第2話
Merry Christmas,Mr.Lawrence
昼食後。
(あああ、亀さんたちには悪いけど、すっぽん美味しかったです。ごちそうさまです……!)
まかないの後片付けを済ませたところで、由春がホールの片隅で観葉植物に囲まれている古いアップライトピアノに向かい、立ったまま軽く鍵盤をたたき始めた。すぐにその気になったようで、椅子に腰かけ、前のめりになって曲を奏で始める。
料理を作る上に、ピアノも弾く。器用な指だ。
「なんだっけこれ。戦場のメリークリスマス?」
窓から差し込む日差しの中、だらりと客席のテーブルに突っ伏している幸尚に伊久磨が声をかけると、ピンク頭がぴょこんと起き上がる。
「たしかそういう。だけどあー……あれですよね、あれ」
テーブル数が多くない「海の星」は、基本は三人きりのスタッフで運営している。幸尚は最年少。色白で目鼻立ちがくっきりしており、線の細い可憐な容姿で、作り出すスイーツもファンシー寄り。
どことなく「可愛い担当」のような認識を持っていたのだが、さきほどの血塗れで微笑む姿を見て、認識は若干変わった。
「疲れてる? うちで一番若いのに『あれ』で全部の会話を済ませようとするなよ。なんだよ」
伊久磨は、苦笑しながら飴色に輝くテーブル上に広げたディナーのお品書きに目を落とす。毛筆による流麗な筆致は由春の手によるもので、和紙風のコピー用紙に印刷している。
「あー、いや。最近、欧米では『メリークリスマス』って言わないようにしようっていう向きもあるとか」
幸尚が考えをまとめようとするように、たどたどしく言い始めた。
「ああ、方々に配慮した関係で、って奴だな」
「そうそれ。そういうのが広がったら、昔の映画とか、曲名とか、どうなっちゃうのかなって」
「さて。昭和を描いたドラマの喫煙シーンにまで、配慮の声が上がる世の中だ。日本も他人事じゃないというか」
雨垂れのように響くピアノに耳を傾けながら、心持ち控え目な声で会話をするも、あまり続かない。話しているよりも、ピアノを聞いている方が心地よいせいかもしれない。
曲調が、激しさを増す。
伊久磨はちらりとお品書きから顔をあげ、コックコートの由春の後ろ姿を見た。地毛だという茶色っぽい髪は、重力に逆らってたてがみのように伸びている。
若い頃からどれだけ密度の濃い時間を送ってきたのか、二十代半ばにして技量は確かな由春。
すっぽん殺しすぎ、と言ったら「ウサギもさばける」と血まみれの姿で余裕そうに笑っていた彼は、いつ異世界召喚されても生き延びていけそうな野性味がある。
それでいて、気まぐれに弾くピアノの音は優しい。
「修行先は、フランスやイタリアだって聞いていたんだが。和食もいけるんだな、あの人。すっぽんを使うなんて」
昼の日替わりは、フレンチをベースに、創作料理の範囲で内容は幅広い。
夜はコース料理のみで、近隣ではやや強気の価格設定。普段遣いよりも記念日利用を想定した「少し高めのレストラン」の位置づけだ。
集客が厳しかったオープン一年目を三人で乗り切って、最近では固定客もしっかりついている。
忘年会の予約を入れてきた常連客に対し「一万円台のスペシャルコースでも満足頂ける内容で提供します」と、由春が打ち合わせで言い出したのはさすがの自信だとは思ったが、客も待っていたとばかりに了承した。これまでの腕を買われてのことだろう。
(すっぽんとは思わなかったけど。俺もあれこれ慌てて勉強した)
料理に関しては、由春が客対応の説明に必要なことのすべてを教えてくれるが、不測の事態に備えて伊久磨自身もメニューが出た段階で予習はするのだ。
「そもそも、ハルさんは、魚介類強いですからね。亀くらい平気なんでしょう」
眠そうな声で答えながら、幸尚は再びテーブルに突っ伏してしまう。
「日本以外でも亀って食べてるのか?」
伊久磨が声をかけたときには、すでに寝息をたてていた。三秒で寝られるのがすごい。
答えを得られなかった伊久磨は、顎を指で軽く摘まんでみた。
そしてふと思う。
(亀って、分類上は魚介類なのか?)
悩みがつきず、休憩の間ひとりで検索し続けることになった。
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