第四話 親子 (03)

 白いきれいなシーツ、壁も天井も床もカーテンすらも真っ白で色のついたものは存在が許されないような空間に、一人の若い女性がベッドのリクライニング機能で体を起こして座っていた。男性のように短く切りこまれた髪の毛が、彼女のきれいな顔立ちを引き立たせている。


 彼女はテレビを見ながら首だけを動かして、ストローを通してジュースを飲んだ。品のない不精な動きに見えるが、それが精一杯なのだ。

 事故の後遺症で首から下の自由が奪われてしまっているから。


 彼女はそんなことなど気にならないかのように、テレビを見ながら快活に笑い声を上げていた。病室は個室で、テレビの音と、自分の笑い声、それにベッド脇の計器の無機質な電子音だけが彼女の世界。


 そこにノックとドアを開く音が聞こえてくる。

 彼女の知る限り検査の時間でも食事の時間でも、排泄その他のためにヘルパーが来る時間でもない。つまり、残された可能性は一つだけ。


「お兄ちゃん!」


 テレビを見ているときとは違う嬉しそうな笑みを浮かべて首を限界まで横に向けて部屋に入ってくる睦月に呼びかけた。彼女の唯一の肉親で、病院関係者以外でここを訪れてくれる唯一の人。

 入院した頃はお見舞いに来てくれた友人も、気付くと顔を出さなくなっていた。その程度の友人関係だったのだろうと寂しくは思うが、兄だけはずっと傍にいてくれた。

 最近は知り合いの子供の面倒を見なきゃいけないとかで、見舞いに来る頻度が減っていたので殊更にうれしいのだ。でも、この日の睦月はいつもと様子が違っていた。


「文月。調子はどうだ?」

「いつも通り問題ないよ。でも、聞いてよお兄ちゃん!音子さんが髪を緑色にしてたんだよ!あれはビックリした。前から独特のファッションセンスだったけど、緑だよ。緑。でね、これが似合ってるんだよねぇ。音子さんきれいだし」


 睦月の様子を不可解に思いながらも、文月は殊更明るい声で話をする。音子は文月専属の介護士で、ありとあらゆる世話をしてくれる女性だ。もちろん、音子にとって文月の介護は仕事ではあるけども、一年以上長い時間を過ごしているお陰で二人は親友のように仲良くなっていた。

 睦月はベッド脇の椅子に座り、買ってきたお菓子を取り出した。


「もしかしてエキュバのチョコ?」

「正解」

「やった!さっすがお兄ちゃん」


 睦月は包み紙を外して文月の口に一欠けら放り込む。それを文月は頬をとろけさせて、濃厚なチョコの甘みを堪能する。文月の幸せそうな顔に満足して、兄も一つ口に入れる。


「ちょ、それ私の!」

「なんだよ。僕の分はないのか?」

「ふふっ、うそうそ。ねえ、今日はどうしたの?いつもは夕方か休みの日なのに、朝からなんて珍しいよね」

「あ、ああ。今日は文月にいいニュースを持ってきたんだ」

「ホント!えーなになに?もしかして結婚?」

「悪い、そのニュースはまだしばらく聞かせられないわ」

「はは、お仕事忙しそうだもんね」


 文月は、決して兄が”モテない”とは思わない。彼女がいないのは文月の面倒を見たり、会社を作って忙しいせいだと思っている。それに、最近は子供の世話までしているというのだ。人が良くやさしくて、ちょっと損をしているのかもしれないけども、どちらかといえば”モテる”はずだと確信している。


 DOORの調査員というのは、憧れるものも多い職業だ。

 テレビや漫画で描かれる探偵と同じように、調査員を題材にしたエンタメ作品は数多い。そんな職業についている兄はむしろモテモテだろうと。


「それで、何があったの?もったいぶらずに教えてよ!」

「ああ、文月の病気治せるんだ」

「えっ!?」

「売れたんだ。家にあったDOORが。エリクシールが手に入るんだよ!!」

「……」


 言葉を失い目を白黒させる文月。

 病気が治る。

 それは現代医学では不可能な奇跡。

 睦月は何とかして見せると、文月に約束をした。

 その言葉が嬉しかったし、励みになった。けれども、文月は分かっていた。それは夢物語だと。机上の空論。エリクシールが現実のものだと理解しているけども、届くわけがない。なにしろ100億だ。一般人が逆立ちしたところで手に入るお金ではない。

 国内で販売されている宝くじの一等を何度当てればいいのだろうか。

 一度の奇跡じゃまるで足りない。


「ホントなの?」

「ほら、見てみろよ」


 睦月が見せたタブレットは英語で書かれたメールだった。文月は英語が得意というわけではないので、ゆっくりと単語を拾っていく。たっぷりと時間をかけて、書かれている内容を理解する。

 それによると文月がエリクシールの順番待ちのリストに名前が登録されたこと、現時点での予想では凡そ2年後に彼女の番が回ってくるということだった。

 メールにはIDとPASSワードがあり、リストに名前のある人にしか教えられない情報が載っていた。その内容を読みながら、徐々に文月の中に現実感が湧き上がってくる。


「すごい!すごいすごいすごいよ。お兄ちゃん!!」

「な、だから言っただろ。僕に任せろって!」


 大仰に胸を叩いて歯を見せる睦月だが、何かがおかしいと文月は思う。


「お兄ちゃん?」

「ん?どうかしたのか?」

「ねえ、なんで、さっきから目を合わせないの?」

「そんなことないだろ?」


 と、ワザとらしく目を合わせてくる睦月。その目を見て文月はようやく分かった。その目を知っているから。


「何でそんなに悲しそうなの?」

「……」

「なんで泣きそうな顔をしてるのよ」

「…何言ってんだよ。そんなわけないだろ。嬉しいに決まってるだろ。お前の病気が治るんだ」


 そういいながら、再び目を逸らす睦月。

 力ずくで自分のほうを向かせたいと思うが、それが出来ない自分の体を不甲斐なく思う。睦月の目。それは大切なものを失ったものの目だ。

 文月が両親を事故で失い、首から下の自由を失ったときの自分と同じ目をしている。


「何があったの?」

「何もないって。その、あれだ。分かるだろ。DOORを売ったんだ。つまりさ、俺達の育ったあの家を売ったんだ。もちろん、親父やお袋の仏壇とか僕達の私物は回収するけど、家ってそれだけじゃないだろ。文月だっていろんな思い出があるんじゃないのか」

「…違うよね。そりゃあ、私だって実家が人手に渡るのは悲しいよ。悲しいけどそれだけじゃないよね。お兄ちゃん、鏡見てみなよ。自分がどんな目してるか分かってる?」

「…うるせぇ」


 小さな小さな声。

 文月の耳にすら届かない声で睦月は反論する。言われなくても分かっているのだ。自分がどんな目をしているか見なくても分かっている。

 事故直後の文月や、町で再会した時の浅葱と同じ目。

 きっと自分は、ふたりと同じような目をしているのだろう。

 だから、何だというのだ。


「…お兄ちゃん?」

「文月の体は治るんだ。それで良いだろ。何が不満なんだよ」

「そんなことない。嬉しいよ。嬉しいけど…だけど、お兄ちゃんが不幸になるなら私は…」

「治らない方がいいっていうのか!?」

「違うよ!そうじゃなくて…」

「なんだよ。俺がどんな思いで…」


 兄が何を言おうとしているのか、文月は答えを待った。きっと、言うべきことではないと思っているのだろう。兄の葛藤が何であるかはわからない。なんといえばいいのか、言葉を探しているうちに睦月が立ち上がる。


「帰るわ」


 目を合わせることが出来ず、睦月は逃げるようにして病室を後にする。

 残された文月は、追いかけることの出来ない体が悔しくて悔しくてたまらなかった。兄が何かを失ったのは間違いないのだ。それが自分のためであることもおそらく正しい。それはとてもショックだ。でも、そのことよりも、絶望的な眼差しをした睦月に手を差し伸べられなかったことが無念でならなかった。

 両親を失って生きながら死んでいた文月を、正しい世界に呼び戻してくれた兄に、恩返しできるのは今しかなかった。なのに、何も出来ないのだ。忸怩たる思いに歯噛みしながら兄のことを想った。


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あとがき


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