第四話 親子 (05)

 インターホンの音が聞こえて華は「よいしょ」と掛け声をかけて長イスから立ち上がった。

 いつもより訪ねてくる時間は遅かったけども、きっと彼だろうかと思って受話器を取ると予想通り睦月だった。昨日、慌てて調査を中断して屋敷を飛び出したので何かあったのだろうかと想像する。


 玄関で出迎えた彼は、酷く儚げな表情をしていた。

 様々な経験を積んできた華はすぐに気がついた。

 彼が大切な何かを失ったことを。


「昨日はすみません。その、いきなり飛び出したりしまして。それに、今日もいつもより遅くなったのに何の連絡も入れて無かったですよね」

「お気になさらずに。まずはお茶にしましょうか?」

「いえ、遅くなったので今日はこのままDOORに入ろうかと」


 華がいつものようにそういうと睦月は提案を断った。それは華の屋敷に来るようになって初めてのことである。睦月は彼女の入れるお茶を楽しみにしていたはずだし、彼女との会話も楽しんでくれていると思っていた。もちろん、睦月の言うことも分かるのだ。だけど、やっぱり何かあったのだと華は感じていた。

 彼が一度も目を合わせようとしないから。


「そんな事言わずにね。おばあさんの唯一の楽しみを奪わないで頂戴」

「いや、でも…」


 歯切れの悪い物言い。

 華と話をしたくないのではない。誰とも話をしたくないのだろう。


「そういわずに、ね」


 一人にしたら駄目だと思う華はそれでも諦めずに強引に睦月の腕を引っ張っていく。睦月は浅葱の胸を借りたことで、少し落ち着きを取り戻していた。それでも、メイを失ったことは大きかった。だから、別のことで頭を一杯にしたくて、片付けも早々に事務所を飛び出してきたのだ。

 浅葱といるといいこともあり、悪いこともあったから。

 彼女はやさしい。

 それが辛かった。


「あの、今日は、その…」

「じゃあ、こうしましょう。私も一緒にDOORに入るというのはどうでしょう。それだと、中の調査も出来るし、私ともお茶できるし、一石二鳥じゃないかしら?」

「いやいや、さすがにそれは…」

「とてもキレイなところなのでしょう?私も見てみたいわ」

「あのですね。中はすごく危険なんです。調査もまだ終わっていませんし、中に入ることは許可できません」

「不思議なことをいうのね。DOORの持ち主は私なのでしょう?如月さんの許可が必要なのかしら」

「いや、それは…そうですが…」

「ね、そうと決まったら、行きましょう。私はお茶の用意をするから、如月さんはイスを準備をしていただけないかしら」


 そういって、華はキッチンに戻って戸棚から飛び切りの茶葉を取り出した。お湯を沸かせて、トレイの上に茶器とお茶菓子を用意する。戸棚の中から”江島”のバタークッキー”を取り出して、数枚お皿に並べる。バタークッキーだけど、しつこくなく睦月の評価も悪くなかった。

 沸いたポットからお湯を注ぐと、ティーポッドから甘い香りが漂ってくる。

 トレイを両手で優しく抱えて、睦月のいる客間へと向かった。


 通信機を装着した睦月がだれかと話をしている。きっと、助手の方なのだろう。彼がどういう風にして調査をしているのか話には聞いていたから。一度、仕事の依頼をしたときに話したことがあるけども、快活で元気なお嬢さんだったなと華は覚えている。話が切れるタイミングを待って、華は話しかける。


「それじゃあ、入りましょうか。すごく楽しみだわ」

「気をつけてくださいね。それから、中では僕の言うことを聞いてもらいますので、勝手な行動はしないようにお願いします。まだ、すべての脅威の確認が取れたわけではありませんので」

「ええ。もちろん。頼りにしてますわ」


 睦月の後を付いて、華はDOORを潜り抜ける。その先には簡易テントが張られているので、DOOR内部に入ったという感じを受けなかったものの、空気の質の違いに異界に入ったのだという感覚を華にもたらした。睦月に手を惹かれる形で、テントを抜けると、筆舌しがたい景色が両の眼に飛び込んできた。


「きれい」


 口の中だけにこぼれる微かな呟き。

 まさに言葉を失う絶景に、華の意識は持っていかれる。睦月が感じたのと同じように、この世界の夜景はただ美しいだけではなく、見るものの心に訴えかけるものがあるのだ。華は子供の頃に育った田舎の景色を思い出した。群馬の片田舎、山と川と畑しかなかったふるさと。

 景色は全く違うのに、目の前に広がる景色には郷愁を感じさせる何かがあった。


「華さん、こちらにかけてください。お茶は僕が入れますから」

「え、ええ。ありがとう。これは本当にすごいわね」


 突然の暗闇でも、徐々に目が慣れてくると星空だけでなく山の稜線や森の木々の影も姿を現してくる。目に入る景色も、音も、においもまるで違うのに、華は幼少の自分を思い出す。

 小さい頃、男勝りだった華は近所の男のたちと一緒に遊びまわっていた。川で魚を取ったり、森で虫を捕まえたり。その子供達の中に、華の亡くなった旦那もいたのだ。一瞬にしてそれらの光景が脳裏に浮かんできた。

 華の頬を一滴の涙が零れ落ちる。


「華さん?」

「…あ、ああ。ごめんなさい。不思議なところなのね、ここは。ちょっと、昔のことを思い出していたわ」

「大丈夫ですよ。僕も小さい頃のこと思い出したんです。華さんの田舎はこんな雰囲気のところなんですか?」

「いいえ。まるで違うわ。でも、どういうわけか懐かしい気持ちになるのね。星空のせいかしら。東京じゃこんな空は見れないもの。いいえ、違うわね。田舎に行っても日本じゃ、もうこんな風景は見られないかもしれないわ」


 とても悲しそうに華は薄く微笑んだ。

 持ちこんだ紅茶を一口含み、また夜空に顔を向ける。

 睦月も釣られるように空を見上げると、無数の星がキラキラと輝いていた。街が明るすぎるせいで、東京では星空は見えない。田舎に行けば星空は見えるのだ。だが、日本の空気は汚れている。工場があちらこちらに建設され、自動車の出す排気ガスのせいで、空気が澄んでいないのだ。

 華はそのことを言っているのだろう。

 彼女が幼少の頃にはもっと空気が澄んでいたから。もっとたくさんの星が天空を飾っていたから。


「子供達にもここの景色を見せてあげたいわ」

「見せたら良いんじゃないですか?」


 睦月は何も考えずにそう答えた。しかし、華は寂しそうな顔をすると、何かを口にしようとして再び閉じた。沈黙が流れ、紅茶を一口含んだ。


「私がこんな広い屋敷に一人で住んでいるのは贖罪なの」

「……」


 返答に困った睦月は無言になる。華はふぅと息を吐くと先を続けた。なんで、こんな話をしているのか自分でもわからなかった。きっと、この景色が昔を思い出させてしまったからだろうか。


「私は子供達から父親を奪ってしまったの…」

「それは…」

「私の夫はね、アルツハイマーだったの。日に日に物事を忘れて行ってね、最後には私のことも忘れてしまったわ。それだけでも悲しかったのだけど、あの人は暴言を吐くようになってしまったの。

 でもね、それは仕方がないことだったのよ。彼にしてみれば、いきなり知らない人が隣で寝ていたり、ご飯が食べたいといっても食べさせてもらえなかったり、不安で不安でしょうがなかったのでしょうね。分かっていたのよ。病気がそういう風に進行することは。

 でも、実際にそういう場面に遭遇すると、やっぱりちょっとつらくてね。

 それでも私は一生懸命にあの人の面倒を見ていたの。

 そしたら、或る日、あの人は突然自分を取り戻したの。そして、看病疲れでやつれている私を見て”ころしてくれ”とそう言ったの。彼も病状の進行がどういうことをもたらすのか知っていたから。私を傷つける言葉を吐いていると察したのね。それがつらかったのよ。

 だから私は…」


 ”あの人を殺したの”と聞こえるか聞こえないか囁くように華はそう話した。

 睦月はかけるべき言葉を失った。睦月にも経験があるのだ。妹が同じ言葉を口にしたことが。首から下が麻痺して人生に絶望していたとき、死を幾度となく思い浮かべた文月だったが、自力で事を成すことが出来ずに睦月を頼ったのだ。


 華は目の前の景色を見ながら、幼少のころ将来の夫となる少年と野山を駆けていた日々を思い出していた。


「子供達は理解してくれなかったわ。例えどんな理由であっても、私はあの子達から父親を奪ったという事実は覆らない。うちが資産家で、あの人の仕事の関係でいろいろな伝手があったから、この年で刑務所に入ることはなかったけども、代償はそれ以上だったわ。子供達はみんな屋敷をでて、口も利いてもらえなくなったんだもの」

「後悔しているんですか」

「してないわ。あの人の望みを叶えたんですもの」


 それだけは間違いなかった。

 華はこのことを家族以外に打ち明けたのは初めてだった。屋敷に最近来るようになった調査員のことを気に入っているとはいえ、不思議に思う。

 まだ、出会って1週間程度の付き合いなのだ。


 そんな人を相手に秘密を話すなどあり得ないと思う。でも、酷く心を傷つけた睦月を見ていると、世の中にはいろいろあるのだということを教えてやりたくなったのだろうか。


 ”いやね、説教臭くなるなんて、私がまるで年寄りみたいじゃない”


 ふふっと、心の中で笑うと華は顔を落とした睦月の方を見た。すると、睦月はふっと顔を上げて濁った眼を華にぶつけてきた。


「もしも、旦那さんの望みを叶えつつ、子供達との縁の切れない道があったとしたら?」

「ふふ、如月さんは贅沢なのね。もちろん、そんな事が可能だったのなら、その道を選ぶでしょうね。如月さんは自分の選択を後悔しているのかしら?」

「…してますよ」


 睦月は初めて自分の気持ちを素直に吐露した。妹の前でも、浅葱の前でも”後悔していない”と言い張っていたのに、華の前では素直になれた。


「…後悔しかしてないです。でも、僕にはどうして良いか分からなくて、妹を助けることを第一に考えて行動してきたけども、いざ、それが可能になったというのに、そのためには、諦めなきゃいけないことがあって…誰かの犠牲の上に救われることなんか、妹も望んでいないことくらい分かっているんです。でも、ほかに方法はないんです。妹の時間だって無限じゃないから。いつ何が起きるか分からないから。目の前にチャンスが転がってきたなら、拾うしかなくて。でも、そのためには…」


 華には睦月の話していることの一つ一つは理解できなかった。でも、彼の抱えている悩みの一端は理解できた。だから、自分が力にできる範囲でなら、力になりたいと思った。もしも、彼にその気があるのなら。


「それで、如月さんはどうしたいのかしら?」

「メイを助けたいです」


 強い想いの込められた短い言葉に、華はできる限り簡単に答える。


「助けたら良いじゃない?」


 睦月は苦笑する。華は他人事として言っているわけではない。睦月の心情に寄り添って、そう答えたのだ。


「ねえ、言える範囲でいいわ。何があったのか教えてくれないかしら。さっきも言ったけど、石動の名前にはそれなりに力があるのよ。如月さんができないことでも、できるかもしれないし」


 睦月は複雑な表情を浮かべると、ぽつりぽつりと華に語り始めた。話を聞いて華は一つ気付いた。もちろん、全く問題がないわけではないけども石動の力で何とかできそうなことでもあった。


「そうね。如月さんの説明を素直に聞いていて思ったのだけど、如月さんはメイちゃんを1億ドルで売ったの?」

「まあ、形はどうあれ結果としてそういうことになるのかと」

「ううん。私が聞きたいのはまさにそこよ。結果ではなく過程かしら?」

「それは…いやいや、まさか?」

 

 何かに気付いたらしい睦月に華はうなずきで答えた。


「如月さんが売ったのはあくまでも実家の家-契約書にはそう書かれているのでしょう」


 睦月の中の気付きを華がはっきりと口にした。


「そうか。そうですよね。契約にメイのことは出てこないです。当然ですよね。それをしたら人身売買でRDIは捕まります。僕が売ったのは華さんのいうように、ただの家です。それに、後から私物は引き取りに行くという契約になっているんです。メイのことを”私物”という言い方するのは、問題かもしれませんが、迎えに行っていいんですよね」

「ふふ、いい顔になってきたわね。如月さん、ところで今日の調査はどうするのかしら?」

「えっと、昨日も中途半端になったのに申し訳ないですが…」

「いいのよ。私は急いでないんですもの」


 話は終わったとばかりに、華はティーポットから紅茶をカップに注ぎ優雅な仕草で一口飲んだ。睦月の表情からはつき物が落ちたようにさっぱりとしていた。まだ、メイを取り戻せたわけではない。だが、絶望が希望に変わった瞬間、濁った瞳が光を放っていた。


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あとがき


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