第10話 不完全な夜の先に

「この後デートなんで、お先しまーす!!」

 特に明らかにする必要のない情報を開示しつつ、幸尚が一人先に上がっていった。


 片付いたキッチンに残されたのは、伊久磨と由春の二人。

 グラスをトーションで拭きながら、伊久磨は「鍵かけますけど」と由春に声をかけた。少し残るので、先にどうぞ、の意味。

 コックコートの前をはだけさせて、ターコイズブルーのTシャツをわずかにのぞかせていた由春は「んー」と生返事をしながら、磨き終えた包丁を片づけている。

 会話。

 無い。


 昼間、幸尚の作ったスイーツを差し出し「うまいんじゃないか」程度の会話はした。それだけだ。

 夜の営業の間は、普通だった。本当に、ごく普通だった。


 開店前に予約客と献立の最終確認。アレルギーやNG食材を見直す。リピーターの場合は、料理内容が前回とかぶらないように。ただし、希望の皿があれば入れる。

 席数が少ないからこそ、きめ細やかな対応を。オープン以来、来店してくれたお客様と交わした会話、料理の好みやNG、どういった席での利用だったか。結婚記念日や誕生日など。同じ客でも一年見ていれば連れ立ってくる相手が変わることもある。「望月さま、以前のお連れ様は甲殻類アレルギーがあったけど、今回の女性はなかったから、予約のときに今後気を付けた方が良さそう」など、気付いたことはすべてデータ入力をするし、口頭でも情報の共有をする。


(今日は……特に話し合うほどのことは)

 夜の営業を思い出し、流れで昼を思い出して、途端に胃がキリリと痛む。

 話し合うことはある。どちらかというと、謝らなければならないこと。

 できれば由春が帰る前に。

 闇雲に、グラスを磨きながら、切り出すタイミングを窺おうとした、そのとき。


「今日、織田さんから何か聞かれていただろ」

 由春が先に口を開いた。

 なんの話だっけ、と一瞬考えてから、伊久磨はそのときまで忘れていたことに初めて思い至る。夫婦で食事に来ていた常連客から、問い合わせを受けていた。


「ああ、そうだ。今度接待で使いたいって。人数が多ければ貸し切りにもできるとは伝えたんだけど、奥の部屋は個室に使えるかどうか聞かれた」

「撞球室か」

 由春が知人から借り受けているこの建物には、元の持ち主の痕跡がそこかしこに残されている。

 現在ホールとして使っている広間の隣には、紫壇でライオン脚の古めかしいビリヤード台が置いてあった。明治時代のアンティークということで、貸し切りの団体客に開放したら喜ばれたこともあるが、普段は特に使い道がない。


「確かに、店がもう少し軌道にのって、スタッフを増やせば個室ありは強みになるが。現状、伊久磨を個室にとられると、ホールに目が届かなくなるからな……」

「個室となれば、最低四人ないし六人以上の利用が前提になるだろ。だとすれば、個室の専属が必要になるけど、経験者ならともかく入ったばかりのスタッフに任せるわけにもいかない。接待の席となれば料理を出す順番やワインの注ぎ方まで気を付けることはたくさんあるし、ミスがあったときに隠されても困る。そういう意味では俺が入れればいいんだけど、そうするとホール……」

 由春が示した内容を伊久磨が引き継いで、気がかりな点を数え上げていく。

 店舗貸し切りならば、料理の進行も一卓分テンポを掴んで進めていくだけだが、個室の他にテーブル客がいるとなれば、テーブルごとにコースの進行が違ってくるはず。由春はキッチン固定としても、幸尚が皿を運んだり下げたり、ホールに顔を出したタイミングで、ドリンクの追加オーダーなどを受けてうまくキッチンに戻れない時間帯があれば、総崩れしかねない。


「人を増やさないとな」

「そこからですね」

 考えるまでもなく、意見が一致してしまう。

 人を増やす為には売り上げを増やしていく必要があり、売り上げを増やす為には今よりテーブルの回転率を上げるか、客単価を上げるか。いずれにせよ、毎日目の前のことをこなしているだけでは駄目だ。攻めなければ。


「現状、ランチは満席完売が続いているし、夜の営業もこの人数にしては売上がある店じゃないかとは思うんだけど……。今より客数をとるとなれば負担が大きすぎるから、客単価ですね。ワインリストに、もうワンランク上の価格帯を入れても良いかもしれません」

 提案というほど強めではないが、伊久磨が意見を言うと、冷蔵庫から開栓済みの白ワインを取り出した由春が「そーだなー」と言いながら伊久磨の横まで歩いてきた。

「あっ」

 止める間もなく。

 磨き立てのグラス二つに、ワインを注がれてしまう。


「岩清水さん」

 咎める口調で名を呼んだが、「たまには店で出しているハウスワインの味を確かめておかないと」と嘯いて、悪びれなくグラスを手にして口を付ける。

 その上で、器用に左手でもう一つのグラスを持ち上げ、伊久磨に差し出してきた。

「ほら」

 飲め。


 いつも通りの、悪ガキみたいな笑みを見たら、怒るのも馬鹿馬鹿しくなってきた。

 伊久磨はトーションをステンレス台に置き、グラスを受け取った。

 素早く、由春は一口飲んだグラスを軽くぶつけてくる。

「そういう乾杯はやめてほしい。グラスが欠けたらどうするんだ。経費」

 小言が習い性になっていて、口が勝手に言う。自分はこんなに嫌味な性格だったのかとほとほと嫌気がさして、伊久磨はワインを煽った。


「伊久磨、ワインの勉強進んでいるのか」

 最初に注いだ分を飲み干して、グラスをステンレス台に置いた由春が、しずかな声で尋ねてきた。

 自分のグラスも置いて、瓶を持ち上げ、由春のグラスに注ぎながら伊久磨は頷く。

「実務経験の関係で、まだソムリエ試験は受けられないけど、勉強はしている」

「イタリアの州、北から言ってみろよ」

 そこはフランスじゃないのか、とは思ったが、口答えはしない。由春の料理に合わせるとすれば、イタリアワインが多くなるのは知っている。将来的には、国産で作り手と細かな打ち合わせをしていきたいとも思うが、それはまだ。

 少し先の、夢。

 伊久磨は、すっと呼吸を整えて頭の中の情報をさらった。


「ヴァッレ・ダオスタ、ピエモンテ、リグーリア、ロンバルディア」

 一息に言ってから、息継ぎ。


「トレンティ―ノ・アルト・アディジェ、ヴェネト、フリウリ・ヴェネツィア・ジューリア、エミリア・ロマーニャ」

 暗記した順番に、読み上げるように言っていたら、由春の人の悪そうな笑みに気付いてしまった。一瞬止まったところで「そこで地中海に飛んで」と言われる。

 地図を思い浮かべて、伊久磨は息を吐き出した。

「シチリアとサルデーニャ」

 なんとか。

 注文には答えた。

 由春は破顔して、声を上げて笑う。

 何か笑うところがあったかと軽く睨みつけると、笑いをおさめた由春がグラスを置いた。二杯目も、空になっている。由春が手を伸ばした先にあった瓶を取り上げて注ぎながら「それで」と伊久磨は吹っ掛けた。


「いや。ワインリストの価格帯を上げると言うからには、売り切る自信があるのかと。頼もしい限りだ」

 さらりと言われて、返答を考える間伊久磨はゆっくりと自分のグラスを傾けた。

(頼もしいとか)

 そういうの、簡単に。

 簡単に嬉しくなってしまうから、本当にやめてほしい。


「昼間。怒り過ぎた。悪かったとは思っているんです」

 ようやく喉につかえていた言葉が出て来た。

「ん。あれは俺が悪かった。伊久磨は間違えてない。正しいことを言っていた」

「正しくても言い方は悪かった。もっとうまい言い方があったんじゃないかと」

「同じだよ。どんな言い方でも、伝わらないよりは伝わった方が良い。俺はお前にそういう器用さは別に求めてねーし。それに、嫌ぁな思い出になった方がな、次は気を付けるから」

 嫌ぁな、に妙に力がこもっていて(ああ、根に持っている)と伊久磨は思いつつも、小さく噴き出してしまった。

 由春は、グラスをステンレス台に置いて、「さて」と張りのある声で言った。


「腹減ってねぇ? 何食う?」

「今から? 今から作るのか? 岩清水さんが?」

「お前が作ってもいいけど、俺に食わせる覚悟はあるのか?」

 なんだその脅しは、と思いつつも小言係としての本領発揮とばかりに伊久磨は言い募った。


「今から作って食べて片づけて、余計な食材と経費と手間をかけるな!! 勤務中に疲れで集中力きれないように、さっさと帰って寝ろ!!」

「じゃあ下処理した舌平目があるからムニエルにするわ」

「ふざけんな!!」

「明日食べるより、いま食べたほうが絶対にうまい!!」

 譲るはずのないオーナーシェフに、伊久磨は早々に諦めてグラスを手にする。


 料理馬鹿。

 何の話していたんだっけ、という追想は断ち切って、グラスを傾けた。

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