第17話 行雲流水
夜の風をまとって、朝見た姿にジャケットを加えた装いをした湛が姿を見せた。
一人だ、と伊久磨は胸騒ぎを覚えつつ歩み寄る。
「いらっしゃいませ」
「悪い。待たせたね」
笑っているけど、落ち込んでいる顔をしていた。
いつも自信満々で、どんな影も見せない湛だけに、そんな表情を見せられると胸が痛い。
「全然大丈夫ですよ。ゆっくりなさってください」
「いや。これだけ置きにきた」
踵を返そうとした伊久磨を呼び止めて、湛は椿屋の紙袋を差し出してくる。
差し入れ。おそらく、湛の手製菓子。
いつもなら素直に受け取るところだが、この時は嫌な予感が強くて手が出なかった。
(置きに来たって)
帰るつもりだ。
「待ち人来なかったんですね」
「そう。前の滞在場所で……」
何か言いかけて、湛は瞼を伏せて盛大な溜息をついた。大仰すぎる所作。
目を見開いたときには、いつもの澄んだ瞳をしていた。
「いいひとが出来てしまって、予定を変更して遊んでいるらしい」
「急病や事故じゃなくて良かったですね」
秒も挟まず返事をした伊久磨に対し、湛は唇の端を吊り上げて笑う。
「料理人も和菓子職人も、やけに結婚早くてバツイチとか、遊び続けて一生独身とか、よくある話なんだけどね。仕事は尊敬できる人なんだけど、遊ぶときは遊ぶひとで……。もうお年だし、今さら若造からほどほどになんて言う気はないけど。お元気そうで何よりといったところだよ。携帯の充電切らして、なんとか椿屋に連絡入れてくれたのがついさっきで。予約の件は迷惑をかけてしまったけど、今度改めて埋め合わせはする」
(あ、だめだ。たぶんあの紙袋に食事代入っている。キャンセル料の話もさせないで支払ってしまう気だ)
湛の性格上、埋め合わせはするだろうが、今日は今日できっちり清算していく。
「今から別のお客様というのも難しいですし。食事はしていってください。お相手が必要でしたら、ご相伴に預かりますから。うちのメンツで代わる代わる」
「とんだ罰ゲームだ」
まさしく冷笑と呼ぶにふさわしい冷ややかさで一笑に付される。
忙しいのは忙しいので、つきっきりというわけにはいかないが、せっかく来てくれた湛を食事もしないで帰すのは忍びない。どうしたものか、と考えたそのとき。
「キャンセル? 席空くの?」
エントランスに並べた「和かな」の食器を眺めていた和嘉那が振り返って、のほほんとした声で尋ねてきた。
茶色っぽい猫っ毛が卵のようにすべすべとした頬に零れて、年齢不詳の童顔に得も言われぬ華を添えている。
「はい。あ、いいえ」
やっぱり見慣れないな、と思いながら伊久磨はどちらつかずの返事をしてしまった。
ちらりと見た湛が、伊久磨に顔を向けて純黒の瞳で問いかけてきた。
「……席待ちの?」
「ええと、まあ」
自分でも呆れるほどに、二人に対して中途半端な返事をしてしまう。
一方で湛は全然迷いがなかった。清々しいほどに。
「食事の相手が急用で都合がつかなくなってしまって。もしお待ちでしたらどうぞ」
店員である伊久磨よりも堂々と言い切って、にこりと笑っている。そのまま予約席まで案内してしまいそうな勢いだ。
和嘉那はきょとんとして湛を見つめて口を開いた。
「あなたは? ごはんまだ? 今帰ろうとしていませんでした? 今日ここで食事の予定だったんじゃないですか。帰ってどうするんですか? 餃子食べるの?」
餃子を食べたいのは和嘉那さんですよね、と思いつつ伊久磨はなぜか割って入ることができない。
(おかしい。この二人、笑っているのになんだかすごい緊張感ある)
「まあ何かしら適当に。一食くらい抜いても問題ないですし」
「食べて行けばいいのに。レストランに来て、席もあるし料理もあるのに食べないで帰るなんて」
あ、わかりづらい、と伊久磨はそこでようやく思い当たる。
表情や声が一見のんびりとしているからよくわからないが、和嘉那はうっすら怒っている。
湛の心中はわからないが「怒られている」ことは察しているようだ。笑顔が凍てついている。
(なんだ……? なんでこの人たちいきなり喧嘩始めたんだ?)
高まる緊張感に冷や汗が浮かびそうな伊久磨だったが、これ以上持ち場も離れていられないという現実的な判断により、一石を投じることにした。
「お二人でどうぞ。どうしても嫌ならテーブルの真ん中に衝立用意しますから」
「伊久磨。なんでいま名案みたいに言ったのかな」
「二人席が一つ空いていて、食事がまだの二人のお客様がいるわけです。本来は相席をお勧めすることはありませんけど、湛さんさえ良ければ」
ちらりと和嘉那に目を向けると「私は構わないわよ」とすかさず返答される。そんな気はしていた。
果たして。
見知らぬ美女に煽られた湛はここでどう出るのか。
息を詰めて待つ伊久磨に対し、「わかった。そうしよう」と湛は軽やかに応じる。
(よしっ)
心の中だけで力強く歓声を上げた。
実際、キャンセルになってしまっても、食材はどうにかこうにか明日のランチやまかないに回して無駄にすることはないだろう。ラストオーダーの時間から二時間はかかるコース料理が一席始まるのも、体力的な問題を考えればそんなに嬉しい話ではない。しかも湛はキャンセル料として全額払うつもりでいた。
店の利益だけを考えれば、何が何でも引き留める理由はなかった。
それでも、今日このまま帰っては欲しくなかった。もてなすつもりの相手に振り回されて、他にも迷惑をかけたと落ち込んだ湛を空腹のまま椿屋に帰してしまったりしたら、二次被害が恐ろしい。気が強いくせに繊細なところのある椿香織が、ウェディング羊羹を完成させることなく討ち死にしてしまう。
「お席にご案内します」
和嘉那さんありがとう、と素直に感謝の気持ちを込めて二人をホールの奥まった席へと先導して通す。
その時はまだ、深く考えていなかったのだ。
何しろ、お客様はその二人以外にもいたし、仕事は立て込んでいたし、考えることは他にもたくさんあったので。
なんとなく本人を避けている節があった湛と、陶芸家である和嘉那をはからずも引き合わせて同じテーブルにつかせることに、どんな意味があるのかなど。
まったく、考えていなかったのだ。
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