第18話 落花流水(前編)

「特別コースはじめてください」

 待ち構えていたキッチンに声をかける。


「おーっす。ようやく来たか水沢様」

 ホールには聞こえない程度の音量で応じつつ、由春がさっと大型の冷蔵庫に向かう。ようやく、という声に喜色が滲んでいた。

 その背に向かって、伊久磨は「和嘉那さんって、NG食材あるんですか」と声をかけた。

「姉貴? ない。なんでも食う」

 冷蔵庫から一品目の前菜盛り合わせを取り出しながら、由春が振り返る。

 伊久磨は手持ちの紙袋を二つ、ディシャップ台に置いて言った。


「片方が和嘉那さんから。湯呑。特別コースの最後に使って欲しいって、今納品に来ている。で、もう片方は湛さんから。皆さんでどうぞって。それでいま、湛さんの席に和嘉那さんが同席している」

「伊久磨。忙しいんだ。もう少しわかるように」

 それほどわかりにくいとは思わなかったが、由春が理解を拒んで言い返してきた。

 伊久磨は事実だけを伝えた。


「水沢様のお連れ様は急用でお見えにならない。そのことを伝える為に、ご本人が顔だけ出しに来たところで和嘉那さんと会ったんだ。ちょうどいいから一緒に食事することに」

 手早く準備を始めていた由春も、他の席のデザートプレートを仕上げていたパティシエの真田幸尚も、呆気にとられたように伊久磨を見る。

 堪えきれなかった由春が、抑えた音量で怒鳴った。


「ちょうどいいってなんだよ。何がちょうどいいんだよ!?」


          *


 席に向かう前、伊久磨は値段の書いていないドリンクリストを手にした。


 特に要望がなければ普段は値段の書いているリストを出すが、確認したらやはり湛の手土産の紙袋には代金の入った封筒が忍ばせてあったし、中身は打ち合わせより多めだった。こうなっては、もはや店としても好きなものを好きなだけ飲んでくれという状態である。こと湛に関して言えば、暗黙の了解で飲み放題といっても飲み過ぎることなどありえない。

 なお、駅まで迎えに出ていたので移動は車だが、食事の後は駐車場に置いて帰るとあらかじめ言われていた。


(和嘉那さんはどうなんだろう……。車で来ているだろうけど、さすがに今日くらいはどこかで泊まってから山に帰るのかな)

 由春も酒は普通に飲むので、姉弟であれば飲みそうな気はするが、運転のことは店として確認しなければならない。

 ホールをちらりと見ながら、御冷とおしぼりをトレーに乗せて席に向かう。


 観葉植物が目隠しになった席で、アンティークのペンダントライトの柔らかな光の下、湛と和嘉那はすでに、初対面とは思えないほどのくつろいだ笑顔で向かい合って談笑していた。

(ん……?)

 何か一瞬落ち着かないものを感じたが、気のせいだと思おうとした。

 スマートで如才ない湛と、人当たりは悪くない和嘉那である。先程は少し険悪な空気にもなっていたが、席につけば会話くらいするだろう。


(そういえば湛さんって、女性関係一切わからない人なんだよな。一緒に暮らしている香織ですら、よくわからないって言うくらいだし。和嘉那さんは……)

 なにぶん存在そのものが仙人みたいなものなので、人間の枠ではとらえきれない。


「お料理の前にお飲み物お伺いいたします。お車は……」

「あ、うん。どうしようかなって思っていたけど、さすがにもう遅いしね。今日は実家に泊まるから少し飲もうかな。何がいいかな?」

「俺は伊久磨のお勧めでいいよ」

 二人に同時にお勧めを聞かれてしまった。


 かたや水も滴る良い男であり、かたや地上に降り立った天女である。

 初対面というのが心元ないとはいえ、見た目にはこれ以上ないくらいに映える二人に目を向けられていた。

 そのとき、魔が差したというのは表現として不適切で、単に店員魂に火が付いてしまった。


「お二人ともお酒を召し上がるのでしたら、ボトルでご用意しましょうか。泡があった方が飲みやすいかと思うんですが」

「任せる」

 湛の了解を取り付けた上で、パントリーに戻る。

 すでに前菜の用意を終えていた由春が、伊久磨が用意したボトルとグラスを見て大変嫌そうに顔をしかめた。


「水沢はアホなのか」

「おまかせだったから。俺のセレクトだけど」

「伊久磨はアホなのか」

 遠慮容赦なく言われて、伊久磨はきょとんとして由春を見返す。


「岩清水さんはシスコンなのか」

「は!? 何言ってんだよ。いやお前べつにそういうんじゃないけどそれはなんていうか」

 デザートを届けにホールに出ていた幸尚が、戻りしな歩きながらさくっと一言。

「ハルさんうっさいですよ。シスコン」

 流れ作業のように言い捨ててから、伊久磨のそばに歩み寄る。


「姐さん綺麗でしたねー。あの人普段あんな格好していても綺麗ですからねー。ところでそのワインはなんですか? なんか可愛い。こんなのあったんだ」

 手元を覗き込んで聞かれて、伊久磨は片手でボトルを持ち上げ、ピンクっぽいラベルを幸尚に見せた。


「フランシスコッポラ・ソフィア・ブラン・ド・ブラン。スパークリングワインで飲みやすいし、肉にも魚にも合うかなと」

「ハルさんは何が嫌なんですか?」

 ずけずけと続けて聞かれて、伊久磨は由春を視界に入れないように背を向けて言った。

「映画界の巨匠、コッポラ監督が愛娘の結婚祝いに贈ったっていうカリフォルニアワインで、その手のお祝い向きというか。うちの店ではデート利用の若い層を想定して入れてみた」

「デート」

 へぇ~、と感心している幸尚を置いて、伊久磨はさっさとホールに向かう。


 ……別にたいした意味はなかったのだ。ただ、店の宣伝用サイトに載せたいくらいに綺麗なカップルを見ていたら、テーブルにはこんなワインが良いのではないかと。


 二人が気付くかどうかは知らないし、説明する気もなかったが、後はどうにでもと思いながら伊久磨はワインを注ぎ、料理を運んだ。

 名乗り合ったかどうかは定かではなかったが、二人はごく楽し気に飲んで食べていた。


「普段はそんなに遠いところでお一人で? 危なくないんですか」

 料理も終盤に差し掛かった頃、そんな会話が耳に入った。

 工房の話をしているのだろうか。

(湛さん、相手が和嘉那さんだって気付いているのかな)

 なんとなく、伊久磨からは差し出がましいような気がして言っていない。会話に加わらずとも二人が楽しそうであったせいもある。周りの席はすでに客もひけているし、そのうち由春が挨拶に出てきたら色々とわかるかもしれない。もっとも、肝心の由春はといえば妙に忙しそうにしていて、全然出て来そうにない雰囲気なのだが。


「そうだね~~。危ないか危なくないかでいえば、危ない面もあるのかなぁ。鹿とか熊とかいるし」

 かなり危ない話をしている。それは伊久磨でも心配になる。

「番犬とか。それでなくても、ペットのような……」

 言いにくそうに湛が提案していた。番犬は熊には勝てないだろうけど、怪しい相手に吠えるくらいはしてくれそうだ。というか本当に一人で大丈夫なんだろうか。


「ペットはいくつかあるのよ。前に彫刻しようと思って岩を持ち込んでみたんだけど、抱いて寝るとひんやりして気持ちいいのよね」

 なんだか和嘉那さんはいろんな意味で心配になる。

「岩を抱いて寝るんですか」

「木彫りしようと思って丸太持ち帰ったこともあるんだけど、あれはちょっとあったかいかな~。冬は断然木材だなって思ってる。たまに虫出て来るんだけどね」

 本当に心配になる。どういう生活をしているんだろう。


 それでも二人は和やかに会話をしていて、チラチラと様子を遠目に見ながら由春はいまだに嫌そうな顔をしていた。

「大人の男女が一緒に食事しているだけですぐにでも結婚するなんて妄想する方が気持ち悪いですよー」

 慰めるふりした幸尚に何度もトドメを刺されながら、由春は「水沢を義兄さんと呼ぶのは無理だぞ」と首を振っている。


 最後は幸尚の用意したデザートプレートがあったが、伊久磨は湛の差し入れ内容を確認して、由春にも了解をとって割り込ませることにした。


 息が止まるほどに、綺麗な紫陽花。


 一目でわかる。水沢湛の菓子。

 朝に「和かな」の皿を見て、作りたくなったに違いない。「花紺青」の濃いコバルトを基調に花びらは柔らかな色合いへとグラデーションしており、水滴を浮かべた瑞々しい葉が添えられていた。

 一人二つということなのか、手土産には紫陽花が三つ。他に、「流水」という、流れる水に花びらが落ちて浮かんだ水面みなもを表した菓子が三つ。どちらにしようかは悩んだが、やはり紫陽花の透明感と品のある佇まいを和嘉那には見て欲しかった。


「『紫陽花』です」

 伊久磨が、「和かな」の硝子の器に乗せて和嘉那に差し出す。

 さすがに予想していなかったに違いない、湛が目を瞠った。


 その視線の先で、和嘉那は両手を器に添えて、目の高さまで持ち上げた。


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