第7話 言葉が足りない

 オーナーシェフの岩清水由春は、ライオンのたてがみのように重力に逆らう髪に、無骨な銀縁眼鏡をかけた中肉中背の青年だ。

 料理の腕は確かで、常に自信が漲っているせいか、年齢の割に妙な貫禄がある。

 伊久磨一人でホールが回らないときは、「自分の店だから」と特にこだわりなくホールに出てきて接客をこなす器用さもある。修行時代には確実にその経験もあるだろうというくらい、客対応にそつがない。

 だから、この時も、伊久磨は内心で(助かった)と思ってしまっていた。


「シェフの岩清水です。拙い料理で申し訳ありませんでした」

 謝るのか、と軽く驚いて目を見開いてしまった。

 まずいなんて個人の感覚に、店として謝罪するものなのか?


 妙だな、と気付いたのは由春が傲然と顔を上げ、一向に頭を下げる気配がないと気付いたときだ。

 謝っているように見えない。

「いやいや、こ、この料理はひどいよ」

 男性客もまた、迫力に押されるように声を上ずらせてそれだけ言った。


(なんだこの感じ……。たぶんこのお客さん、クレーマーではない、ような……?)

 由春の傲岸不遜な態度に、弱気になっているようにも見える。


 岩清水さん、ちょっと待って。


 伊久磨は視線で訴えかけたが、由春には通じない。

 謙虚さのかけらも無い態度で「お代は頂けません。申し訳ありませんでした」と言って、ようやく頭を下げた。不遜なまなざしを隠そうとしているだけにも見えた。

 やがて顔を上げると、「失礼します」と踵を返す。すれ違いざまに、伊久磨が声をかけるより先に「蜷川」と一言だけ言って、キッチンへと戻ってしまった。

(後任せた、って意味だろうけど……!?)

 ザワッと総毛立つような、違和感。何か大きく間違えている気がしてならない。


「ごちそうさま」

 言外に。

 支払いはいいから出て行けと示されたのを正確に察して、男性客が席を立つ。


「まだデザートもありますが」

 間の抜けたことを言った自覚はあった。メインに手をつけていないのに。

 なんにせよ、まだお腹がすいているかと思ったのだ。食事をしに来て、途中で切り上げるなど、あんまりではないかと。

 男性客は、やや呆れ顔で「結構だよ」と言って、入口正面の飴色のカウンターに向かい、アンティークの小卓に手持ちのビジネスバッグを置いて、財布を出す。


「シェフが、本日は頂けないと」

 追いかけて、声をかける。

「馬鹿言っちゃいけない。食い逃げしにきたわけじゃない」

「ですが、まだお料理が途中ですし」

 一瞬、コース料理の皿ごとの単価を出し、食べた分だけ精算してもらおうか、と考えた。それなら客側の意志も由春の意向も同時に汲めるのでは? と。

 しかし、ほとんど手付かずの皿を思うと、お金を頂くこと自体があり得ないように思えてしまう。


「お客様、このままだとお昼抜きになりませんか……!?」

 焦ったせいで、思ったままのセリフが口をつく。

 男性客は、苦笑して言った。

「レストランに来たのにな」

 そうだ。ひどい。目的を果たせていない。

「やはり続きの食事を……」

「もういい」

 未練がましく引き留めようとして、断られた。

 無力感とともに、身体を折って頭を下げる。


「大変申し訳ありませんでした」

 料理だけじゃない。由春の言動が悪過ぎた。怒りなのか、失望なのか、頭がクラクラする。

(せめて見送りにくらい、出てくるべきでは? なんだあの態度。何様だよ……!?)


「どういう店か期待していたんだ。私が来たタイミングも悪かったかな。疲れが出始めた時間か」

 頭を上げて、その男性客の特に険のない顔を見て、伊久磨は悟らざるを得なかった。

(料理のミスだ。間違いない)

 少し冷静になって、きちんと話していればすぐわかったことなのに。


 カウンター裏のクロークに預かっていたキャメルのコートを取り出してきて、袖を通しやすいように背後から肩に軽くかけると「会計がまだ」と戸惑ったように言われた。


「料理にお詳しいのでしょうか」

 悩みながら伊久磨が口にしたのは、そんな問いかけ。

「それほどじゃない。食べたいときに食べたいものを食べるだけだ」

(食べたいときに「海の星」に来て、食べたいものじゃなかったか)

 とても苦い。

 力が及ばなかったことが。


 確かに、伊久磨は料理を作れない。少なくとも、この店において、その役目ではない。

 料理に関しては、由春を信用して全て任せるしかないのだ。

 一皿一皿、心を込めてきちん作っていると信じて、テーブルまで運んでいるのに。

(このまま帰して、それで終わりか?)

 予約客でない限り、連絡先はわからない。

 二度めの来店がなければ、このお客様とはここで終わり。

 由春も人間だ。何かしらのミスがあった。やってしまったことは取り返しがつかない。

 だけど。

 きちんと細部まで行き届いたシェフの料理を、味わって欲しかった。ものすごく悔しいような、悲しいような取り返しのつかない気持ち。こんな思いでせっかく来てくれた客を帰すわけにはいかない、と。

 それを言うのは今しかないと腹を決めたら、不思議と気持ちが落ち着いてきた。


「今日のお代は頂けませんが……、またご来店頂くことは可能でしょうか」


 伊久磨の介助でコートに袖を通しながら、男性客は小さく噴き出した。

「そこまで言う店員はなかなかいないね」

 小卓からバッグを持ち上げて、頬に笑みを残したまま言う。

 そりゃそうだ、と伊久磨も思う。変なことを言っている自覚はある。しかも、独断だ。由春がどう考えているかは、この後確かめねばならない。みっちりと。


「図々しいですし、諦めるべきだとはわかっているんですけど。他の店のスタッフがこういうとき何というのかは存じ上げないのですが、チャンスが欲しいです。私はこの仕事をする上で、『そういう日もあるさ』という言葉が好きではありません。店側は通常業務であっても、お客様には節目の食事かもしれません。わかりませんけど、一生に一回の記念になる日かもしれないのだから、満足しないで帰る方を見過ごすわけにはいかないと考えています」

 もっと、上手く話せるようになりたい。

 気持ちの伝え方がわからなくて、もどかしい。


(一期一会の仕事だとはわかっている。だけど、もう一度お会いしたい方には伝えなければ)


 自分でも正しいのかどうかわからぬままの申し出は。

 近くに来る機会があったら、という言葉を引き出して、ひとまず終わりとなった。

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