第12話 レストラン「海の星」です

 その日のランチに出すマンボウに包丁をあてていた由春が、顔を上げた。

 眼鏡の奥で、目を瞠っている。

 伊久磨は、「この間、途中で帰ったお客様」と付け足した。

 だが、言う前に伝わっていた。

 伊久磨が気にしていたように、由春も、ずっとずっと気にしていたのだ。


「予約か」

「この間は飛び込みが悪かったと、気を遣ってくれていると思う。たぶん、このお客様はこの時間しか来店できないんだ。受けていいですか」

 断りたくない。

 どうして来てくれる気になったのかわからないけど、絶対逃したくない。

 電話の保留時間を気にして早口で言う伊久磨に対し、由春もまた、まなざしを鋭くし、頷いてみせた。


「いつも通り、アレルギーと苦手食材だけ確認しておけ。変更が必要なら対応する」

「ありがとうございますっ」

 由春が、受けると意思表示してくれたのが震えるほどに嬉しくて、伊久磨は思わず、思い切り頭を下げてから踵を返した。


 普通なら、こんなチャンスはない。

 もしかしたら、前回伊久磨が帰り掛けにぐずぐずと食い下がったせいで、もう一度だけと思ってくれた可能性はある。それを、即座に手柄と誇る気持ちにはなれない。

 伊久磨にとって気になる客であったとしても、由春はもう顔を合わせたくない相手かもしれない。

 切れてしまった縁を、オーナーシェフの意向を無視して、ただの接客係が無理やり繋いでしまって果たして本当に良かったのか。

 迷い、戸惑いはある。

 そこまでして、「良いお客様」ではなかったら。「出入り禁止」という言葉があるように、店にとっては決して良くないお客様もまた、存在するのだ。そういった意味で、店員が客に誠実さを期待しすぎてもいけない。わかっている。わかってはいるが。


 レストランに来てくれたひとに、美味しい料理と、楽しい時間を味わって帰ってもらう。

 おっかなびっくりこの道に踏み出したときから、大切にしてきた信念。初心。

 精一杯の感謝ともてなしを。


 歩きながら携帯電話を耳にあて、保留を解除する。

「お待たせしました。お席の確認がとれました。お名前とご連絡先をお伺いします」

 受付カウンターに置いてあるパソコンの予約スケジュールを見ながら、名前と電話番号を復唱し、打ち込んだ。


          *


 ランチの客がひきはじめた頃、その客は店を訪れた。

 直前まで、女性四人組の席でその日のデザートの説明をしていた伊久磨は、席から離れた瞬間、虫の知らせのようにハッと気づいてエントランスへと顔を向ける。

 思った通りの人物を見とめて、緊張と喜びが一度に沸き起こる。同時に、胃が絞られるような感覚もあった。


「いらっしゃいませ。お待ちしておりました、北川さま」

 足早に向かって、予約名で呼びかける。

 あの日、心残りのまま見送った男性客が、今日も困ったような曖昧な笑みを浮かべて「どうも」と答えた。

 それを見て、伊久磨はひそかに反省した。

 気持ちが、臨戦態勢になっていた。来てくれたことに対する感謝よりも「今日は間違えない」という決意や焦りが前面に出てしまった気がする。

(これは俺のリベンジの舞台じゃない。お客様が楽しく食事をする場だ。はき違えるな)


「コートをお預かりします」

 すでに脱いで手にしていたコートを預り、クロークのハンガーにかけてすぐに戻る。

「お席にご案内します」

 丁重に声をかけると、男性客、北川が小さく笑って見上げてきた。

「この間も思ったんだけど、君はずいぶん背が高いね」

「よく言われます」

 よく言われるわりに、上手くて面白い返しはいまだに思いつかない。由春や幸尚相手だったら「1ミリ千円で売るぞ」と言って「背が高い奴はこれだから」と思い切り悔しがらせるところだが。


「今日は近くでお仕事の帰りですか」

 前回のことに触れて良いかどうか悩みながら話をふると「そうだね」との返事があったところで、席についた。椅子を軽くひいてから、座るのを待って確認する。

「コースはお電話でうかがっていますので、始めさせていただきます」

 余計なことは言わない。絶対に言わない。

 そう心に決めていたのに。

 どうしても言いたかった一言が、口をついて出てしまった。


「本日はご来店頂き、誠にありがとうございました」


 座った位置から、微笑みを浮かべた北川が、堪えきれなかったように噴き出して言う。

「最後の挨拶みたいになってる。まだ料理食べてないよ」

 そうだな、と思いつつも、言ってしまったものは仕方ない。


「すみません。お越しいただけると思っていなかったので、本当に嬉しくて。ご丁寧にご予約まで頂いて、お気遣いありがとうございました」

「いやいや。繁盛しているみたいだからね。ラストオーダー前に締め切ることもありそうだから。この間店の前を通ったら、ずいぶん早くに看板を下げていたみたいだし」

 結構、この辺に馴染みのある人なんだな、と伊久磨は記憶に刻む。

 それなら、オープン以来何かと見かけていて、ずっと気にしていて、あの日ついに来てくれたのかもしれない。

 本当に、力及ばず、申し訳ないことをしてしまった。


「今日はご予約頂いた分、きちんと確保してありますから。お腹空いてらっしゃいますよね。すぐにご用意します」

 軽く頭を下げてからキッチンへ向かうと、水とおしぼりをのせたお盆を持った由春が入口で待機していた。

 一瞬、席まで行くのかと思ったが無言で突き出される。

(そうだな。顔を合わせるとしても、料理の後がいい。ここはまず俺がつなぐべきだ)

「ありがとうございます」

 受け取って、背を向けると、由春もさっと風を切ってキッチンに戻った気配がある。最初の料理を。


 離れた席に、幸尚がデザートプレートを運んで説明している姿が見えた。

 伊久磨の手が回らないというほどの状態ではない。

 それなのに、キッチンの二人がものすごく援護してくれているのを肌で感じる。

 素直に感謝しても、幸尚は「どんなお客様か見ておきたかっただけなんで」と言いそうだし、由春に至っては「俺の店だが?」と何も受け付け無さそうだが。


 とにかく、今日は全員集中力が続いている。大丈夫。最後まで、きちんと。

 伊久磨の思いはキッチンの二人が受け止めている。その二人の思いを受け取って、席まで届けることが伊久磨の仕事。

 今日という日をこの店で過ごして良かったと思ってもらえるように、出来る限りのことをしよう。

 最後まで、気を抜かずに。

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