第19話 落花流水(後編)
湛の目の前で、和嘉那は紫陽花を見つめて、しばらく動きを止めていた。
やがて、長く忘れていた息を吐き出すようにふっと肩の力を抜き、呟く。
「信じられないくらいに綺麗。こんなに綺麗な紫陽花初めて見た……」
そのまましばらく見つめてから器をテーブルに戻し、指で目に浮かんできた涙をそっと拭った。
「なんかもう、びっくりして泣けてきちゃった。本当に、今まで見たこともなくて。すごいなぁ……。これ、ゆきくんが作ったの?」
そう言いながら見上げてきた和嘉那の前に、食後の黒豆茶を湯呑に入れて差し出す。
沖縄の焼き物を思わせるような、柔らかな手捻りに素朴な絵付けをした、ほっとするような作りだ。
気付いた和嘉那が、弾かれたように立ち上がった。
「特別コースのお客様! そうだ、もしよければ私ご挨拶しようと思っていたのに。すっかり普通に食事しちゃってたっ」
言いながら振り返って、すでに他の客がすべて帰ってしまった、閉店間際の店内を見回す。
「うわー……。やっちゃったわ。もう帰っちゃったね……。なんで私ってばこう、抜けてるんだろ」
ショックを隠し切れない様子で、ぼすっと椅子に座り込む。
そのまま、紫陽花を見つめてぼそぼそと続けた。
「お料理とお酒が美味しくて……。普段人と食事取ることもないからすごく楽しくて。時間を忘れるってこういうことよね……。紫陽花綺麗だね。ゆきくんすごい成長しているね……」
泣いたり立ったり忙しい一連の動きを見ていた伊久磨は、笑いを堪えて和嘉那に言った。
「その紫陽花は、コースにはなかったんですけど、特別にご用意しました。作ったのはうちの真田じゃなくて、こちらの和菓子職人、水沢湛さん」
凍り付いたように動きを止め、和嘉那を見つめている湛の前に、伊久磨はもう一つの湯呑を置く。
「本日の特別コースのお客様です。まだお帰りになってないですよ」
目を大きく見開いてしまった和嘉那に、伊久磨は堪えきれずに小さく笑った。
「それと」
続けて言おうとした伊久磨の横に、コックコート姿の由春が立った。
「本日はご来店頂きまして誠にありがとうございます。お料理はいかがでしたでしょうか」
慇懃かつ他人行儀な挨拶。
湯呑を手に取り唇を寄せて一口飲み、伏し目がちに見つめて名残惜しそうにテーブルに置いてから、湛が答えた。
「すごく楽しませてもらったよ。色々無理をきいてもらったし、時間のことでも迷惑をかけて悪かったね」
「いえ。こちらこそお気遣い頂いてありがとうございます。紫陽花はそれ、伊久磨の分から」
何かいま、それとなく意地悪された気がする。
たしかに一つを和嘉那に出してしまったので、誰かの分がなくなったわけだが。その責任が伊久磨に降りかかるのはもちろん織り込み済みだが。
湛は穏やかに微笑んで、伊久磨を見上げた。
「伊久磨は次の休みにでも
「ありがとうございます」
他に客もいない気安さから、幸尚もホールに出て来る。
「姐さん、今日本当に綺麗ですね」
「ゆきくん、ありがとう。普段こういうの着ていないから、似合うかどうか自分ではよくわからなくて。変じゃないなら良かった」
いやいやバッチリですよ、と幸尚に言われて、和嘉那ははにかんだように微笑む。それから、少しだけ俯いた。
なかなか、正面に向き直れないらしい。
一方の湛も妙にぎこちなく、伊久磨にちらりと目を向けてきた。
どうするべきか由春を伺ってみたが、これまたこちらは何故か妙にツンとしている。何故かも何も、この事態をここから少しも動かしたくないだけだろうが。
「一応……。こちらは岩清水和嘉那さん。シェフの姉で、『海の星』の食器を担当している陶芸家です」
まさか。
この二人本当に今まで名乗り合ってなかったのか、という可能性に思い当たりながら、控えめに言う。
和嘉那は、幸尚に身体を向けた状態のまま、湛にはほとんど横顔を向けつつ頭を下げた。
「『和かな』の岩清水です。申し遅れましたが、いつもお買い上げ頂きありがとうございます」
「すみません、こちらこそ。水沢です。あなたが『和かな』の……」
そう言ってから、由春に目を向けた。
「お姉さん?」
「何か?」
喧嘩腰としか受け取れない口調で由春が訊ね返した。
「昨日納品したお皿使ってるなあとは思っていたんだけど、他のコース見ていたわけじゃないから……。私ももう少し早く気づけば良かったね、特別コースだったんだね」
気恥ずかしそうに言いながらようやく顔を上げた和嘉那に対し、由春は「餃子にしとけば良かったかな」と冗談とも本気とも取れないことを言ってから頭を下げた。
「ごゆっくりどうぞ」
伊久磨もならって頭を下げて、一緒にキッチンへと引き返す。
二人は幸尚のデザートまで完食してから、閉店時間にかかる前に席を立った。そこはマナーとして、ぐずぐず居残ることなく、店を変えるのがいかにも湛らしい。
漏れ聞こえた会話によると、二人はこの後どこかで飲み直すようだ。
連れ立って出て行く姿を三人で見送ってからドアに鍵をかけ、灯りを落とす。
「飲み直すくらいなら、全部飲んでいけばいいものを」
煌々とLEDに照らし出されたキッチンで、綺麗に片付いたステンレス台にグラスが三つ。
三人で分けるにはやや少ないくらいに残されたスパークリングワインを注ぎながら、由春はぶつくさと言っている。
「わー、それ飲んでみたかったんですよねー。湛さんありがとうございまーす!」
幸尚が嬉しそうに飛びついた。
伊久磨もグラスを受け取って一口飲んで味を確認する。
「湛さんのことだから、これ俺たち用ですよ。『お前は飲んだことあるのか』くらいの意味でわざと残していくんですよね。ボトルを入れるといつもそう。なんでも勉強させるつもりの人ですし」
「美味しい。確かにこれ、女の人が好きそうだし、カップルに受けそう」
興味津々だった幸尚は素直に喜んでいる。
浮かない顔をしているのは由春だけだ。
声をかけるべきかどうか悩んでから、伊久磨は一言呟いた。
「『お義兄さん』」
「やめろ。はっ倒すぞ」
「いいんじゃないですか。間違いないですよ、湛さんなら。俺に姉か妹がいたとして、相手が湛さんなら嬉しいです」
姉も妹もいない伊久磨がそう言うと、由春はいわゆる苦虫を噛み潰したような顔をする。
「あ~あ。あの二人には顔を合わせて欲しくなかったんだけどな。水沢が最初に『和かな』に興味を持ったときに思いっきり牽制したつもりなんだけど」
「ん? まさか苗字が同じにかこつけて『うちの嫁が』みたいに誤解を招くことを言ったとか?」
「実の姉に対してそこまで気持ち悪いことは言わない。ただ死ぬほど人間嫌いで偏屈だから詮索するなって釘は刺した」
「それはそれで和嘉那さんの名誉を著しく損なっているし、なんというか普通に気持ち悪い」
言うだけ言って、三人分のグラスをシンクに置く。
もうすべて片づけてしまった後なので、洗って拭き上げるのは翌日の仕事とする。
「じゃあ、お先しまーす!!」
さっさとロッカーで着替えてきた幸尚が、裏口から出て行った。
それを見送って、さて帰るかと思った伊久磨に、由春が眼鏡の奥から視線を投げてきた。
「変に飲んだせいか、かえって喉が渇いた。少し付き合え」
「良いですけど、湛さんと和嘉那さんの行きそうなお店に偶然を装って行くって言うなら、本格的に軽蔑しますよ」
「うるせえな! 俺をなんだと思っているんだよ、ちげーよ!!」
怒りながらコックコートを脱ぎだした由春を見ながら、伊久磨も本日の仕事は終了と、ソムリエエプロンに手をかけた。
いつも山にこもりっぱなしで、一年に一回、多くても数回しか人里に現れない「織姫」。巡り合ってしまった「彦星」とこれからどんな関係を育んでいくかは、このときはまだ誰の知るところでもなかった。
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