第一話 下請け(07)
コーヒーの香り漂う古びた喫茶店の一角で、A4のコピー用紙でつづられた報告書を青い瞳のブロンド美女が一枚、一枚捲っていく。店内を流れるBGMの合間を縫うように、コーヒーをすする音に、カップとソーサーの当たるカチカチという音が響いた。
睦月は強張った面持ちで、彼女が報告書を読み終わるのを待っていた。
緊張で喉はからっからに乾燥していたけども、コーヒーに手を付けることすらできずに真っ直ぐな姿勢で椅子に背中すらつけずに座っていた。
喫茶店に足を踏み入れた瞬間から、表向き笑みを貼り付けた-内心不機嫌な彼女の表情に戦々恐々としながらテーブルについたのだ。
機嫌の悪い理由は不明だ。
そもそも、DOORの調査報告書ならメールで済む話である。というか、暗号化したデータは送信済みである。にもかかわらず、彼女は直接報告を受けるからとわざわざ足を運んだのだ。RDIの調査員が忙しさのあまり総動員されているというのにも関わらず。
つまり、彼女が欲しているのは行間。睦月が何を感じたか、それが知りたいのだろうか。
だけど、と睦月は思う。
報告書に書いている以上のことはない。
調査開始こそ躓いたものの、あのDOORに特筆すべき点はない。
部屋数は全部で5つ。すべての部屋に共通して、6メートルの立方体の部屋で、重力は地上の3倍。ただし、重力の方向は各部屋異なり、その方向も100時間ごとに変化するということが判明した。それでも、法則は判明したため、分かっていれば対処の方法はいくらでもある。
RDIの調査時は、重力方向が違うタイミングでの調査が行われた無かっただけであろう。つまり、睦月の運が悪かっただけかもしれない。調査漏れが起きなかったという点に関しては、運が良かったとも言えるわけだが。
「なるほど、外側からの調査では足りないこともあるということね。これは一つの教訓になるわね」
「はい」
緊張した面持ちで睦月は頷く。
あの後の調査でも何度か確認した限り、調査員の体が外に出ている状態から気圧計を内部に入れて数字を読んでも、どういうわけか地上の数値しか記録できなかったのである。空気成分の調査にしても、外側から管を差し入れたりして内部の空気を採取していたのだ。今後、方法を見直す必要があるということだろう。
「それにしても。1年フリーでやっていたわりには、仕事の質は変わりないみたいね」
「まあ、鍛えれましたから」
書類の束をテーブルの端でトントンとそろえると、そのままカバンにしまいこんだ。RDIを辞めたところで、報告書は常に必要なのだ。雇い主への報告に加えて、世界中のDOORを管理している団体にも提出が必要になる。
「さて、もう一つの報告を聞かないといけないわね」
何気ない一言で、部屋の温度が一瞬にして5度は下がった。
真冬の外気よりも冷たい空気が目の前から吹きすさぶ。
「えっと…あれですか?所感というか…そうですね。まあ、重力異常があるわけですから、例えばトレーニングジムとかに使えるかもしれないですね。重力の向きが変わるのがネックですが…」
「そう、とぼけるのね」
「っ!!!?」
彼女の左手がコーヒーカップに伸びると、細いきれいな指がカップの取っ手をつまみ、そのままピキっと音を立てて取っ手が千切れた。
「な、な、な、な!!」
RDIの元同僚。
元上司と部下。
そんな関係性から、教官と訓練生のあの日に戻る。
地獄の日々。
いつか殺される。そう思わずに入られなかった日々。逃走することを考え、失敗したときのしごきを想像して、実行に移すことすら出来なかったあの日々。日に日に肉体的にも精神的にもやつれていく同期。鏡を見たときの生気のなくなった自分の目。
冷や汗が流れ落ちた。
「あの、左手怪我してたんじゃないんですか?」
カップの取っ手を破壊したのは、半年前に汚したはずの左手。
「私がいつ怪我をしたといったのかしら?」
「…っ!!」
依頼を受けたときのことを脳内で再生してみると、確かに彼女は”怪我をした”とは言ってない。”半年前…”という言葉と左腕を擦る仕草から睦月がそう思い込んだだけである。まさか、嘘なのか?いや、それなら、怪我をしていないのなら、なぜ超一流の調査員であるケイトが前線を外れているのだという疑問が残る。だが、いまはそんなことを考えているヒマはない。
「優秀な助手を雇っているようね」
仕事の依頼をしたときには、”使えない”と履き捨てた評価はどこへ行ったのか。浅葱の評価を書き換える。だが、彼女には英語がしゃべれない…はずだった。まさか、彼女も嘘をついていたのだろうかと睦月は思う。
彼女は言っていた”私はどんなことにも全力でやる”のがモットーだと。まさか、この短期間で英語をマスターしたと。たった一文、覚えるくらいは出来てもネイティブと話すのはハードルが高すぎる。
額に脂汗が浮かぶ。
青い瞳に射すくめられ、彼女のぷっくりとした唇から決定的な言葉が飛び出してくる。
「猛獣使いってどういうことかしら」
「へっ?」
「私の元旦那のこと、そう呼んでいたそうね」
彼女の指の中で弄ばれていたカップの取っ手が粉みじんに粉砕される。パラパラと木目のテーブルの上に白い粉が舞い落ちる。
「どういう意味かしら?」
人は視線で殺せるらしい。ケイトの視線は明確な凶器となって睦月に突き刺さる。見つめられるだけで、超重力のDOORに入ったとき以上の重圧を感じて、息苦しさを覚える。何か言わなければ、と睦月は考えて
「…そ、それは、ほら、確か旦那さんって学校の先生って話でしたよね」
「ええ」
「いまどきの子供達ってよく分からないっていうか、妙に知恵が回るというか、平気で人を傷つけたり、獣みたいなものじゃないですか。つ、つまり、そういうことですよ。学校の先生っていうのはある意味で猛獣使いじゃないかなって。そういう話です」
真冬というのに、滝のように流れ出る汗を拭いながらしどろもどろの説明をする。我ながらまずまずの言い訳だと思いながら。しかして、ケイトの表情に変化はない。ほんの僅か、目を細めただけ。
「そう」
取っ手のなくなったコーヒーカップの口を円を描くように、指先でつぅーと撫でていた動きがとまり、かるーくデコピンするようにカップを指先で弾いた。
高い金属音が店内に響く。
パカっと擬音が聞こえてきそうなほど、キレイに真っ二つに割れたカップが右と左に倒れ、僅かに残っていたコーヒーがソーサーの中に流れ出る。
果たして、これは現実の光景だろうかと睦月は思う。
「だ、だからですね…」
「睦月」
声を荒げるわけでもない、静かな静かな声音。だが、嵐の前の静けさのように、静かであればあるほどその後の猛威が想像できて睦月の肝を冷やす。
彼女はすぅっと、握手を求めるように目の前に左手を差し出した。
「ふふ、まあ、いいわ。今回の仕事ご苦労様でした」
「なんで左なんですか?」
「だって、右手は怪我してるのでしょう?」
「…」
100歩譲っても、仕事の完了をねぎらっての握手でないことは一目瞭然だった。そして、手を出せばどうなるのかも分かりすぎるほどに分かっている。
彼女がどのくらいの力を有しているのか、さっきから幾度と無くデモンストレーションをしているのだ。そもそも、睦月は知っている。彼女の握力が胡桃を砕けるのだと。
諦めると同時に睦月は思う。
手の一つで済むのならマシかもしれない。
恐怖に染まった思考は、正しい答を導くことを放棄する。右手を怪我している睦月が左手を砕かれれば、日常生活に支障を来たす。だが、彼女の手を振り払うことの方が恐ろしい。魂に刻まれた上官への絶対服従の心。睦月はこれから起こることがわかっていながら、左手をゆっくりと差し出した。
「一つだけ、教えてください」
「なに?」
「助手からどうやって聞き出したんですか。彼女は英語はしゃべれないはずですが」
「あー、あの子。フランス語すごく上手だったわ」
睦月の左手とケイトとの左手が重なった。
突き抜ける激痛により、静かな店内に絶叫が響いた。
気の遠くなる痛みのなか睦月は思い出す。ケイトの出身地、カナダは英語と共にフランス語もまた公用語であり、特にケベック州はフランス語こそメインであることを。
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あとがき
読了ありがとうございます。
第一話完了です。
次回から第二話が始まります。
動きのない地味な絵面から、動きある世界に進みます。
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コメントなど返事しますのでお気軽どうぞ。
引き続き宜しくお願いします。
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