩を並べてキッチンへ戻っていく。


 文句を言いたげに夏月を見た由春の横顔が、ひどく楽し気にほころんでいたのが、目に焼き付いた。

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