第9話 ピンク髪が言うには
泣くほど怒るつもりなんてなかったのに。(自分が)
怒り過ぎた自覚はある。
由春が、叩かれても仕方のないことをした、という強い思い込みがあった。
(間違いを認められないのは俺自身だ)
常に正しくあってほしいという、理想の投影。
疲れが出たのではないか、と言われていたはずだ。伊久磨より、よほど客の方が冷静だった。由春を怒鳴りつける前に、そこを気遣うべきでなかったのか。仲間として。
プロの料理人として「完璧」ではない皿があっていいはずがない。
あの由春に限って。
接客で判断ミスなどするはずがない。由春に限って。
(信頼じゃないよな。信仰だ。妄信というか。こんなことであんなに怒っていたら、「そんな人だと思わなかった」って、SNSで著名人にクソリプ投げつけている奴とどう違うんだ)
とにかく頭を冷やさなければ。
熱くなりすぎた後の後悔で、視界が暗い。天気は良いはずなのに、ホール全体がくすんで見える。
綺麗なテーブルも、ところどころに配置された観葉植物も、古いアップライトのピアノも。この空間の居心地良さを保つために、どこもかしこも行き届いた掃除を心がけてきたはずなのに。
(……他人ばかり責めて。自分はどうなんだ。今日の俺は本当にきちんと接客出来ていたのか? 幸尚がレジに立ったときもあったし、シェフが皿を運んでいたこともあった。俺の働きが他に負担をかけて、料理のミスを引き起こしたと、何故考えなかった)
「ニナさん、どうしたんですか。ハルさんとなんか」
最後の客のテーブルを片付けようとして、ホールに出て来た伊久磨に、ピンク髪の少年が声をかけた。
パティシエの真田幸尚。その髪の印象通りの、パンキッシュな小動物。小さいというのは伊久磨の認識であって、実際には由春とそれほど変わらないのだが。
リスっぽいつぶらな瞳を見ながら、説明を試みようとはしたが、低く唸っただけで満足な言葉が出てこなかった。
「甘いものでも食べますか?」
結果、気遣われた。
「食べる……」
がっくりと肩を落としながら、伊久磨は即答する。
見越していたようで、幸尚の手には白のディナープレートがあった。
「夜のデザートの食材の余りで作りましたっ。サックサクのサブレを砕いて溶かしバターで固めて土台にして、チョコホイップとダークチェリーをのせただけなんですけど」
皿の上に、ミニケーキのように綺麗に飾られたスイーツ。
長い指でひとつ摘まみ上げて、伊久磨は一口で食べた。
サクッとした食感。紅茶の葉が練り込まれたサブレを使っているようだ。ふんわりと口に広がる香りとクリームの滑らかさに、ダークチェリーの甘酸っぱさがよく合っている。
「これだけで普通にデザートに使えると思う」
「そうですねー。ちょっと残り物のサブレを使ったんで今日はまかないですけど、そのうちハルさんの献立見ながら合わせていってもいいかなとは」
「うん。すごく美味しい」
心から。甘さが沁みてしまって、溜息をつくように本音が口をつく。本当に美味しい。
ついでに、疲れがどっと出た。まだ夜の営業を控えているというのに。
「ゆき、これ岩清水さんにも……」
もう一つ摘まみ上げてから、伊久磨は思い切ってそう言った。
褒められたー、とにこにこしていた幸尚であったが、伊久磨の申し出には「うーん」と少しだけ首を傾げて考え込む仕草をする。
「ニナさんに作ったんで」
「ん。でも美味しいから。メニューに入れるつもりなら味は確認してもらわないと」
仕事の一環として、どうしてもそういう方に頭がいってしまう。
幸尚は、すっと皿を伊久磨の手に押し付けるようにした。
「じゃあ、ニナさんが持って行きます?」
「俺……」
皿を受け取れずに、言葉に詰まる。
俺は今はいい、なのか。むしろ今は無理、なのか。けろっと由春に会いに行っていいものか。
悩みながら、ついに言ってしまった。
「ゆきが」
にこっと微笑まれる。
「長引かせられても嫌なんですけど。三人、野郎しかいない空間で二人が超きまずい空気なんて、夜の営業中オレはどうすればいいのっていうか。まあ、気まずいのは多分ニナさんだけで、ハルさんは見た目はいつも通りだと思いますけど。そういう人じゃないですか。メンタル超・合・金。本当のところはどうかわかんないですけどね」
昼の営業で何があったとしても、ポーカーフェイスで飄々と夜も仕事をこなす由春は、想像に難くない。由春が普通だから、自分も普通でいなければと持ち直していくのもわかる。
(結局、受け止めさせて、吐き出すだけ吐き出して自分は立ち直って。あの人が何を考えているかは全然聞かないで)
オーナーと従業員の立場の違いを思えば、「そこまで」を、店を率いる者の責任として、由春が負っている気がする。
その由春は、自分自身をどうケアするのか。
「俺に気遣われて、嬉しいかなあの人。なんとなく、仕事は仕事っていうか。馴れ合わないし、弱みを見せたく無さそうだし、悩んだりしているのも知られたく」
近場のテーブルに皿を置いてから、ばしっと幸尚が伊久磨の背を叩いて無駄話を遮った。
「ごちゃごちゃうるさいんですよ、ニナさんは。自分はどうしたいんですか? ハルさんと馴れ合いたくなくて、弱みも見たくなくて、悩みも打ち明けられたくないんですか!? へー!!」
なんだかものすごく煽られている。
伊久磨は唾をのみ込んでから、ピンク色の生き物を見下ろして言った。
「俺がどうしたいかじゃなくて、岩清水さんがどうしたいかを汲むのが俺の仕事で」
「うるせーーーー!!」
ばしばしっと再び叩かれる。容赦なく、痛い。
「オレはねっ。ハルさんと馴れ合いたいし、弱み見せられて『頼む』って言われたいし、『いまこういうことで悩んでいる』って言われたいですよーー!! めっちゃ言われたいですよーー!! だけど、これでも一応キッチンに立つ者としてライバルだから、そういう風に見てもらえるのってかなりだいぶ先だと思っているんですけどねっ。ニナさんは!! 立場が違うからこそ、対等になれる面もあるんですよっ!! ホール任せているわけだし、ハルさんが見ていないものを見ているわけだし、そういうのハルさん絶対話し合いたいって思ってますから!! こんなこと、こんなちびっこのオレに言われてないで自分でわかってくださいよ、ほんっとばか!! 面倒くさい!! 手間かかりすぎて嫌だーー!!」
ばしばしばしばしっと勢いに任せて叩かれ続ける。
言われている内容もだいぶ痛々しいと思うのだが、何しろ物理で痛い。
「俺が悪かった……。もうやめてくれ」
心の底から、謝罪した。
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