2 星を得る為の祈り
第6話 いつものお客様
その人は、決して急かさない。
このレストランが、きわめて少人数で営業を続けていることをよく知っている。
いつもランチのラストオーダーぎりぎりにすべりこんでくる。おそらく、本人なりの気遣い。いつも一人だから、オープン後すぐにテーブル一つ埋めてしまうのを避け、他の客に譲っているのだ。その上で、来店時に満席でどうしても空きがなければすぐにでも帰るつもり。そういう、「お客様」。
入店後、受付カウンター前で、ホール係の
目が合うと「大丈夫?」と口の動きだけで確認。
(オーダーストップ。仕込んだ分は出払っている)
大丈夫か大丈夫じゃないかと言えば、大丈夫ではない。他のお客様だったら、丁重にお断りするところだ。
だが、伊久磨はキッチンに立つオーナーシェフの
身長百九十センチ弱の伊久磨と並ぶと、大人と子どものようになってしまう、小柄な老人。白髪に眼鏡で、いつもきちんとスーツを着こなしている。
窓際の席に通して声をかけようとすると、「なんでもいいから」と慌てたような口調で先んじて言う。
いつもそう。話し始めると、途端に焦っているような、少し怒っているような忙しなさ。
伊久磨はつられないように、ゆっくりと穏やかに説明をする。
「看板を下げていたように、ランチは完売しているんですけど、いま岩清水が準備しています。魚でよろしいですか」
「うん。そうだね」
ほっとしたように頷かれ、伊久磨も笑みを深めた。
夜用の食材を出すので、ランチコースよりは少し値段を高めにつけることになるが、このお客様にとって重要なのは、そこではない。
だんだん客がひけていく昼下がり、レストラン「海の星」のその窓際の席で、ゆっくりとコース料理を食す。
適当に従業員と会話しつつ、かといって馴染みだからと変に馴れ合うこともなければ長居するでもなく食後はさっと引き揚げていく。
そういう時間を必要として、来店している。
少々はずれの時間なので休憩が削られるが、不満になど思っていられない。伊久磨は意識して気合を入れ直す。
今日も、「また次も来たい」と心に残る料理を。時間を。
(人生で食事できる回数は決まっている。「
大げさではなく、一生の思い出に残る時間を。開店からノーゲストの閉店まで、いつも。思いは一つ。
そのお客様との出会いは遡ること一年前。
まだ「海の星」がどことなく落ち着いていなかった時期のことだった。
*
「だめだ」
ガチャンとシルバーが叩き付けられた音。
(ランチのラストオーダーぎりぎりの入店のお客様)
引きが早い日で、ちょうどその男性客以外の客が席を立ち、ドアを出て行った直後のことだった。
伊久磨は黒のソムリエエプロンの裾をほんの少し翻しながら、席に近づく。
皺の目立つ手はテーブルの真っ白なクロスの上に投げ出されていて、ナイフもフォークも握ってはいない。
淡く発色する色釉が吹き付けられ、ダリアの描かれた白い角皿には、おまかせコース料理のメイン、姫鯛のポワレがほとんど手つかずで残されていた。
伊久磨の気配を感じたのだろう、銀縁眼鏡の老人が、ゆっくりと顔を向けてきた。
「まずいんだ」
(まずいとは)
オーナーシェフである由春が、料理に関しては手を抜くはずがない。満席となったその日、「ごめんね、お腹がいっぱいで」と申し訳なさそうに少し残した女性客はいたが、「まずくて」残した客はいなかった。
それどころか、この店に勤め始めて「まずい」と言われた経験がなかった。それだけに、反応し損なった。
(謝ること、なのか。それとも、個人の感想ですよねとつっぱねるところなのか。全然手を付けていないけど「お下げましょうか」は、あまりに嫌味ではないか)
思考に費やしたのはほんの二、三秒のつもりだが、少しばかり次の言葉が遅れた。
「いかがされましたか」
「まずい」
聞こえていました。質問が悪かった。
「焼き加減ですとか、何か気になるところがおありですか」
「全部だ。全部だね。お店で出す料理になっていない」
これは……難癖?
そこまでのスープとサラダはすでに完食。メインにケチをつけて、お金は払えないと出て行こうとしているのだろうか。
真っ先に客側を疑ってしまったのは、経験の少なさゆえだった。料理にここまで直截的なコンプレを受けたことがなかったので、シェフに非があるとは思い至らなかったのだ。
(一度皿を下げて、原因を探った方がいいのか? 他のお客様から何も言われていないとはいえ、料理は一皿一皿別物だ。これだけ失敗? それとも、譲歩しない方がいいのか? 作り直しなど申し出て、さらに食い下がられたらどうする?)
レストラン「海の星」は、オーナーシェフ岩清水由春を筆頭に、パティシエの
迷いすぎて、言葉が出て来なくなってしまった。
そのとき、ホールの会話を聞いていたのか、キッチンからコックコート姿の由春が姿を見せた。
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