第8話 心が叫んでいる

「岩清水さん」

 男性客を見送り、伊久磨は店内へと取って返すと、キッチンに飛び込んだ。


 キッチンを担当しているのは由春と、パティシエの幸尚。

 二人とも手際よく料理の合間に洗い物も片づけていくので、ステンレス台の上は既に整然としている。

 すでにどちらの姿も見えなかったため、伊久磨は隣接している事務室件休憩室に足を向けた。


 黒の皮張りのソファに、ごつい腕時計のはまった手を光避けのように両目の上に置き、ターコイズブルーのTシャツ姿でだらっと寝そべった由春がいた。

 伊久磨は、抑えようもなく怒気が滲んだ声で言った。

「岩清水さん。今日はちょっと変だったと思います。あの態度はない。あれはなんですか」

「……うるさい」

 休憩中だ、というくぐもった声を聞いて、伊久磨は迷わずソファを蹴り上げた。


「聞けよオーナーシェフ。お代は結構だなんて逆切れしやがって。そんな短絡的な馬鹿だとは知らなかった。他のお客様がいたらいっぺんに信用なくすぞあれ。ふざけんなよ」

 およそ、オーナーに対する従業員の態度ではない。

 ついでに、激昂することが稀な伊久磨だけに、これほど暴力的な行為に出たこともこれまではなかった。

 さすがに衝撃が伝わった由春は、のっそりと身体を起こす。

 ガラスのローテーブルに手を伸ばし、眼鏡を探り当てると、あくびをしながら眼鏡をかけた。


「何だよ」

「最低だって言っているんだ。なんでコンプレになったかきちんと確認したか? あのお客様はクレーマーじゃない。絶対に岩清水さんの料理に問題があった。そんなことも認められないほど器が極小だとは思わなかったっ。批判に弱すぎだろ。豆腐メンタルかよ。自分の城に、自分を認めない客がいるのが許せないから追い出したんだ。どこぞの、単なるわがままを頑固と勘違いしたこだわり店主かよ!? 言い返せるなら言い返してみろ、最ッ低だったからなっ!!」

 息が。

 上がった。

 人生で初めて、こんなに力一杯人を罵った。

 止まらなかった。


 短絡的な馬鹿。器が極小。わがまま。少ない語彙をかき集めて、責め詰った。

 許せなかった。

(裏切られたって、心が叫んでいる)

 信じて憧れた背中。魔法みたいに料理を作り出す手。嘘みたいに広汎な知識。ぶれない強さ。お客様に美味しい料理を提供するという信念。

 当の由春自身が、汚した。

 心の中で暴れ狂う悲しみと怒りが、どうしても本人に向かってしまう。

 あんなのは岩清水由春じゃない。認められない。


「伊久磨……」

 何か言いかけて、由春は口をつぐんだ。

 やがて、緩慢な仕草で立ちあがると、身長差から伊久磨の顔を下から覗き込んだ。

「お前、泣いてる?」

「泣いてない」

 嘘。

 感情が昂り過ぎて、目が熱くなっていた。涙が浮かんでいたかもしれない。慌てて顔を背ける。


「うん。そうだな……悪かった」

 ぽつりと言われて、伊久磨は瞑目する。

「俺に謝って欲しいわけじゃない」

 涙など流すものかと、内側にしまい込むつもりで瞼にぎゅっと力を入れてから目を開ける。


「岩清水さん、最初に言っていただろ。『お前の給料は俺からじゃない。お客様から出ている』って。本当に、その通りだと思う。今までは、もしかしたらきちんとわかっていなかった。岩清水さんの腕があって、店が繁盛して、売り上げから給料が出る。どこかで、そんな風に思っていた」

「それが?」

 小首を傾げて、口の端に笑みを浮かべて聞いて来る。眼鏡の奥の瞳にも、面白そうな光が閃いていた。


 普段、キッチンに立つときは一切服装に乱れのない由春であるが、首回りのよれたTシャツなどを着ている現在、威厳の損なわれ具合が凄まじい。伊久磨の背が、平均からすると大きすぎるのであるが、十センチも低い位置から朴訥とした顔で見上げられると、気勢が削がれることこの上ない。

 手の届かない、巨人のような存在感のくせに、人間に擬態するな。


「今日、はっきり理解しました。俺もゆきもこの店の一員として働いていて、ランチ一人分の売り上げだって、ダイレクトに給料に直結する。それなのに、いくらオーナーシェフだからといって、自分一人で仕事しているみたいな顔して『お代は受け取れません』なんて言わないで欲しい……」

 途中から恨み言になった……。


「そうだな。俺にはお前ら二人分の給料を稼ぐ責任があるから、ああいうのは良くないよな」

 律儀に耳を傾け、意見を受け入れて認めたようなことを言いながら。

 大あくびをしていた。

 猫かと。耳まで裂けるようなあくびをする、猫かと。


「良くないとわかっているなら、どうして」

「済んだ話だ、やってしまったことは仕方ない」

 首をぐるりとまわしながら、悪びれなく言われてしまう。

 その悪びれなさが、再び導火線に火をつけてしまう。


「時間は巻き戻せないからな。だけど、『そういう日もある』なんて言い出さないでくださいよ。たとえば、この店を出た後に、不慮の事故で命を落とす人だっているかもしれない。ここでの食事が最後になる人がいても、何も不思議じゃない」

「おい、不幸な例えはよせ。その事故は回避してくれ。死ぬな」

「仮定の話に焦られても」

 変な話の腰の折り方はやめてくれ、何を話そうとしたか忘れる、と伊久磨は嘆息して由春を見下ろす。


 たてがみのような髪。眼鏡を外すと実はそれなりに端正な容貌をしているのだが、本人はおそらく気付いていない。顔で売る必要があるとは思わないので、構わないが。


「レストランに来たお客様が、席に着いたのに、お腹を空かせたまま帰るなんて、あり得ない悪夢だ。今日みたいなことは二度としちゃいけない。姫鯛、ほとんど手つかずだったから、自分で何が原因か確かめてくれ。そしておおいに反省して欲しい。自分の出来の悪さを、『理解できない客が悪い』と責任転嫁は駄目だ。駄目なものは駄目だ」

 いけない。

 また感情が盛り上がってきて、声が上ずった。

「すぐに戻る。ここに持ってくるから」

 言い終えて、ホールへと向かう。


 由春には、普通の人間であって欲しくない気持ちが、強すぎる。

 聖人君子ではないのは知っているが、料理馬鹿だし、その点においては食材にもお客様にも誠実で、他の従業員の模範たるべき存在なのだ。

(信仰になりかけていたのかな。危ない)

 もっと冷静にならなければ。由春も間違えることがあると認めた上で、こんなに感情的にならずに、もっと徹底的に理論的に責めて追い詰めなければ。泣かせてもいい。

 完璧ではないからこそ、ミスも間違いも驕りも、自分たちで気付いてその都度反省していかなければ。


 テーブルの上に残されて、冷めきった皿を持って引き返す。途中でシルバーを一本持って皿に添え、ソファに座ってぼんやりしていた由春に差し出した。

 ざくりとフォークで切り分け、口に運んだ由春は、眼鏡の奥の瞳を細めて、すぐに呟いた。


「火入れだ。よくこんなもの出したな。……くそっ」

 

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