第16話 水鏡乃人

「はい。わかりました。こちらは大丈夫ですから、ご心配なく。お待ちしています。お気をつけてお越し下さい」


 電話が切れたのを確認してから、店の電話を転送している携帯を耳から離す。

 営業中悪い、と湛から店に電話が入ったのは、夜の営業がすでに始まっていた17時過ぎ。

 湛の客が、予定の新幹線に乗っていなかったようだ、という。駅まで迎えに出ていたが、「18時の予約には遅れそうだ。相手の携帯に連絡がつかないので状況がわからない。『海の星』には必ず行くけど、到着時間がよめない」とのことで丁寧に謝罪された。


(乗り逃して一本後に乗ってくるなら良いけど)

 不測の事態で前の場所に足止めを食っているなどの場合、予約はキャンセルも有り得るだろうか。

 平静を装っていた湛だが、声がいつもより暗かった。


 相手の心配はもちろんのこと、おそらく予約のことも気にかかっているに違いない。

 特別メニューで、仕入れから違う料理なので、席がキャンセルになって、タイミングよく新規を受け入れることができても、流用はしにくい。

 さらに、今日はすでに満席なので、この後到着時間の変更やキャンセル対応など、細かい電話でのやりとりは店の人員的に負担になる。

 その辺、特によく気付く細やかさがある湛だけに、自分都合で迷惑をかけるのも気が重いのだろう。

 伊久磨としては、今さら一回や二回のキャンセル気にしないで欲しいと言いたいし、由春に伝えてもキャンセル料を頂くわけにはいかないと言うのは、目に見えている。


 湛が店員との顔見知りだから、という以前に、「水沢湛様」は「海の星」にとって特別なお客様だ。


 予約のたびに特別メニューをオーダーし、しかも必ず店のファンになるような相手を連れてきてくれる。本人同席ではなくとも、湛の紹介は店にとってありがたい相手ばかりだ。

 来店時には必ず「皆さんで」と菓子折を差し入れてくるし、支払いは相手に気付かれないタイミングでさりげなく、「釣りはいいよ」という気前の良さである。

 レストランの使い方をよく心得ており、あまりにスマートで伊久磨など駆け出しの頃は教わることが多かった。


「お忍び偵察でもない限り、同業者の店に行くなら挨拶くらいした方が良い。その方が知り合いも増える。名刺も欠かさないように」


 確かに、由春とは話題の店に行くこともあったが、知り合いの伝手つてで予約を入れたときは由春が手土産を用意していた。特に知り合いではない場合も、これはというときにはシェフや料理長と話をするようにしているようだった。伊久磨にはもともと縁のなかった業界だけに「シェフを呼んでくれ」を実際にするのがもう、新鮮であった。

 それは「海の星」が名前を出しても恥ずかしくない店だから出来ることのような気もするが。


 とにかく個人的な好悪は別に、客としての「水沢様」には大恩がある。予約があると緊張はするが、認めてもらえたような気がして、来店を心待ちにしてしまう。それだけに、心配ではある。店員としては待つしか出来ないのであるが。


 涼しいドアベルを響かせて、予約客が入って来る。出迎えの為に伊久磨は携帯電話をソムリエエプロンのポケットに入れるとエントランスに向かった。


          *


 今日は予約が前半に集中した為、19時を回る頃にはどのテーブルも終盤で、慌ただしさに一段落がついていた。

 湛はまだ姿を現していない。ピークを迎える前に、伊久磨は個人的に「ラストオーダーの20時を過ぎるときに一度連絡してくれれば大丈夫です」とメールをしていた。後は湛の判断に委ねるだけ。

 そう割り切ろうとはしていたが、どうしても入口が気になってしまい、何度も見てしまっている。

 仕事に手を抜いているつもりはないが、いけないなと思った矢先。


 ドアベルが鳴り、弾かれたように反射的に駆け寄ってしまった。


「いらっしゃいませ」


 声をかけつつ、予想外の相手に目を瞠る。

 空色のワンピースにレースのガウンを羽織り、耳には揺れるパール、ほっそりした首元には控えめなリボン型のネックレス。弟と同じ天然で茶色っぽい猫っ毛はアップにまとめ、後れ毛を幾筋か垂らした美女。

 どう見ても、美女。


「和嘉那さん……!?」


 名前を呼べたのはほとんど奇跡に近い。それだけ、伊久磨が今まで目にしたことがある装いとは開きがありすぎる。

 これまで、工房で顔を合わせたときには、身につけていたのは作業着だし、頬に泥をつけていることも珍しくなかったのだ。接客業の緊張感がなければ同一人物と気づかなかったに違いない。プライベートの伊久磨は女性の顔をきちんと見ることなどないので、知り合いとすれ違ってさえ気付かない方が多い。


「伊久磨くん」

 目が合うと、パッと花咲くように笑って近づいてくる。

「あのさ、特別コースのお客様、まだメイン終わってない?」

 何の話だ? と思ってから、湛の予約のことと気づく。メインどころか、まだ来てもいない。


「まだですけど。どうなさいましたか」

「あのね、由春から聞いていたんだけど、私のお皿がすごく好きで、よく買ってくれているお客様なんだってね。それで、お料理用のお皿いくつか作ったんだけど、ラストのデザートに黒豆茶を合わせるって聞いたから、湯呑も作っていたの。昨日入れそびれちゃって」

 話しながら、無地の紙袋を差し出してくる。


「まさか……その為に山を下りて来たんですか?」

 紙袋を受け取りつつ、思った通りのことを素直に口にしてしまった。

 和嘉那はふわあっと笑みを広げた。

「そうだよー。山姥やまんば人里に出て来ちゃったよー」

「いや、山姥なんてとんでもない。鶴の恩返しの鶴とか雪女みたいにお綺麗ですよ」

 女性の美人の形容としてな咄嗟に適当なものが出てこなかったが、和嘉那はニコニコと笑ったまま。

「汚い格好で来たら悪いからね。みんな真面目に働いているし、お客様だって食事を楽しんでいるんだから。急いできたから髪とかあんまり見ないで欲しいんだけど」

 後れ毛を気にしたように摘み上げ、のんびりと言う。


 客に惚れるとか、由春似の人間に恋に落ちるなど毛一筋も考えたことがない伊久磨でなければ、平静を保つのが辛いであろう人懐っこい笑顔であった。

 そこは伊久磨だけに、(この人こんなに美人だったんだな)と他人事として感心しつつ、ホールに気を配りながら、和嘉那に視線を戻した。


「わざわざありがとうございます。食事はまだですか」

「そうなんだよ〜。席空く?」

「すぐには無理ですけど、お待ち頂けますか。シェフにも伝えますから」

「無理しなくて良いよ! 私いま一番食べたいの餃子だし!」

 餃子……。

 由春なら皮から作るのも訳ないだろうが、時間はかかるかもと思いつつ、和嘉那にエントランスのソファを勧めてキッチンに向かった。


 そのとき、再び涼やかなドアベルの音が耳に届いた。

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