第3話
夕方、シフトの十六時を過ぎても学生バイトが姿を現さず、嫌な予感がしたところでキッチンの壁に取り付けてある電話が鳴った。
凍った路面で自転車ごと転び、足を痛めたけどどうしましょう、と電話口で泣かれる。
「西條さん、一人暮らしだっけ。誰か頼れる相手いる? 病院まで行ける?」
大丈夫です、友だち呼びます、と申し訳なさそうに言われて「もし友達連絡つかなかったら、早めに教えて。歩けないなら迎えに行く。いずれにせよ、今日は無理しないで休んで」と電話を切った。
由春と幸尚からの視線を感じて、落ち込んでいるわけにもいかず、内容を伝える。
バイトは来ない、と。
「貸し切り十人とはいえ、一人じゃ無理だ。ゆきもホールに出ろ」
由春の判断は早い。
「今日は料理もいつもと勝手が違う。幸尚がキッチンにいる前提で組み立てているはずだ」
しかしここは譲れないとばかりに伊久磨も主張する。
「えーと……、決定に従います」
睨み合う二人を前に、幸尚は早々にハンズアップ。
膠着状態に陥っている場合ではないと、二人ともにさらに言い募ろうとしたその時。
「入るぞ。納品に来た」
勝手知ったる取引先とばかりに、裏口からほっそりとして背の高い男が木箱を抱えて現れた。
車で来たはずだが、駐車場が少し離れているせいか、明るい茶髪とキャメルのコートの肩に淡雪がのっている。
「かなり降って来た。明日までに積もりそうだな」
優男めいた甘い顔立ちに笑みを滲ませて、キッチンのステンレス台の上に木箱を置き、繊細そうな指をその上に軽く乗せた。
そこまで、三人は無言でその男を見守っていた。
突き刺さる視線には気付いていたようで、男は周囲を見回す。
「なんだよ?」
いぶかし気に眉をひそめた男に向かい、由春が奇妙に優しい声で呼びかけた。
「
「大丈夫って何が? オレが納品にきたから? この時間は工場も閉じているし、すぐに戻らなきゃいけないわけでもないけど」
言い終わりを待たずに「伊久磨」と声をかけられ、頷いてから伊久磨は退路を塞いで捕獲に乗り出した。
「
伊久磨に行く手をふさがれたその男、椿香織は目を細めて冷ややかに微笑んだ。
「なに? なんなの?」
「人手が足りない」
「うん、だから? まさかそれ、今夜は返さない的なノリ?」
にじり寄る伊久磨を微笑みで牽制する香織のすぐそばに由春が歩み寄り、コートの合わせ目に無造作に手を伸ばした。
「この下何着てる? エプロンあればいけるか?」
「おいこら! 勝手に脱がすな! 手伝うなんて一言も!」
「コースの最後はお前のところの和菓子だぞ? なんだったら今からお品書きに『椿屋謹製』の文字を入れてきてもいい」
「余計なことはしなくていい。するな」
忌々し気に由春の手を振り払い、香織は柳眉険しく伊久磨と由春を交互に睨みつける。
「どうせお前ら失敗しないじゃん。なんとか乗り切るんでしょ?」
「今晩乗り切れるかどうかは香織にかかっている」
「やめてよそういうの」
香織は、その性質として常日頃から押しに弱い。ほだされやすい。しかも今晩は、料理に幸尚が引っ張られるので、コースのしめの甘味は外注。香織が若旦那として経営に携わり、なおかつ職人としても働く和菓子屋の菓子である。会食が不調に終われば共倒れで評判が落ちるぞと言わんばかりの脅しまで受けて、大変嫌そうに溜息。
「……二度はないからな」
不承不承だぞと言わんばかりに押しつけがましく言ったものの、「はい来た」「はい解決」と由春と伊久磨が手を打ち合わせているのを見て、苛立ったように頬を引きつらせる。
そして陰々滅滅と呟いた。
「覚えてろよ」
*
テーブルを一列に並びかえ、白のクロスをかけて黒い漆塗りの半月型の懐石盆に箸置きと箸をセット。銀糸の飾り文字で店名の刺繍の入った厚手のナプキンを中央に置く。
伊久磨のセットを見ながら、香織は各席にガラスのコップを配っていた。
「ノンアルコールの忘年会なんて珍しいのな。乾杯はお茶とノンアルビール?」
「いや、十人だし、ファーストドリンクからオーダーはとる。通常のソフトドリンクに加えてノンアルコールカクテルメニューも用意している」
伊久磨がテーブル上に適当に四枚置いた一枚を差し出して見せると、「サングリア、シャーリーテンプル、モヒート」と香織が読み上げた。
「これ、ゆきが担当?」
「そうなるだろうな。俺はあまりこの場を外せないというか、料理運んで下げてで手一杯だろう。岩清水さんの補助、洗い場、ドリンクに幸尚が入るから、いつもみたいに仕上げに手のかかるプレートのデザートは無理ってなったわけだし」
黒のタートルネックセーターに、黒のチノパンだった香織は、借り物の黒のソムリエエプロンを身に着けている。なお、伊久磨も上がシャツであるだけで見た目はほぼ同じ黒一色。
自分の姿に目を落としてから、物言いたげな視線を投げかける香織。伊久磨は目だけで「なに」と聞き返す。
香織は端正な顔をほころばせておどけたように言った。
「黒服さん」
本職は和菓子職人であるところの香織は長身細身で、茶髪長髪をうなじで一括りにしている、あまり堅気ではない空気の持ち主だ。
一方の伊久磨はといえば、さらに上背があって、だいたい成年男子の平均を二十センチ上回っている。
「ちょっと威圧感ありすぎか」
外部の人間の忌憚ない意見を、と促すと香織はぱたぱたと軽く手を振って笑いながら言った
「べつに。慣れればどうってことはない」
その後料理の打ち合わせをしていたところで、予約の十九時間近となり、香織が出迎えの為に表門まで出て行った。
レストラン「海の星」は。
オーナーシェフの由春が「レストランを繁盛させる」という条件付きで知人から引き受けた建物で、駅からは離れているがまさしく「隠れ家」的な威容がある。
さすがに時期的に煉瓦と格子の塀に絡んだ蔦草は枯れているし雪に埋もれてもいるが、それでも門から玄関にかけてのブリティッシュガーデンに、木々に施したイルミネーション、そして堅牢な石づくりの建物を見れば、ささやかではあっても「異界」に足を踏み入れた感覚を醸し出すのを狙った造りになっている。
ただし、古い建物なので何かと段差が多い。「段差は視覚的に景色が切り替わって新鮮味を感じてもらう演出」と言えなくもないが、バリアフリーとの相性の悪さは格別で、客の足元は気になるところ。いつもは最初の客は門の前で出迎えて案内をするようにしている。
それを知っている香織が、「伊久磨は中でやることやってて」と言って外に出迎えに出たのだ。
ほぼ全員が同時に着いていたようで、大きな荷物を受け取りつつ客を玄関口まで連れて来た。
予約は一グループのみなので、名前を聞くこともなく、入口でコートを預かる。
景品付きのビンゴをするとのこと、持ち込みの荷物がやや多い。
老齢で白髪頭の院長以外は全員女性で、院長婦人を除けば二十代から四十代くらいといったところだ。ベテラン看護師風の女性は客として見覚えがあるが、それ以外は初めましてだった。
あからさまではないにしろ、端正な容貌に人好きのする笑みを浮かべた香織に好意的な視線が集中している。
伊久磨は、身長でひとを威圧することが多いのを経験上知っているので、あまり女性陣には近寄らずに挨拶をしながら院長のコートを預かった。
「今日の料理も楽しみにしているよ」
「ありがとうございます。ごゆっくりどうぞ」
そつなく笑み交わしたところで、院長婦人がにこにこと笑みを浮かべて歩み寄って来ると、「今日はよろしくお願いしますね」と言いながら和紙のぽち袋を差し出してくる。
「お代に含まれてますので」
と、やんわりと断ったが「気持ちですから」とぎゅっと胸元まで押し付けられて、受け取ることにした。
(香織も巻き込んだし、打ち上げにでも使おう)
心付けにかんしては、絶対に拒否という方針ではない。しかし、何か手柄があるとすればそれは伊久磨ではなくキッチンの二人であると信じているので、受け取ったものをポケットに入れてしまうことはない。オーナーシェフである由春にもすぐに報告するので、後から由春がホストに挨拶に出て来るだろう。
玄関口でのやりとりの間に全員が揃い、化粧室の場所を説明してからテーブルに通す。
ドリンクのオーダーをとり、全員に配る間に院長の短めの挨拶があり、会食は和やかにはじまった。
最初の料理を香織と手分けして運ぶ。赤い漆椀が全員に行き渡ったところで、ぱらぱらと客自身で蓋を開け始めた。
わぁ、とさざめきのような感嘆がもれる中、院長の視線を受けて伊久磨が通る声で説明する。
「聖護院大根のふろふきです。ふり柚子がしてあります。まずは冷えた身体を温めてください」
出だしが大根なんてとは思ったが、大振りに切って綺麗な器に盛りつけると確かに家庭料理とは一線を画す迫力になる。研ぎ澄まされた包丁で由春が切っている仕草は、それだけで並々ならぬ集中力を思わせたし、味は折り紙付きだ。
あちこちで「美味しい」という声が上がる。伊久磨は思わず頬をほころばせつつ「どうぞ、器に口を付けてお出汁までお召し上がりください」と言い添える。
そのとき、「いや、これは今日は少し飲もうかな。日本酒は置いているのか」と院長が伊久磨に声をかけた。
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