To accomplish great things,we must not only act,but also dream.

第26話 The day you laugh .

「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」

 閉じていた目を見開き、腕を組んで仁王立ちをした岩清水由春いわしみずよしはるが言った。


「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」

 店の裏口から、ゴミを捨てて戻ってきた蜷川伊久磨にながわいくまが応える。

 さっさと手を洗っている後ろ姿を睨みながら「地名か」と由春は呟き、続けて言った。

「スリジャヤワルダナプラコッテ」

 手を拭きながら振り返った伊久磨は、ぼんやりとしたまなざしを由春に向け、口を開く。


「普通」

 ぴくっと由春が片眉を上げた。

「普通って、王道だろ。暇つぶしに長い地名覚える中学生には避けて通れない……」

 不満ありげな由春を見ながら、伊久磨はぼそりと呟く。

「エロマンガ島」

「それだ」

 びしっと伊久磨を指さして、由春がキメ顔で言った。


「……なんの会話してるのか、全ッ然わかんない……」

 ノーゲストのホールから戻ってきて、二人を見ていた真田幸尚さなだゆきなおが、呆れているのを隠しもせずに割って入る。シンクに背を預けながら、伊久磨が答えた。

「シェフが、新作の閃きが来ないから、とにかく強そうなカタカナを言えって」

「それがどうしてエロマンガになるんですか」

「中学生男子の地図帳の定番?」

「エロマンガが?」

 え、マジ何言ってんの? と遠慮なく言う幸尚の声を聞きながら、伊久磨はポケットからスマホを取り出して検索結果を表示する。


「バヌアツのタフェア州最大の島。ニューヘブリディーズ諸島の一つ。これ、だいたい誰か暇な奴が地図帳で見つけるから結構有名だと思う。スリジャヤワルダナプラコッテが言える奴は大体エロマンガ島知っている」

「へ~……」

 感嘆めいた声を漏らしてから、幸尚は由春の方へ顔を向けた。力強く頷くオーナーシェフ。

 幸尚は、首に巻いた水色のネッカチーフを引っ張るように外して、目の前のステンレス台に叩き付けた。


「バカ? この空間バカしかいないんすかね!? クッソ真面目な顔しながらエロマンガエロマンガって連呼していて新作できるなら苦労しねーわ!!」

 ぼさっと見つめていた伊久磨はスマホをポケットにつっこみながら幸尚に目を向けた。

「大丈夫か? ゆき、俺らと同じ空間で同じ空気吸っているぞ? 馬鹿うつるぞ?」

「いやだーーーーーーーっ!! 空気感染かよ、最ッ悪ですよそれ!!」

 ずだん、と床を踏みしめて叫ぶ幸尚を見ながら、由春が取り付く島もないそっけなさで言った。


「過程がどうであれできればいいんだよ」

「へーっ!? 楽しみっすね!! 天才オーナーシェフの新作楽しみにしています!!」

 売り言葉に買い言葉の賑やかさでわめく幸尚に、伊久磨が穏やかに声をかけた。

「ゆきは? 強そうなカタカナといえば、何が思い浮かぶんだ」

 くわっと噛みつきそうな勢いで振り返った幸尚は、その勢いで言い放った。

「ゴルゴンゾーラ!!」

 伊久磨と由春が目を合わせる。互いに何か譲り合う空気。たまらず幸尚がもう一度叫ぶ。


「なんすかそれ!! 感じ悪ッ。はっきり言ってくださいよ、『普通』って言いたいんですよね!!」

 目を向けられた伊久磨が、いやいや、とまったく信用ならない調子で軽く否定した。それから、苦笑めいたやわらかな笑みを顔に広げる。

「ゴルゴンゾーラのチーズケーキ。クリームチーズに少し加える感じかな。アクセントにくるみとかナッツ類入れて、レモンとローズマリーをきかせればワインにも合いそう。ゆき、チーズ系上手いから作ってみれば。この間のクレメダンジュも美味かったし」

 毒気を抜かれたように、幸尚が振り上げた拳を宙で止める。

 伊久磨は、由春に視線を向けた。


「ロンバルディア、ピエモンテ」

 ゴルゴンゾーラの主要産地。

 思考に沈む鋭いまなざしで、由春が呟いた。

「ロンバルディアは伝統的な農村地帯だけど、スイスと接しているし、中心地のミラノが賑わっていて外国の影響も強いんだよな。ミラノ風サラミとか、生ハムとか……。ま、有名なのはミネストローネか。……ミネストローネな……」

「確かワインは甘口もありますよね。モスカート・ディ・スカンツォだっけ。飲んだことないけど」

「高い高い。うちの店じゃまだ扱えない」

 ごくごく普通に、料理の話にスライドした二人を、幸尚は胡乱げな目で見ていたが。


「えーと……? なにこれ。オレはゴルゴンゾーラでチーズケーキ作ればいい流れ?」

「そうだな。たぶんシェフがそこめがけてコース組み立てる。ミネストローネなんかはウケもコスパも良さそう。俺もイタリアワイン少し見直しておく」

 やはり、ごくごく普通に料理の話をする伊久磨を、幸尚は呆れた目で見上げた。


「それなら、最初から『食べ物限定強そうなカタカナ選手権』で良いじゃないですか。なんで遠回り……」

 はて、ととぼけた様子で伊久磨は少しだけ首を傾げた。

「それもそうだな」

「ええっ? なんでいま初めて気づいたような顔したんですかねニナさん」

 責める口調の幸尚に、伊久磨はおっとりとした調子で答える。


「たぶん今初めて気づいた」

「はーーーーっ!? いい加減にしてくださいよ、ニナさん、完ッ全にシェフに毒されてますよ!? まともな人間が!! いなくなる!! まとも……」

 ニナさんはそもそもまともだったのか……? いや、どうなんだ? と苦々しく呟く幸尚を見ながら、伊久磨は噴き出した。

 そのまま声を立てて笑って、シンクに寄りかかる。

「オセロの理屈ならユキ、もうだめだ。お前もひっくり返るしかない」

「いやだーーっ!! 染まるもんかーーっ!! オレは帰ります!!」

 エプロンを外しながら高らかに宣言する幸尚。


「おう、お疲れ。お前、試作は明日からな」

「ゴルゴンゾーラ入れるか。他、必要なものあったら発注リストに書いておいて。明日でいい」

 由春と伊久磨に同時に見送られる中、勝気そうな瞳をぎらつかせて声を張り上げた。

「お疲れ様でした!!」


 ばたばたとロッカーに走りこんで、ものの十五秒ほどで飛び出して行く。

 その去り際をにこにこと見ていた伊久磨は、顔を上げてキッチンの壁掛け時計を見た。

「スーパーに駆け込む気だ」

「遠慮しないでここで作ればいいのに」

「試作の段階でほとんど完成品出すのがあいつの意地だから。岩清水さんは?」

「ミネストローネなぁ……。もうひとひねりだけど、さすがに今日は飲む。行くか」

「飲んでいても、閃くといきなり店出て行くからな……。天才面倒くさいんだよな」


 笑みをこぼし、憎まれ口を叩きながら、伊久磨はステンレス台に残された幸尚のネッカチーフに手を伸ばした。


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