第8話 戦いの後

逃げろ。逃げろ。逃げろ。



 足の裏から血が出ていることにも気付かずに、地面を駆ける。


少しずつ酸素が無くなって、目の前が暗くなっていく。


それでも走る。走る。


雨の音になんて気が付かない。泥濘となった地面に足が埋まっていく。


走りにくい。それでも走る。走る。


何から逃げているのかなんてもう思い出せない。


それでも走る。人間として生きる為に。


 急激に地面と顔の距離が近くなる。水を弾く音をたてて盛大に転んだ。石に躓いてしまったようだ。


「っ!」


 立ち上がれない。足を見ると見るも無残に腫れている。それに気付くと同時に足の裏の傷が痛みを帯び始める。


 逃げなきゃ。逃げなきゃ。


 這いつくばいながら必死で身体を前に進ませる。


「もう嫌だ。あそこには戻りたくない!」


 いつの間にか後ろには何人もの人間が無機質な表情で立っていた。その人間の顔が、姿が、仕方なく怖かった。


 逃げなきゃ。逃げなきゃ。あんな所には戻りたくない。俺は自由になるんだ。


せっかく出ることが出来たというのにまた捕まってあんなところに入れられるのか。嫌だ。もう緑色になった水は飲みたくない。ゲロみたいにぐちゃぐちゃになったもの食べたくない。そんな糞みたいなものに必死に縋ってむしゃぶりついていた自分に戻りたくない。


俺は家畜じゃない。人間だ。人間として生きているんだ。生きていくんだ。


夢だって作った。魔王を倒すとかそんな大それたことは出来なくても冒険者になって沢山の魔物を倒して村を救う。

その村の綺麗な女の人を妻に娶って子供を作って家庭を作るんだ。


それが出来ないなら商人になって果物を売ろう。なけなしのお金で好きな人に花を買ってあげるんだ。


それも出来ないなら農家になろう。それもダメなら漁師に。


いっそのこと盗賊団のリーダーとかもいいかもしれない。知らずのうちに村を救って感謝されたりする。沢山の仲間たちに慕われるリーダーなんだ。


人間たちは懐からナイフを取り出す。あぁ、殺す気だ。まぁでもあそこに戻るよりはよっぽどマシか。それなのにやはり必死に生きようとしている。


「死にたく……ない……。生きたい。生きたい!」


風を切り裂く音が耳に直撃した。何度か水を弾く音も聞こえた。


「そうだ。生きることを諦めるな」


 男は顔を覗かせた。顎に小さく髭を生やした男だった。 顔には男たちのであろう血が雨に流され汗のようになっていた。


          *


 目の前に少女の姿があった。正確に言えば運び屋は少女に覗き込まれているような状態だ。


「あっ……。大丈夫……ですか?」


 少女は瞳に涙を浮かべている。


「問題ない」


 運び屋は身体を起こす。すると、一瞬身体に電流がもう一度流れた。


「っ!」


「大丈夫ですか!?」


「あぁ、大丈夫だ」


 最も少女には運び屋の様子が大丈夫そうには見えなかった。酷く汗をかき、その癖肌を蒼白くしている。その様子はまるで少し前の自分自身だ。


「お前に怪我がなければそれでいい」


 運び屋は少女を見て安心したように息を吐いた。


「運び屋さん…………胸のは何……ですか……?」


 運び屋は俯く。運び屋としては少女にはあまり見せたくはなかった。あれは奴隷紋だ。


「あれは…………」


 それでも言うべきなのだ。本当のことを。


「そのまんまだ。俺は奴隷だ」


少女は心底驚いたようで目を丸くするどころか飛び出るくらいに見開いていた。


「......運び屋さんは奴隷じゃないとできない......んですか?」


「別にそんなことは無い。これは自分で刻んだ」


奴隷紋は普通の人間には刻めない。失敗は即ち死であるほどに危険な作業なのだ。

奴隷だからこそ、そんなリスクを押し付けられる訳であって、自ら好んで刻む人間など皆無だ。


「......どうして.......ですか?」


沈黙が空気を包む。運び屋はただ下を向いていた。


「......話したくないなら......大丈夫ですよ」


「そうか」


 運び屋は無表情で返事をした。


「どうして私を……助けてくれたんですか?…………仕事だから……ですか?」


 少女は不思議そうに無表情の運び屋を見た。


「…………勿論だ」


 運び屋は不思議だった。いつもなら即答するはずの質問に言葉が詰まってしまう。


「それでも…………嬉しかったです…………。どんな理由でも…………」


「そうか」


 奴隷のくちからそんなことを聞くなんて運び屋は思いもしなかった。今まで運んだ奴隷たちは運び屋に対して大いなる疑心を持っていた。勿論、少女もそうだったはずだ。


感謝をすることもせず、ただ疑い憎しみを向けるだけ。

しかし、それを不思議に思ったことはなかった。当然だ。どんなに親切にしたところで結局は仕事なのだから。


少女もそれを分かっている。なのにどうして。


「どうして俺に感謝をする。どうして恨まない」


「私に…………世界を見せてくれた…………から」


 太陽に月、魔物とかも。


「俺にそんな意図はない」


「別に…………いいんです」


「不思議な奴だ」


 運び屋は立ち上がり、歩きだす。


「馬車まで戻るぞ。もう少し今日は進む——」


 気付けばもう夜だった。


「火を起こさなければな」


 運び屋は少女を一瞥すると何かを考え、意を決したように口を開いた。


「…………少し手伝え」


 少女はポカンと口を開けていたが状況を飲み込んだのか嬉しそうに笑った。


「はい…………!」

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