4 薔薇の名前

第21話 まもなくかなたの

「ニナさんが、身売りしてる……」

 摩訶不思議なものを目にしてしまった、というように真田幸尚さなだゆきなおが呟いた。

 たまたま手が空いた岩清水由春いわしみずよしはるが、キッチンからホールに顔をのぞかせて、ああ、と納得めいた声をもらす。


伊久磨いくまの『レナ様』だ」

 表まで迎えに出ていた蜷川にながわ伊久磨が、自分の腕に女性が手をかけられるように寄り添いながら明るい陽射しの差し込むエントランスに入ってきたところだった。

 薄いピンク色に染めた麦わら帽子に、ピンク色のワンピース。レースのカーディガンを羽織った小柄な女性。伊久磨に向かって何か言い、耳を傾けるように伊久磨が動きを止めた。

 それから、穏やかな笑みを浮かべて優し気なまなざしを向ける。


「結構おばさん」

 遠慮ない呟きをもらした幸尚のピンク頭を、由春が拳で軽く小突いた。

「お客様だ」

「いやだって、ニナさんがあんなに親し気にしていたら、こう」

 ちらりと麦わら帽子の影に見えた顔は、決して若くはない。伊久磨の倍か、それ以上の年齢には見える。並んで立つ姿は親子のようだ。


「皿溜まってるぞ。洗浄機動かしておけ」

 幸尚に言い捨て、由春はホールに出て行く。伊久磨が来店したばかりの客に時間を取られるのを見越して、客席を回るためであった。食べ終えている席に近づき、皿を下げますと声をかける。おしゃべりに興じていた中年の女性客二人が、由春のコックコート姿に目を止め、「シェフ?」と尋ねた。

 由春は、眼鏡の奥の目を一瞬だけ鋭く光らせてから「はい。お料理いかがでしたか」と柔らかに微笑んだ。

 美味しかったわ、また来たいわ、との声を聞きながら皿を左手に重ねて「ありがとうございます」とそつなく答えて軽く会釈をして下がる。

 ずいぶん若いわね、いい男ね、という声を背に辺りを見回した。


 ランチタイムも終盤、表の看板はすでに下げているし、どこの席もほぼ最後まで終えているか、デザートを残すのみ。

 だが、伊久磨の手がふさがるようであれば、由春が動く心積もりでいなければならない。声をかけられて捕まるわけにはいかないので、さっと一度キッチンに下がる。

 ちょうど、幸尚がデザートプレートの仕上げに入るところだった。


「レナ様って、思い出しました。あの、ときどき来るお客様だ」

 無花果いちじくのクレメダンジュをプレートに盛りつけ、とろりとした蜂蜜を線を描くようにかけている。

「ああ、普段は海外で、帰国すると伊久磨に会いに来る」

 幸尚の手元に鋭い視線を向けながら、由春が答えた。

 顔上げた幸尚は、小首を傾げて由春を見返す。


「シェフ、そこは『俺の料理を食べにくる』って言うところじゃないんですか」

 視線を絡めた一瞬、何か言おうとしたように由春は口を開き、閉ざした。

 そのまま、キッチンを横切り、ディシャップ台に残ったオーダーシートを確認して、幸尚に手渡した。

 流れるような動作で、幸尚が用意していた紅茶を二つのせたトレーを手にすると、ホールに出て行く前に念を押していく。


「それ仕上げたらそのまま置いておいてくれ。俺が運ぶ。全員ホールで足止め食うわけにはいかない。お前は一応、レジだけ気を付けて見てろ」

「オレが」

「続けてもう一件すぐアフターだ。ドリンクの準備」

 由春は手渡したオーダーシートを視線で示した。

 ピーク時に各テーブルの進行を把握し、キッチンにオーダーを入れていくのは伊久磨の役割だが、この時はすでに調理の手が離れた由春が、その役目に収まるようだ。

 伊久磨が接客に集中できるように。


 ついでに、万が一、幸尚がホールから戻れなくても、デザートプレートの仕上げなど由春には何のことはない。それでも、幸尚の本来の要の仕事である部分はきっちりやれと、自分が細かい仕事を引き受けている。

 さっと肩で風を切るように出て行く後ろ姿に、幸尚は睨むような視線を向け、呟いた。

「オールラウンダーっすね」


 料理だけじゃない。レストラン業務で、次に誰がどう動くべきか瞬時に把握し、的確な指示を出しながら自らが一番動く。

 もちろんこの人数なのだから、当たり前と言えば当たり前なのだが。

 伊久磨は伊久磨の、幸尚は幸尚の、それぞれがそれぞれの仕事に集中できるように、隙間を埋めるのが上手い。

 まだまだ背中を追いかけさせられる、そのことが嬉しくもあり、悔しくもあり。

(ハルさんは優秀だけど。オレはハルさんになりたいわけじゃない。あの人の優秀さは素質以上に経験が物を言っているはず。いろんな現場を渡り歩いて、「自分」に最適化してきた……)

 追うべき背中が、由春だけという現状は果たして自分にとって本当に良いことなのだろうか。


 胸の中に広がる思いを振り切るように、幸尚はオーダーシートに目を落とした。



 ほとんどランチが終わりの外れの時間に、一席だけはじまる新規客ニューゲスト。ドリンクオーダーをもって伊久磨が引き返してきたのは、それから少し後のことだった。

 事前にコースまで予約に入っていたので、料理内容を確認する必要はない。

 客が立った席のバッシングやレジ業務をしながら戻って来た由春だが、伊久磨が戻るタイミングにきっちり合わせて一品目を用意していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る