第25話 輝く日を仰ぐとき
「すっかり長居をしてしまったわ」
テーブル会計を済ませて立ち上がったレナに腕を貸して、伊久磨は寄り添って一緒にエントランスまで歩いた。
「まったく問題ありません。レナ様があまりにお急ぎなのを気にして、シェフもリサイタルを開いたと思います」
一曲だけと言っておきながら。
――久しぶりなのですから、もう少しごゆっくりしていかれては。
由春は、「伊久磨の客」に関しては出しゃばらないようにしているらしい。声をかければ顔を見せに出て来ることはあるが、今日のようにろくに挨拶もなくふいっといなくなることもある。
愛想が無い。
思い余って伊久磨から言ったこともあるが、「必要ないから」とのことだった。
「俺が昔いたとあるレストランでは、料理の値段は、料理・空間・サービスで三分の一ずつって新人に教育していた。その理屈で言えば俺の仕事なんか三分の一だよな。『海の星』も、空間とサービスでもきっちりお金を頂いているんだから、そのへんわきまえて仕事しろよ。お前が」
シェフに顔が利く、ということをステータスと感じている相手には慇懃に挨拶をする由春だが、それ以外のときは、まるで。
お前に任せた、と。
そのくせ、見ていないわけじゃない。「視力が」と伊久磨が理由を言ったら、きちんと力を貸してくれた。
予約に遅れたと気にして、料理急ぎでという注文にはきっちり応じていたくせに、あんな形で「ゆっくりしていってください」と語りかける。
「お料理もすごく美味しかったわ。ここは本当に、いつ来ても別世界みたい。もう何年も昔、ここの前を通るたびに、どういうひとが住んでいるお屋敷なのかしらと思っていたの。息子が小さい頃、外国の映画みたいだねってよく話していて。このレストランに初めて来たときはね、ドアが開かれていて、笑い声が聞こえて、あなたが出てきて……びっくりしたのよ」
「覚えています」
ほとんど睨むように見られていた。お客さんかどうか判断がつかず、少しだけ困った。
ステンドグラスを透過する光を潜り抜けて、ドアから外に出る。
午後の陽射しが目に眩しい。
「あなたは息子に似ているわけじゃないのよ。そんなに背が高くもなかったし……、細かく気が付くタイプでもなかったわ。だけどなんでかしらね、ちょっととぼけたような、頼りないような……。あっ、仕事ができないと思っているわけじゃないんだけど。少しだけ、面影のような」
伊久磨の腕にすがったまま、早口で話しているうちに、レナは息を止めた。
無言のまま、小さなクリーム色のバッグから白いレースのハンカチを取り出し、目尻に溜まった涙を拭きとる。
「あなた、ご実家?」
唐突な質問に、伊久磨は一呼吸置いてから答えた。
「実家はもう少し北の方でした。大学でこっちに来て、就職もそのまま」
レナの指が伊久磨の腕にきゅっと食い込む。
「あらそうなの。お休みはあるの? きちんと帰っているの?」
「うーん……。墓参りくらいですかね。行かないって言うと、シェフが店を閉めてでも休みにしてくるから」
「当然よ。お墓参りと言わずに、もっと帰ってあげた方がいいわ。あなたが私の息子だったら、好物たくさん作って帰りを待っていると思うの。私の息子は、もう帰ってこないけど。……あら、でもあなた普段もしかしてシェフのまかないを食べているの? それなら、母親の手料理なんか口に合わないかしら」
少女のように微笑みながら見上げてきたレナに、伊久磨は穏やかに微笑み返した。
「すごく嬉しいと思います。食べたいですよ」
ほんとかしら、とレナが伊久磨の腕を軽く押して、離す。
「お盆が終わったらスイスに帰るの。次に来るのがいつになるかわからないけど、お土産は何がいい? チョコ? この店、スタッフ何人?」
「男が三人です。チョコ大好きです。でも、気にしないでください。来てくださるのは心待ちにしていますが」
「じゃあ、またね。来るときは電話する」
軽く手を振って背を向けるレナに伊久磨は丁寧に頭を下げた。
そのまましばらくその姿勢を保っていたが、やがて顔を上げる。
後ろ姿を遠くに見てから、店の中に引き返した。
*
「なんで『レナ様』なんですか?」
数日後。
ランチが終わった時間帯に、カウンター周りで昼の売り上げを数えていた伊久磨に、幸尚が声をかけた。
「本人がそう言っている。予約の名前を伺ったら『レナ』って。だから『レナ様』」
顔を上げることなく、紙幣を数え、小銭をコインケースにつめていく。
「ふつう、佐藤とか鈴木とか……。あ、カード会計するならアルファベットで名前入ってますよね」
「そうだな」
「ふつうの日本人名なんですか」
伊久磨はふっと顔を上げ、何もない空間を見つめた。
知っている。カード会計で本名を見たこともある。だが、言うつもりはない。
「レナ様はレナ様だから」
そのとき、ドアの外に、宅配便の配達員の姿が見えた。
コインケースの蓋を閉めて、伊久磨はドアに向かい、細長い緑色の箱を受け取る。
「俺宛だ」
間抜けな呟きをもらしてから、差出人の名前を確認する。花屋の名前と住所になっていた。
「なんですか? クール便? 食べ物?」
「花……?」
伊久磨も半信半疑ながら、厳重な梱包を開け、何十枚もの薄い緑の薄紙にくるまれた中身を取り出す。
ピンク色の薔薇が一輪。
ひらりと落ちたメッセージカードの文字に目を落とす。帰国する、また「海の星」に行くという旨が簡潔に記されていた。末尾にRenaの記名。
「え……? ドライアイスぎっしりに、過剰包装、厳重な梱包で、薔薇一本……!? Rena様? すげーー!! 演出過剰……!!」
わいわい騒ぐ幸尚を放っておいて、伊久磨はぼんやりと薔薇を見つめた。
ちょうどそのとき、ふらりと由春がその場に現れる。
「なんだお前ら、いつまで油売ってんだよ。ひとりで皿洗ってて悲しくなってきたぞ」
早く戻って仕事しろ、というのを珍しく哀れっぽく言ってくる。
構わず、伊久磨は薔薇を由春に見せて尋ねた。
「岩清水さん。薔薇って何か意味があります?」
「ああ? ないわけねーだろ。なんだそれ」
解かれた包装と、メッセージカードをちらりと見て、由春は一瞬眉をひそめて鋭いまなざしになったが、すぐに肩をぼりぼりと手でかきはじめた。
「薔薇は本数でも意味があって、一本の場合は……そうだな。『あなたしかいない』みたいな感じかな。とはいえ、これが赤だとか情熱的な色ならともかく、ピンクの薔薇の場合は『感謝』とか『感銘』みたいな」
言いながら、はっと我に返ったように伊久磨を睨みつける。
「そのくらい自分で調べろよ」
「この薔薇、名前も何かありますよね。あと、ドライフラワーの作り方は?」
続けて聞かれて、由春は両手を伊久磨の両肩に置いた。
「調べろ。ただ、ドライフラワーは初めての場合はたぶんそんなにうまくいかない。それくらいなら、その辺に花瓶だして飾っておけよ。高そうな花だし、悪くない。カウンターの上な」
「そんな目立つところに」
「お前が一番いる場所に置いた方がいい」
言い捨てて、ホールへと引き返していく。
その後ろ姿を見て、伊久磨は手の中の薔薇に目を落とした。
「いいっすね。姐さんこの間花瓶作ってなかったでしたっけ。どこにあります?」
幸尚に明るく言われて、伊久磨は「ああ」とのんびり答えた。
「
何かゴミでも落ちていたのか、立ち止まってしゃがみ込んでいる由春を確認し、聞こえる音量で言った。
「湛さん、最近
「はあ!?」
ばっちり聞こえた由春が立ちあがって、引き返してくる。
ひくひくと頬を震わせて、伊久磨を睨みつけた。
「どこ情報だよそれ」
「この間の休みに椿屋行ったんですけど。和嘉那さんいましたよ。部屋を借りて湛さんと一緒に暮らし始めたって。展開早いですよね。結婚の話も出ているみたいですけど。もしかして聞いてなかったんですか?」
由春の動きが止まったのを見て、伊久磨は真面目な顔を保てず、噴き出した。
「聞いて、ねえ」
どこかから無理やり絞り出した、由春のしわがれた声。
その陰々滅々とした響きに、伊久磨と幸尚は遠慮なく腹を抱えて笑い出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます