第22話 いつくしみ深き
伊久磨がその女性に気付いたのは、ランチ客の見送りにドアの外まで出たときだった。
会計を済ませても話が途切れず、「次の予約はどうしようかしら」と取り留めなく話す女性客を促すように歩き、「御予約の際はお電話ください。インターネットからでも大丈夫ですよ。ありがとうございました」と頭を下げて、気配が遠のくのを待って顔を上げる。
そのとき、伊久磨を睨みつけるように立っている女性が視界に映りこんだのだ。
(お客さんなのか、そうじゃないのか。微妙だな)
今から一席始まるのはしんどいかと、由春に声をかけて看板を下げようと考えていたタイミングだった。
ぎりぎり、受け入れられるかと言えば受け入れられるが、無理に取りに行くほどではない、という。
判断保留にして、伊久磨は空を見上げた。
すこんと晴れた空が青くて、天気がいいな、と思いながらもう一度女性に視線を向ける。
「こんにちは」
お客様かどうかわからなかったので、「いらっしゃいませ」を避けて声をかけた。
あ、まずかったみたいだな、と思うくらいには女性の表情が強張る。
それでいて、どこかへ行く気配もない。
伊久磨はその場から動かず、決して距離も詰めないまま尋ねた。
「何かお探しですか。もし道に迷ったとか、お困りでしたら、わかる範囲で」
「ここ。前は空き家だったと思うの。お店?」
伊久磨の問いかけを遮るように、ややぶっきらぼうな調子で女性は言った。
青い帽子に、揃えたような青いジャケットとスカートを身に着けている。年齢は伊久磨にはよくわからないが、皺の目立つ厳しい面差しをしており、少なく見積もっても四十代、五十代くらいに見えた。
「レストランです」
最小限で答えると、女性はじっと「海の星」の建物を見つめた。
やがて、早口に言った。
「今から。一人でもいいのかしら」
「はい。お席ご用意いたします」
あまり無駄口を叩かない方がいいかと、伝えるべきことを伝えた後は返事を待った。
「じゃあ……」
言いながら、一歩踏み出した女性の肩の位置が、がくりと下がった。バランスを崩したと気付いて、伊久磨は弾かれたように駆け寄る。
「お客様!」
段差につまずいたらしい。
どうにか膝をつかずに持ち堪えた女性に手を伸ばすも、指先が触れるぎりぎりのところで手を止めて、ひっこめた。
「大丈夫でしたか」
動揺したらしい女性が、手を伸ばして伊久磨のエプロンとシャツをまとめて掴んだ。
指が白くなるほど力が入っている。
「びっくりしたわ」
離してくださいとも言えずに、伊久磨は呼吸を止めて立っていた。
それから、ゆっくりと息を吐き出した。
「段差が結構あるんです。足元……」
お気をつけください、と言おうとして逡巡する。
女性の眉間に刻まれた皺と、食い込む指。
(視力か?)
よく見えていないのかもしれない。
「もしよろしければ、腕に掴まってください。足元が危ないところはお伝えします。ゆっくり行きましょう」
なるべく穏やかに聞こえるように気を付けて声をかける。女性は俯いたまま頷いて、伊久磨の腕に手をスライドさせた。
自分が大きいだけだというのはよくわかっているのだが、見下ろすと、帽子の位置がずいぶん低い。小柄なひとだな、という印象だった。
「帽子、よくお似合いですね」
思ったまま言うと、前を向いたその女性は、つんと顎をそらして口を開いた。
「私、服を仕立てるときは帽子まで揃えるの。じゃないと、どうも締まらない気がして」
服を仕立てる。
自分の生活には無い習慣だったので、伊久磨は素直に感嘆を示した。
「すごいですね。
レストラン「海の星」はドレスコードなど設けてはいない。しかし、決して安い価格帯ではなく、記念日利用も多いので、服装に気を遣って来てくれるお客様が大半という印象だった。そうしたお客様を見て来た伊久磨の目からしても、その女性は全部が様になっていて、品がある装いをしていた。
女性は伊久磨の腕にすがりながら、くつくつと喉を鳴らして笑った。
「若いのに口が上手いわね。年上の女性ばかり相手にしていると、そうなるのかしら」
「これ、上手いうちに入りますかね。見たままを言っているだけなので、シェフによく叱られていますよ。子どもじゃないんだから、もう少し頭を使え、なんて」
「そうかしら、十分よ。私の息子なんか、何一つ気の利いたことが言えない子だったわ。いくつになっても、全然。どうにかこうにか奥さんをもらったときは、一体あの子のどこが良かったのか真剣に聞いてしまったくらい」
女性の指が、伊久磨の腕にぎゅっと食い込む。皺のある、年齢を感じさせる手だった。
「そこ。足元お気を付けください」
伊久磨が立ち止まって声をかけると、女性も立ち止まり、ゆっくりと足をあげて段差を越える。
それから、伊久磨を見上げて言った。
「ウェイターさん、海外経験がおありなの?」
「特には」
「そう。日本人の男ってもっと照れがあるじゃない。エスコートがずいぶん手慣れているなと思って。あ、もしかしておばあちゃん子とか? 介護経験かしら?」
少女のように邪気のない笑みを向けられて、伊久磨は柔和に微笑んだ。
「覚えてないんですよ。小さい頃に亡くなっているんです」
あら。
女性は「悪いこと言っちゃった」という様子で口元を手でおさえる。
それが「レナ様」が初めて「海の星」を訪れたときのことだった。
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