第4話
料理は滞りなく進み、メインにあたる鍋のときに由春が手短に挨拶にきた。
若い料理人であることに、女性たちの目に驚きと羨望のようなものが浮かび、ホストの院長夫妻は何かと満足そうにしていた。
普段は配膳以外のことに手を出さない伊久磨であるが、この日は貸し切りということもあり、余興のビンゴには協力を申し出た。伊久磨が数字をひいて読み上げ、香織が書き留めるという補助をしたことで全員が盛り上がった。
残すはデザートのみとなった頃合いで。
酒量は多くはなかったはずだが、頬を赤らめ酔った様子で笑いながら院長が言った。
「しかし君は、他に何かやりたいことがなかったのかな」
俺? と伊久磨が質問の意図をとらえかねて目を向けたところで、院長は笑ったまま続けた。
「大卒だろ? 料理を運ぶ以外にやりたいことはなかったのか?」
(ああ、そういう)
どう答えようかな、と思ったところで院長婦人が「ちょっと」というように腕に手をかけていたが、気にした様子もない。
「この店も、岩清水くんあっての店だろ。彼はどこでもやっていけるだろうが、ホール係というのはバイトと変わらないからな。男の一生の仕事とはどうも思えない。いや、うちもね。私が病院を畳むと言えば、看護師、事務員、隣の調剤薬局の薬剤師をはじめとしたスタッフの雇用が浮く。それでも、国家資格があれば他の勤め先もあるだろうが……。君はどうなんだ? もし岩清水くんが店を閉めると決めたら、別の店で料理を運ぶのか? 何かキャリアになる資格でもあるのか?」
酔いがまわってしまったのかな、と思いつつ、おそらくこれが今のこの人の悩みなのだろうと考えた。
(一般企業なら退職していてもおかしくない年齢だからな……。病院を閉めたあとのスタッフの行先が気になって、病院を閉められないのか)
由春一人の才能に寄りかかって見える、このレストランの形態が他人事ではなく気にかかるのかもしれない。
「明確なキャリアの一つとしてはソムリエ資格がありますね。ただし受験資格に実務経験が五年必要なので、私はまだ受けられません。あとは、仕事の上では語学が役に立ちそうです。この店では頻繁ではありませんが、外国人のお客様に対応する際、アレルギーや宗教上のNG食材など、細かく聞き取る程度の知識は必要かと思います。その辺が問題なくできるのであれば」
接客業では経験ありとして再就職も困らないのではないだろうか。
そう続けるつもりであったが、大げさに手を振られて「そうじゃない」と話を遮られてしまった。
「他人にこびへつらって料理を運び、酒を注ぐ。それが一生の仕事かと聞いているんだ。君の御両親も、そんなことをさせるために大学まで出したわけじゃないだろう」
遅まきながら。
(俺は鈍いのか)
と。
大の男が取るに足らない仕事をしていて、それでいいのかと問われているらしい。
(ここまで見下されていたら、大昔の身分社会と変わらないんじゃないか。俺が何を答えても、このひとは納得しないんじゃないか……?)
そもそも、考える頭を持っているとすら思われていないのかもしない。
その程度、やり過ごすのは、なんでもない。接客業をしている以上、多かれ少なかれ、こういった擦り切れるような経験は重ねている。せめて今晩、ありがとうございましたと送り出すまでは、顔に出さないでいられるといいのだけれど。
「簡単そうに見えるかもしれませんが、いろいろ工夫のしがいのある仕事ですよ。毎日新しい発見と出会いがあって、こんなにも密度の濃い時間はもう送れないんじゃないかと感謝して生きています。両親にも胸を張ってそう説明することができたと思います。生きていたら」
言うつもりのなかった余計な一言を付け加えてしまったのは、やはりどこかで腹が立っていたらしかった。
(どうせなら、今日は亀の惨殺現場を初めて見たって話にしておけばよかったかな。でも、食べた後にそういう話をされても嫌だよな)
「最後の甘味をお持ちしますね」
奇妙に静まり返った間隙をついて、伊久磨は穏やかに微笑んでキッチンに引き返す。
ちょうど、香織と幸尚が皿に人数分盛り付けていて、由春が腕を組んでそれを眺めていた。
「さすが、綺麗だな」
ばたばたして実物をまだ見ていなかったが、普段は朝早くから工場に立っている香織が、おそらく注文分に関しては時間をみはからって作ってきてくれたのだろう。白い求肥がふっくらと柔らかそうだ。そう思ってから、首を傾げた。
「あれ、それ餅で作ってるのか」
「食べる時間が決まってたから、固くならないだろうし」
一見しただけで違いに気付いた伊久磨に驚くこともなく、香織が答える。
「いいな。俺の分ある?」
思わず言うと、顔を上げた香織に睨みつけられた。
一方、コック帽を脱いでいた由春には、いきなり胸元まで距離を詰められた。
「笑えてないぞ」
「なにが?」
「顔が」
「そうか。鏡の前で口角上げる練習でもしてくるか」
由春は口下手ではない。客の前に出ても常に堂々と渡り合うところがある。だが、怒っているときにはどうしても口数が少なくなる。
自分の仕事ぶりがまずかったのかな、と思ったところで、眼鏡の奥の瞳をきつく細められた。
「俺は、お前があんな風に言われるのは面白くない。さっきの会話は最初から最後まで全部嫌だ。何もわかりあってないし、誰も楽しくないし、お前はそんな顔して戻って来るし」
「聞いていたのか」
由春の料理を味わった後なのに、結局のところ、客は現実を忘れてこの時間を楽しんでいなかったし、従業員である伊久磨の上手くない会話で空中分解させてしまった。
失態に関しては誤魔化さずに報告するつもりではあったが、聞かれていたのなら話は早い。
どんなに多くのお客さんが「美味しかった、ありがとう」と言っていても。
たった一人からでも
由春の信条だ。
「俺が場を作るのに失敗したと……思う」
正直に言ったのに、由春に胸倉を掴まれた。
「それはそうだよ。なんだよお前の捨て台詞。お前の家族が全滅していることなんか、『お客様には関係ない』。だけどそれはそれとして、俺は自分の店のスタッフが馬鹿にされるのも、この仕事が見下されるのも嫌だ。誰でも出来る仕事だなんて、何をもってそんなことを言うんだ」
「俺の仕事ぶりだろ。誰でもできるように見えたんだ」
そこに唯一無二のものがなかったとすれば、由春の料理にはいかにも似合わない役立たずにも見えるだろう。
だから、そんなに悔しそうな顔はするなよ。
由春の手に手をかけて、胸元から外させようにすると、なおさら力を込めて睨みつけられた。
「甘味は、椿屋の『花びら餅』だ。行け」
言われなくてもタイミングを外さないで行く。
ぼんやり見返したところで、わかっていないと言わんばかりに由春に噛んで含めるように言われた。
「お前が何者なのか、って聞かれていたんだ。答えろ。この場合はそれを出しゃばりとは言わない。俺の料理だけじゃない、お前自身が客を掴め。それが常連を逃さないコツだ。行け、伊久磨」
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